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to New Version(May 25, 2009)
2009年05月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆爽やかな初夏◆
卯の花の匂うころとなりましたが、ごきげ
んいかがでしょうか。どこかから「卯の花の匂う垣根にホトトギス、早も来啼きて・・・・」
という
歌が聞こえてきそうですが、下が初夏を告げるその卯の花です(池田市水月公園、
2009年5月20撮影)。

細い茎が中空で、「うつろな木」だか
らなのでしょうか、卯の花はまた「うつぎ(空木)」という名でもよく知られています。
枝には白い、小さな、清楚な5弁の花がすずなりにつきます。この花の頃の6月
(旧暦4月)は、古い言い方で「卯月」と
いいますが、卯月は、初夏のはしりの爽やかな季節です。
「押しあうて 又卯の花の 咲きこぼれ」、 正岡子規
「卯の花や 妹が垣根の はこべ草」、与謝蕪村
ちょうど卯の花のこ
ろの夏鳥として、卯の花とよく組み合わされるのが、ホトトギス(不如帰)です。
卯の花が咲きはじめるころ、中国から渡ってきて、夏が来たことを告げるのが
ホトトギスだからという。ホトトギスはウグイスに托卵する
(ウグイスの鳥の巣の中に卵を産みつけ、育児も託する)
といいますから、いまごろの季節には、「卯の花の匂う垣根」など、ごく身近なと
ころを飛び回っているはずです。しかし、残念なことに、わたしの身の
回りではその姿を見かけたことがありません。本を開くと、「トウキョウ・トッキョ・キョ
キャ・キョク(東京特許許可局)」と、けたたましく啼くと書いてあり
ましたが、その鳴声も、とんと耳にした覚えがないのです。

◆足利義政と銀閣寺◆
足利義政(1436-1490)といえば、室町幕府の第8代将軍。
応仁の乱という10余年の戦乱の世を巧みに泳ぎ抜いた傑人とされているが、
歴史書には、東山
の山荘に優雅に逃避した無能の政治的指導者として、芳しから
ぬ名をいまに留めています。しかし、芸術・芸能の愛好家として
は卓抜した能力の持ち主であり、美術、陶芸から書、香、華道
に至るまで、幅広い文化的活躍の足跡をいまに残しています。とりわけ能、
連歌、茶の湯(それも侘び茶)などの領域では、破格の才を
発揮していて、いまなおその道の「元祖」と目されています
(写真の真紅の花はシャクナゲ。同志社大学今出川
キャンパスの正門(今出川通側)の車回しの中で、2009年5月22日に
撮影)。
義政がこうした耽美的な営為に精を出した時代は「東山文化」の
開花期として知られていますが、それはまた今日の「日本文化」
の根源でもあります。世界の国々と日本の文化がどこかで違っていること
にまちがいないことですが、その「日本文化の違い」を紡ぎ出したのは、
どうやら義政とその取巻き連中たちだったらしいのです。戦乱をよそ
に、毎日を優雅に遊び暮らしたことの結果なのです。

義政は世捨て人として政治(と軍事)から遠ざかり、京の東山
に質素な庵と庭園を築き、禅僧として毎日仏の教えに親しみました。その
侘び住いが、いまに残る銀閣寺です。この超ハイクラスの日本建
築は書院造りの原型となり、日本の建築様式を決めてしまいました。ひ
ろびろとした書院造りは空間が豊かであり、瞑想に耽り、花道、歌道の
こころを磨く修練の場であったといいます。住宅といえば、食事の場、
睡眠の場、団欒の場など、生活を快適に過ごす「場所」と考えられやす
いのですが、日本伝統の書院造りでは、精神的な営みの方が優先され、
だだっ広い、何もない空間にポイントがあるのです。
なお、足利義政の墓はいまも相国寺の墓地に現存しますが、ふし
ぎなことに、その墓は藤原定家と伊藤若冲に挟まれています
(今出川通りから相国寺の門を潜ると、真正面に巨大なお堂がありますが、その
西側の「浴場」の脇の路地奥に墓地があります)。
伊藤若冲は江戸末期の画家ですし、藤原定家となると、義政より
はるかに古い歌人ではなかったでしょうか。いずれも相国寺ゆかりの
人物だったとはいえ、横一列に並んだ墓に参拝してみると、歴史のシーン
が重なってきて、古今の区分がぼやけてきます。
ロナルド・キーン著、角地幸男訳、『足利義政と銀閣寺』(中央公論新社)

