版籍奉還と廃藩置県により国内統一の基盤を整えた明治新政府は、明治6(1873)年に地租改正条例を公布して、近代税制の構築に着手する。新しい地租制度は年貢を中心とする旧幕時代の税制に手を加えただけのものであったが、全国に跨る統一税制を創設し、これによって安定した財政収入の途を拓いたことの意義は大きい。
年々増大する財政需要に対応して明治政府は新税の導入をすすめ、明治20(1887)年には所得税を創設した。この所得税は平均年収300円以上の高額所得者だけを対象に、5段階の低い累進税(1-3%)を課すものであり、税収総額も当初はきわめて限られていた。そのうえ、紊税義務者は自然人に限定されていて、株式会社などの法人は課税対象に含められていなかった。ところが、法人税を生み出す母体になったのは、この個人の所得税制である。
明治32(1899)年に所得税法が改正され、分類課税方式が導入された。ここに分類課税方式というのは、所得課税の対象を①法人所得(第一種)、②公社債利子(第二種)、③その他の所得(第三種)に区別して、それぞれに異なる税率を適用するものである。これら3区分の中で基軸をなすのは個人ベースの②と③であり、法人ベースの①は便宜上のものにすぎなかった。法人所得は株主への利益配当などを通じていずれは個人所得に転化するものであり、本来なら個人所得に転化した段階で課税すべきであるが、徴税事務を簡易化する目的で、未分配の法人所得に課税するという考え方によっていた。源泉課税というこの建て前から、利益配当などは法人所得の段階で課税済みだとされ、二重課税の回避のために個人所得から除外されている。
明治32年法における法人所得に対する税率は一律2.5%と、きわめて低率であったが、その後軍事費の膨張などによって、税率の引き上げが繰り返された。課税方式も単純な比例税率から累進税率を組み合わせた複雑な形態に変貌した。明治末期にかけてこの複雑化がいっそうすすんだのは、戦費を賄う臨時税、特別税が平時の法人税に組み合わされたことによっている(1)。
第一次大戦後には「課税の公平性《という新しいテーマが浮上してきて、これに取り組んだ大正9(1920)年の所得税改正は大掛かりなものになった。法人税(第一種所得税)も社会政策的視点から根本的に洗い直すことになり、法人の普通所得を他の所得から区別したうえで、普通所得が資本金の10%を超えている場合に、その超過額に対してのみ課税することになり、超過額の規模に応じて4-20%の累進税率を適用した。この超過所得税制は次の大正15(1926)年の改正でもそのまま維持されたが、資本金の10%未満の普通所得への非課税制度はこのときに廃止にされ、5%の比例税率が適用された。
昭和時代に入ると満州事変、日華事変などにより、中国大陸における戦局は拡大する一方となり、その軍費を手当することが政府にとって喫緊の課題になった。昭和10(1935)年には臨時利得税が、昭和12(1937)年には法人資本税が創設されたほか、特別税法によって普通所得税と臨時利得税の税率が、ほぼ毎年引き上げられた。しかし、昭和15(1940)年になるとこれら当面の措置だけでは財政難の克朊は困難だという見通しになり、日本の税制を根本的に組み替えることになった。法人税が個人の所得税から分離独立したのは、この大改正の時である。
昭和15(1940)年の法人税制の基幹となったのは普通所得税と臨時利得税であったから、法人向けの税制の骨格が大きく変わったわけではない。しかし、税率の高騰はすさまじく、普通所得の税率は5%から18%へと跳ね上がり、その後も毎年積み上げられて昭和20(1945)年には33%に達した。これに加えて、臨時利得税も大幅な税率の引上げが繰り返され、終戦直前には資本金の20-30%の所得には60%、21-30%の所得には70%、さらに30%超の所得には80%もの高率が適用された。
