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(August 5, 2009)
2009年08月版へのメッセージ
Ocean Business Empowerment Network
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆夏の盛り◆
ことしは祇園祭りも天神祭りも雨もようで、8月になっても、まだすっきりしない梅雨のような天気がつづいていま
す。油断ならないのは、突然にやってくるどしゃ降りの夕立で、まっ黒な雲から滝のような流れが降りかかってきま
す。しかし、これだけ降れば、空には水の蓄えもなくなっているはずですので、そろそろ空も晴れ渡り、すがすがし
い夏空を迎えることになるのではないでしょうか。春学期の期末試験を終えた大学のキャンパスは、人影もまばらに
なっていて、セミの鳴き声だけが響いています。皆さん、お元気にておすごしでしょうか。

湖東に米原(まいばら)というJRの大きな駅がありますが、大垣方面に向かってその東隣の駅が
「醒ヶ井」(さめがい)です。醒ヶ井は中仙道の宿場であったとかで、山あいの狭い街ですが、陣
屋などの古い建物が街道沿いに残っています。

醒ヶ井の中央を流れているのが地蔵川ですが、地蔵川には冷たい地下水が噴出していて、この湧水が日本100名水
の1つに数えられているといいます。醒ヶ井の地蔵川には、そのほかにもう1つの名物があります。清流の水中に咲く梅花藻
(ばいかも)です。梅花藻は6月から7月にかけて開花すると聞いていましたので、ころあいを見
計らって醒ヶ井まで出かけてみると、清流の水中で、直径5ミリほどの可憐な白い花が待っていてくれました。

夕立の直後であったのに、水に濁りはありませんでしたし、清い水の中でゆらゆらと揺れている水中花もなかなかの
見ものです。
P>◆電子債権◆
電子記録債権法(2008年12月施行)により、手形など金銭債権が電子化され、これからは電子債権として流通すること
になりました。紙ベースの手形を磁気メディアに変換しただけのことですが、手形は分割できないのに対して、この電
子債権には小口化できるという重要な特徴があります。いくらでも細かく分割できるので、譲渡が簡単で、売買によっ
て金銭債権の流通が促されることになりそうです。
電子債権は記録機関のコンピュータに登録され(法律的にいうと電子債権記録機関が作成する記録原簿に電子記録され)、
ネット上で売買されます。取引の主体は銀行などの金融機関となりますが、商業手形が電子債権の対象に含まれていますので、
企業の売上債権の手形が電子債権に変換され、銀行に売り渡されるケースも多くなります。このため、電子債権が普及
すると、売上債権が決済日より前に現金化できることになり、企業においては資金繰りが楽になることも予想されます。

◆戊辰戦争と山本覚馬◆
会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)は、1867年12月12日暮れ六つ
(午後6時)、慌しく京都の二条城を引き払い、15代将軍徳川慶喜にしたがって、馬首を大坂城へ向けた。大政奉還につ
づき、容保が京都守護職を解かれた直後の大混乱のさなかのことであった。京詰めの会津藩士のほとんどがこの下坂に随従した
が、大坂城本丸前の馬場に辿り着いてみると、京の西洞院長者町にあった洋学所の砲術師範、山本覚馬(やま
もとかくま、1828-1892年)の姿が見当たらない。遅れて大坂城本丸に到着した同じ洋学所の蘭学師範、南摩羽峯
(なんまうほう)に尋ねてみると、「覚馬は
白そこひ(白内障)を病んでおり、京に残った」ということであった。これが運命の分かれ目で、弓馬
槍刀の達人で、洋式の軍制と砲術に精通していた覚馬は、この日限りに武芸者としての人生を捨てたらしい。翌年の正月早々に
始まった鳥羽伏見の戦(戊辰戦争)にも参陣しなかったし、30日にも及んだ会津鶴ヶ城の籠城戦も、覚馬にはか
かわりのない戦になった。妹の山本八重(のちの新島襄夫人)は、男装して、鶴ヶ城の開城まで
官軍に向けて銃撃をつづけていたというのに、である。