◆ケーススタディと平均的傾向◆
会計学といっても実証会計学の研究は統計学を頼りにしていますから、
平均だとかメディアン(中央値)といったその道の専門用語を多用す
ることになります。経験的現実を統計数値によって記述しようとしている
のですから、実証会計学では、現実に観察される事実をまず数値に描写して、
その多数の数値を見比べたうえで、「真中」にある数値を平均だとか
メディアンといって、前面に押し出しています。だから、平均だとかメ
ディアンとかいうのは「どこにでもあるもの」、「もっともよく目に
するもの」を数値で表現しているだけであり、別に特殊なものではないのです。
平均だとかメディアンが捉えているのは、およその趨勢とか、あり
ふれた日常的な状況でしかなく、驚愕するようなことは何もないので
す(写真は箕面の奥山のヤマツツジ、2009年5月10日に撮影)。

平均などの要約統計量が捕捉しようとしているのは新奇なものでも、
突飛なものでも、異様なものでもないのです。それよりも日常的なもの、典
型的なものの方に関心があります。この点は、統計処理において外れ値、
あるいは異常値が、厄介い扱いされていることからも明ら
かなことです。
しかし、経営者など、ビジネスの現場の人を前にした講演では、この
「平均的傾向」の話はまったくウケないことになります。どこにでもあること、通常目
にしていることなどは、いまさら聞くまでもないことらしいのです。退屈
なだけで、時間の無駄といいます。皆さんが聞きたがるのは、先端例、成
功例、最新事例など、新奇で、めずらしいことなのです。「目を見張
るケース」、「めちゃおもろい事例」、「次世代を牽引するユニー
クな事例」、「めったにない極端な事例」などに関心を寄せているのです。
しかし、仮にそうした事例が存在するとしても、それは外
れ値であり、異常値なのです。平均とかメディアンからはかけ離れた出
来事で、大数法則にもとづくかぎりでは、経験的な裏づけが、まった
くできないことがらなのです。そこで、ケーススタディという、別
のやり方に切り替えることになりますが、しかし、ケーススタディ
にはあまりにも問題がありすぎます。

ケーススタディによっても、たしかに理論にフィットする事例を発見できる
ことがあります。理論的に厳密に推論してみて、「かくかくしかじか
となるはず」と仮説をまず導いてみる。そして、その仮説どおりの事
例が実際に見つかれば、この事例は仮説の予想どうりだと主張できる
し、そうであれば、仮説も事例によって裏づけられたことになります。
また、理論的な推論によって「これこれの条件
が重なると、必ず失敗する」という結論が導かれている場合にも、明示した
条件どおりに事態が推移して、「失敗」という結末に到達したとすれ
ば、失敗の事例は理論にマッチしているといえます。これらのケースス
タディは、研究の手法としても、強力な武器となることはたしかです
。
ケーススタディが最大の威力を発揮するのは、ビジネス教育かもしれ
ません。実務経験を欠く学生に、ビジネスの現場のこ
とをとやかくいっても、なかなか身につかないのが実情です。しかし、
ケーススタディを使うと、ビジネスの現場においてどういう問題が発生し、その
解決にどういう意味があるのかが具体的にわかってきます。いわゆる「可視化」
が可能になって、興味を惹き付けることができるのです。
ケーススタディは教室で用いるにしても、準備がたいへんで、担当者
の負担はふつうの文献研究の数倍になります。うまくいけば、教育上の効
果もはっきりするし、学生の評判もいいのです。しかし、研究という面で、特
に実証会計学研究とのリンクにおいては、ケーススタディには悩みが
つきないのが現実です。苦労して立派な結論をえたとしても、その立証が科学的に
は困難なのです。ケーススタディは「特殊」を扱うか
ら、「一般化」(generalization)という厚い壁に突
き当たってしまいます。

David J. Cooper, and Wayne Morgan, "Case Study Research in
Accounting," Accounting Horizons, Vol. 22, No.2 (June 2008),
pp.159-178.
◆ダライ・ラマ◆
チベットの最高指導者、ダライ・ラマ(Dalai Lama,1935-)は、いま注目
の人です。チベットは1949年以来、中華人民共和国に軍事的に支配さ
れつづけていますが、祖国を自らの手に取り戻したいというチベット民族の
永年の希いに対しては、世界の人々から同情が寄せられています。しかし、
北京オリンピックのときに垣間見えたように、このチベット独立問題は
あまりに深刻で、あまりにもむつかしい。ダライ・ラマはそれでもひる
まずに、真剣に闘っています。