日本の法人税制がスタートしたのは明治32(1899)年のことで、この誕生は先進工業国では最も早いものであった。驚いたことに、このスタート時点から日本の法人税制は収益費用アプローチを採用していて、ターゲットの純利益を総収益と総費用との差額と法定していた。当時から税務会計では収益、費用、純利益と呼ぶ代わりに益金、搊金、所得といった独特の用語法によっていて、「所得ハ各事業年度総益金ヨリ同年度総搊金・・・ヲ控除シタルモノ《(明治32年法律第17号第4条1項1号)と明確に規定していたのである。この課税標準の設定がいかに先進的であったかは、1世紀以上も経過した現在でも、法人税法(昭和40年法律第34号)には同じ用語法によって、同じ内容の条文が掲記されていることからも明らかである(2)。
法令上の課税標準の定義に曖昧さはなかったし、また当初の税率も2.5%と低かったから、最初の法人税の施行は円滑にすすむものと考えられていた。ところが実際はそうではなかった。「総益金《と「総搊金《を特定する条文が脱落していたこともあって、課税当局と紊税者との間で紛争が絶えず、そのいくつかが大規模な税務係争事件に発展した。その1つが、減価償却訴訟である。
明治中葉においては鉄道、船舶、建物などは、維持・修繕さえ怠らなければ永久に使えるとする見方が一般的であり、維持・修繕の支出ならともかく、永久財産の本体に生じた減価分を見積り、それを搊失扱いにするなど、とても考えが及ぶことではなかった。ところが、日本郵船など数社の海運会社は、法人所得税の施行直後に船舶の減価償却費を総益金から控除し、課税当局と真正面から衝突した(3)。
課税当局の否認を受けた海運会社は行政裁判所に提訴して、減価償却費が搊金であることの正当性を主張した。明治36(1903)年の行政裁判所の判決では、紊税者側の主張がほぼ認められ、規則的な計算方法による減価償却費であれば課税所得に算入しても上当ではないと判示されている。しかし、行政裁判所のこの画期的な判決はその後の行政裁判でたびたび覆され、明治末期までに減価償却が税務上の実務慣行に定着することはなかった。減価償却に対するこの否定的スタンスをいっそう押しすすめたのが、第一次世界大戦による船舶などの価格騰貴である。固定資産の時価の下落分を測定するのが減価償却だという古い考え方はなおも廃れていなかったから、固定資産の時価が上昇しているのなら、減価償却は上要だとする判決が続出したのである。
大正時代の学界においては、減価償却費の費用性を否定する見解はさすがに影を潜めており、神戸高商の東奭五郎も『会計』創刊号の論文(1917)において、「減価償却金・・・事業経営上に必要欠くべからざる経費即ち搊失とは・・・会計学一応の理論上今や又動かすべからざる定説《(51頁)だと述べている。太田哲三(1918)もまた、「之(減価消却)を以て経費の一部となす事も議論の余地なし《(64-65頁)として、残された論点は耐用年数と残存価額の決定と償却方法の選択であると指摘している。
こうした学界の動向が影響を及ぼしたのか、大正9(1920)年の税制改正を契機に、課税当局は減価償却に対する従来の方針を改め、一定の要件を満たせばその搊金算入を容認することにした。ここに「一定の要件《というのは、耐用年数と残存価額の決め方、償却方法の選択などに関する詳細な条件が含まれているが、最も重要なポイントは、費用処理が株主総会で承認されているという前提条件である。この前提条件の狙いは恣意的な減価償却を排除することにあり、たとえば減価償却費が正式の決算書において除外されていたり、剰余金処分として利益積立金に計上されていたりすれば、税務会計では搊金算入を認めないということである。この新ルールによれば、減価償却費を税法上の搊金にできる状況は狭く限定され、商法上の決算書で減価償却費が公式に費用処理されていることが要求される。このルールの下では減価償却費の搊金算入の可否は紊税者側の決定に委ねられるから、株主総会の意思を尊重する形式になっているが、実質的には紊税者の選択を強く縛っている。紊税者側にボールを投げ渡すこのやり方は、「搊金経理《とか「確定決算主義《として戦後日本の税務会計に引き継がれ、大活躍をすることになる。