鳥羽伏見の戦の後、覚馬は京から大津に逃れようとして、その途上、蹴上で薩軍に捕まり、今出川の薩摩藩邸
(現在の同志社大学今出川キャンパス)の獄舎に幽閉された。この幽閉中に視力を完全
に失ってしまったうえに、脊髄の損傷により歩行困難に
もなっていたが、依然として頭脳は明晰で、獄中で口述筆記により『管見』をものにした。この『管見』は、明治維新後
における新体制の制度的仕組みを論述した画期的な著作、とされている。
この盲目の偉才は明治維新後になってから、岩倉具視の推挙により京都府庁の高官(権大参事)に
登用され、空洞化してしまった京都の復興と新産業の育成に力を尽くした。妹の山本八重に背負われて上京し、明治新政府と
の間で烈しい論戦を繰り拡げた話は、あまた残されている伝説の1つである。晩年には京都府議会にも出て、議長まで登
り詰めたほか、ビジネス界のリーダーとして京都商工会議所会長も務めた。

大阪での私塾開校運動につまずいた新島襄が、京都に登ってきて覚馬に邂逅したのは1875年のことという。政府機関
をはじめ、何もかも東京に移転したあとの京都はさながらセミの抜け殻のようになっていたが、その空洞を埋める狙
いもあったのか、覚馬は新島襄に京都での開校を強く勧めた。新島襄が京都府へ提出した「私塾開業願」には、新島
襄と覚馬とが連著しているという。こうして京都に開学される運びとなったのが、同志社大学の前身、同志社英学校
である。その「同志社」という名称も覚馬のアイデアによるといわれている。同志社大学の創学当初では、「同
志」の範囲も案外に狭く、基本的には共同設立発起人の覚馬と新島襄の二人(覚馬の妹で新島襄夫人
の八重を加えると三人)であったのかもしれない。

興味深いのは、かつて幽閉されたことのある薩摩藩邸の敷地(6000坪)を、戊辰戦争の直後、
1870年に覚馬が入手していて、桑畑として使っていたという点である。この敷地はのちに新島襄に譲渡されて、今日の
同志社大学今出川キャンパスとなるが、新島襄に出会う5年も前に、盲人の覚馬がこの土地を取得していたというのは、
どういう目論見によるものであったのだろうか。土地投機とも、農業目的とも考えにくいし、工業用地というのも納得
がゆかない。また、その購入資金はどこから出たのであろうか。
本井康博、『新島襄の交遊――維新の元勲・先覚者たち――』(思文閣出版、2008年)、135-148ページ。
中村彰彦、『落花は枝に還らずとも――会津藩士・秋月悌次郎(上)(下)』(中央公論新社、2008年)
中村彰彦、『修理さま 雪は』(中央公論新社、2005年)

◆株主優待引当金◆
会社の株主には配当が支払われますが、これは会社法では「剰余金の配当」と呼ばれています
(会社法453条)。
配当はふつうは現金で支払われるので、「現金配当」といわれ、会計でも「金」という響きを強調して、
「配当金」という名称で処理されています。しかし、現金以外の配当もあって、これは「現物配当」と
呼ばれるのが一般です。会社法でも、配当財産が金銭以外の財産である場合を想定していますので
(会社法454条4)、現物配
当も株主への分配制度の一翼を担っているとみてまちがいありません。株主優待と呼ばれている株主へ
の会社財産のばらまきは、会社法の「金銭以外の財産の配当」にあたりますので、本来であれば、会計
処理のうえでも、この現物配当だとして取り扱われるべきものです。
日本の現行の会社法にはいくつかの欠陥がありますが、その1つは「株式配当」というのをまったく認め
ていないことです。株式配当というのは、現金の配当に代えて、自己の会社の新発行株式を株主に引き渡す
制度です。この制度があれば、財産の分配をせずにおいて、株主へ配当を行ったかのようにみせかける
ことができます。株主からみると、単に手許の保有株数が増加するだけのことですし、会社からみても、留
保利益を資本金に振り替えるだけの形式的なことですから、実質的には株式の分割にすぎないことはたしか
です。しかし、この株式配当が禁止されている状況では、実際に財産の配当を実施する以外に、株主へ報い
る方法はないことになります。株式配当に類似した配当制度も日本ではダメですので、自己株式の配当、新株予
約権の配当なども、日本では実行不能です。海外では、自己社債など、負債証書を原資にする配当も認めら
れている例があるのに、日本では選択肢が著しく狭められいて、会社財産の配当だけに限られています。