中国政府の圧迫に絶えかねて、ダライ・ラマがラサを脱出し、インドに
亡命したのは1959年のことです。80人の随行者とともに、ヒマラヤの
カルポ峠を越えた難行苦行の旅は、後世に永く語り継がれることでしょう。その
後に、拠点はヒマラヤ山脈の南側に移りましたが、忍耐強い祖国奪回の活動は
いまも世界各地で繰り広げられています。1989年に、ダライ・ラマには、
その功績を称えて、ノーベル平和賞が授与されました。
現在のダライ・ラマは14世で、前任者の13世の後を継いでいます。しかし、
世襲制ではないから、14世と13世とは血縁で繋がっているわけではないのです。
現ダライ・ラマが14世に「選ばれる」までは、ふつうの農民の、ふつうの子
供でしかなかったといいます。両親はこころ豊かではあったが、貧しい農民であり、
わずかな牧草地と家畜によって子供の養育に苦労していたらしいのです。母から
産まれた子供は16人であったが、生育した兄弟姉妹は7人で、ダライ・ラ
マはその5番目の子であったと、自伝に書かれています。

13世が没したとき、チベット仏教の教えにしたがって、後継者となる仏陀
の「化身」を捜索する部隊が編成されました。この捜索隊は「占い」が指示した方
角を隈なく探索し、予言どおりに、一軒の農家に「化身」と思われる聡明
な幼児がいるのを発見しました。わずか3歳の男の子でした。チベット仏教の
高僧たちは、親しく見守るうちに、この幼児が「化身」だという確信を
ますます深めるいたり、宗教的な教義の伝授と帝王教育を徹底してきました。
この幼児がダライ・ラマ14世として玉座に据えられ、即位したの
は、2年後の1940年のことです(右の赤い花はボトルブラシで、ビンの中を
掃除するブラシに似ている。オーストラリアの花で、H先生に、
10年ほど前に留学記念としていただいたもの。本年になってやっと
咲いた。)。
しかし、1949年には中国軍による侵略を受け、1959年にはインドに亡命す
ることになるのだから、このチベットの「法王」の人生は険しい。しかし、
チベット民族にとってダライ・ラマは太陽であり星なのだから、ひるむわ
けにはいかないのだろう。耐えて耐えて、頑張りつづけるしかない。その
烈しい活動が、いまも忍耐づよくつづけられています(写真はとべら。
同志社大学今出川キャンパスの正門(今出川通側)の車回しの中、2009年5月22日に
撮影。花はジミで目立たないが、香りが強く、品位がある)。
ダライ・ラマ、山際素男訳、『ダライ・ラマ自伝』(文春文庫)

◆有価証券評価損の計上とナンピン買い◆
有価証券の取得価額は、会計では、平均法(それも移動平均法)によるのが決まりです。
A社の株式を1株500円で取得した後に、同じA社の株式を1株300円で購入すると、A社の
保有株式数は2株となって、取得価額は1株当たり400円(=(500+300)/2))となります。こ
の1株当たり400円は有価証券の取得原価ですが、それは平均価格で計算されています。

取得原価が1株当たり400円のA社株式を2株保有している会社が、1月先に決算を迎えようと
しているとします。新聞の株式欄をみると、A社の株価は200円となっています。1月先の期末
までに株価が回復しないとすれば、一番高いケースでも、期末の有価証券の時価は200円と
予想せざるをえないことになります(右の写真の木の名称は不詳、京都御苑で2008年5
月21日に撮影)。
期末時点において、有価証券の取得原価が400円、その時価が200円であれば、決算にあたり
有価証券の評価額を取得原価の400円から時価の200円に切り下げ、差額の200円を評価損に
計上することが強制されます。有価証券の保有目的によってこの処理は異なってきます
(後述)
が、400円の有価証券が半値の200円に下落した場合には、50%超の「著しい時価の下落」
といえますから、評価損400円(=200×2)の計上は不可避となります。不況に苦しんでい
る会社では、利益が少なく、本業の営業利益でさえ赤字になっているところもあるのです。
それなのに、本業外において多額の有価証券評価損を計上すると、最終利益はまっ赤になっ
てしまい、悪くすると融資が止まって、会社がぶっ潰れてしまうかもしれません。
そこで、経理担当執行役員は、不眠不休で知恵を絞って、A社の株式を「買う」と決心する
ことになります。役員会の承認を経たうえで、A社株式2株を1株当たり200円の時価で追加
購入するとしますと、保有株数は2株から4株に増えますが、1株当たりの取得原価は、400円
から300円に「下がる」計算になります。取得原価の計算は平均法によりますから、追加購
入後の取得原価は300円(=[(400×2)+(200×2)]
/4)となって、直前の400円より100円だけ低くなるのです。平均取得原価を引き下げるため
に行う、
このような追加購入のことを、わが国の証券業界では「ナンピン買い」といっています。