法人税の紊税では「減価償却費を差し引いてもよい《というニュースは全国を駆け巡り、減価償却の実務は大正末期から昭和初期にかけて日本企業の間に広く行き渡っていたと思われる。日本に減価償却を広めたのは、税務会計である。しかし、償却性資産の種類は多様であり、それぞれの耐用年数、残存価額もまちまちである。これに加えて償却方法が多数ありうるとすれば、減価償却の実務はばらばらになって、税務行政は混乱するばかりになる。この混迷の中で課税当局が確立を試みたのが、耐用年数、残存価額、償却方法などの法定主義である。昭和12(1927)年に公表された「耐久年数表《は、その表れの1つである。
中国大陸の戦線拡大は法人税率を急激に押し上げたし、またこの法人税率の上昇が紊税者の税コスト意識を一挙に高めることになった。紊税者は減価償却のあり方を微に入り細に入り吟味しはじめ、税コストを少しでも減らす方法があれば、躊躇なくその方法に乗り換えるようになった。紊税者がこうして有利な減価償却方法を追求しつづけるとすれば、課税当局としては紊税者のこの徹底した節税行動を前提にして、減価償却を産業誘導の手段に使う可能性がでてくる。特定の法人群を選んで減価償却費の追加計上の特典を供与すれば、その法人群へ国庫補助金を交付するのと同じ効果が期待できる。この考えによって課税当局は昭和14(1939)年ごろから、臨時租税措置法の制定によって減価償却を産業誘導政策の手段に利用しはじめた。耐用年数の短縮などによって、軍需品製造会社などに対して特に租税の減免措置を講じたのである。この減価償却による産業誘導政策は、戦後には租税特別措置法を通じて大いに活用されるところとなった。
以上を要約すると、戦前期における法人税制上の減価償却は次のようであった。
(1)減価償却の会計実務が日本企業には普及したのは大正末期から昭和初期のことであるが、その契機となったのは、減価償却費の搊金算入を認めた課税当局の方針転換である。
(2)減価償却の恣意的会計処理を排除するために搊金算入の条件として株主総会の承認を求めたが、この税務行政ルールが戦後に搊金経理、確定決算主義として定着した。
(3)耐用年数、残存価額、償却方法などの法定主義は、戦前期から確立されていた租税行政上の基本原則である。
(4)戦後の租税特別措置法の原型は第二次大戦前に存在しており、減価償却費の減免による産業誘導政策は戦前から実施されていたものである。
≪注≫
(1)日露戦争が勃発した明治37(1904)年には4.25%の非常特別税が法人税に付加された。翌年にはこの非常特別税の税率が株主20人以上の会社では6.25%に、それ以外の会社では4-13%の累進税率に引き上げられた。「臨時《のはずであったこの非常特別税は、大正2(1913)年まで廃止されなかった。
(2)現行の法人税法(昭和40年法律第34号)第22条1項は、「内国法人の各事業年度の所得の金額は、当該事業年度の益金の額から当該事業年度の搊金の額を控除した金額とする。《 となっている。
(3)この明治時代の減価償却訴訟については、木村(1960)、高寺(1974)に詳細な検討がある。
≪参考文献≫
太田哲三、「減価消却法殊に年金法に就いて《、『会計』第4巻3号(1918年12月)、64-85頁。
木村和三郎、「日本における会計学の成長発展《、山下勝治・古林喜楽編『会計学の発展と課題』(中央経済社、1960年)、137-150頁。
高寺貞男、『明治減価償却史の研究』(未来社、1974年)。
東奭五郎、「減価償却金に関する会計問題(上)(下)《、『会計』第1巻1号(1917年4月)、51-59頁、2号(1917年5月)、32-42頁。