日本において、現金配当以外の配当として意味をなすのは現物配当だけですが、株主優待制度によって
現物配当が実施されているのに、会計処理上はそれが現物配当としては処理されていないのです。レストランを
経営する会社が株主に無料のお食事券を、ホテルを経営する会社が株主に無料の宿泊券を、といった形で会社
の製品とかサービスを株主に無償で引き渡すのが、株主優待制度です。電器会社が乾電池を配ったり、
電鉄会社が回数乗車券を配ったりするのも、株主優待制度の例です。この制度はかなり拡がっていて、いまでは
株主優待制度をもつのは、当たり前のことになっています。ところが、これにともなう会社の負担が、剰余金の
配当としてしではなく、広告宣伝費などと同じ費用処理になっているのです。

会社においては株主優待に身を入れると、株主優待制度の実施にともなう費用負担が大きくなります。毎期の
負担が均一でないとすれば、その増減も問題になってきます。このためか、最近では、株主優待引当金を設定
して、株主優待にともなう費用負担を事前に引き当てる例が増加してきているといわれています。
しかし、株主優待の負担は費用処理もともとすべきものではなく、剰余金の処分と考える必要があります。剰
余金の処分であれば、純資産(資本)の処理になりますので、引当金という負債がかかわってくる余地はない
のです。

◆武州岡部藩の地を訪ねて◆
家系のルーツを探しはじめると、「老い」という病の発症が疑われる、といいます。
かなり前から、「岡部」という地名や人名が気になってきていましたから、もう病気
はかなり進行しているのかもしれません。
2009年6月6日に日本経営分析学会が東洋大学で
開催されたときのお話です。新宿駅構内の雑踏の中をうろうろしていると、ふとJR高崎線に
「岡部」という駅があったことを思い出しました。老いという病の発症です。
切符販売機の上の地図を辿ってみると、埼玉県の方角ではあるものの、それほど遠くない感じです。

新宿⇒池袋⇒熊谷⇒深谷と乗り継いで、かつての武州岡部藩の地、「JR岡部駅」にぶじに
到着しました。狭い駅前広場の正面に掲げられている観光地図をみると、ご当地の観光のメインは
「岡部神社」らしく、それを囲む形で、かなり広範な観光ルートがくねくねと描かれています。四
囲を見回しても山らしいものは見えなかったから、関東平野の片隅なのだろうとは思ったが、見当
がつかない。駅前の閑散な道路の両側にはまばらに人家が立ち並んでいるものの、高いビルはみあ
たらない。

さっそくタクシーに乗り込み、ドライバーに行
き先を告げたところ、驚いたことに、「聞いたことがない」という。ドライバーを
駅前の観光地図の前まで引っ張って行ったが、それでも、「寺ならあるが、神社はない」と言い張
る。「ともかく現地へ」ということになって、とうもろこし、タマネギ、ジャガイモの畑の間を縫って、
寺の山門に辿り着いてみると、横に拡がる墓地の向こうに小さな森がある。この清閑な森の中に密
かに佇んでいたのが岡部神社でした。狭い境内の中央には、こじんまりした社殿が鎮座していて、
脇には神楽殿までありました。

文字が薄れていて読みづらい碑文を辿っていくと、武州岡部藩の藩主は安部摂津守で、初代(名前は忘れた)
は伊那谷の人で、関が原の戦の後、家康に随行して武州のこの地、岡部にやってきたということです。
その後、江戸の終わりまで安部家は13代続き、安部摂津守は岡部藩主のとしてこの地を治めてき
たと記されていました。岡部神社に隣接する墓地には歴代の藩主の立派な墓標が立ち並んでいました
し、その隣には安部家の菩提寺が、手入れの行き届いた立派な庭園に囲まれていました。

◆次回の更新◆
夏の盛りを凌げば、秋のそよ風を迎えることになります。これからが本格的な夏なのでしょうから、ご健康に
ご留意のうえ、夏の日々を存分にお楽しみください。次回の更新は11月を予定しています。ごきげんよう。さ
ようなら。
2009.08.05
OBENET
代表 岡部 孝好

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