有価証券の期末評価に時価基準だけが適用されるのであれば、このナンピン買いに意味はない
のです。
期末の取得原価が300円、時価が200円であれば、1株当たりの評価損は100円であり、
4株を掛けて、400円の評価損となります。ナンピン買いの前後で、状況は変わっていないの
です。しかし、一般にはあまり知られていないことですが、経理担当執行役員たちにはよく
知られている「手」があります。ナンピン買いによって取得原価を下げておくと、
「著しい時価の下落」から「著しく」が取り除かれるのです。やや専門的になりますが、
「著しく」のもつ意味を説明することにします。
会社が資産として保有する有価証券には、4つのタイプがあって、いずれ
のタイプであるかによって期末評価の仕方が違ってきます。
@ 時価の変動により利益を得ることを目的とする売買目的有価証券。
A 子会社株式・関連会社株式。
B 満期保有目的の債権。
C 上記@AB以外の「その他有価証券」。
これら4つのタイプの有価証券の中で、AとBには取得原価基準が適用されます
(正確に
いうと、Bでは券面額との差額を利息とみなして調整計算を行う償却原価法が使われる)。
これに対して@とCでは時価基準が適用されるが、重要な点は@のケースとCのケースとで
は、時価基準の適用の仕方が違っているということです。@のケースではすべての場合
に時価基準が適用されるし、またすべての場合に評価損益が純利益に算入されますが、Cのケー
スでは必ずしもそうとはならないのです(写真のハスは相国寺の池、2008年6
月に撮影)。

会計ルールによれば、Cの「その他有価証券」については、
「時価の下落が著しく、かつ回復の見込みがない場合」に限って、評価損の当期純利益へ
の算入が強制されることになっています(金融商品会計基準W-20)。いい換えると、時価の
回復の見込みがない場合であっても、時価の下落が著しくなければ、時価評価の強制を免れる
ことが可能とされているのです。したがって、Cの「その他有価証券」については、「時価の
下落が著しくない」という条件が決定的に重要になってきますが、「著しい」かどうかは、取
得原価と時価の乖離が50%超であるかどうかによって判定されるという決まりになっています
。とすれば、ナンピン買いによって、取得原価を引き下げ、乖離を50%未満にすることに大き
な意味が生まれてきます。
話はそれだけではないのです。グローバル金融危機の嵐の中で、時価基準の評判はいたって
悪く、
「金融危機を助長したのは時価会計だ」という報道さえなされています。この批判を受けて、
日本の会計基準だけでなく、アメリカの会計基準も国際会計基準も、最近になって時価基
準の適用指針を緩和して、有価証券の時価評価のルールを変更しています。保有目的による分
類の修正を許容するというのがその改正の骨子ですが、この新ルールによると、一
定の要件のもととはいえ、@のタイプの有価証券をCのタイプの有価証券に組み替えること
が可能なのです。@のタイプのの有価証券は「著しい」かどうかにかかわりなく時価評価が強
制されるのに、Cのタイプの有価証券に分類替えすると、「著しい」という状況さえ外して
おけば、時価評価を逃れることができるのです(下の写真は合歓(ねむ)の
木、2008年6月に撮影)。

株価が低迷して、巨額な有価証券評価損の計上が強制されるという状況にたちいたって、
株式を買い増すというのは、理不尽な経営行動と思われがちです。しかし、このナンピン買い
は評価損の計上を避けるための、理に適った経営行動だと解釈することができます。ナンピン
買いによって取得原価を引き下げると、時価の下落は「著しい」ものではなくなりますし、
「著しい」ものでなければ、時価の下落は評価損の計上につながらないのです。
◆次回の更新◆
初夏の爽やかなシーズンを迎えています。梅雨、そして真夏に向かいますが、ご健康に
ご留意のうえ、よい夏の日々をお楽しみください。次回の更新は8月を予定しています。
ごきげんよう。さようなら。
2009.05.25
OBENET
代表 岡部 孝好

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