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to New Version(November 27, 2008)
2008年11月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]

◆クリスマスに、そしてお正月に◆
クリスマス、そしてお正月の季節になりましたが、皆さん、いかがおすごしでしょうか。同志社大学の学園祭
はふつうよりややおそく、11月下旬になって名物のEVE祭が開かれます。クリスマスに隣接した時期です
ので、このEVE祭はご覧の巨大なクリスマスツリーの下で、賑やかに繰り広げられることになりま
す。学事歴では11月の最終の週はブチ抜きで講義が休みですが、今出川キャンパスの人出は、授業のないこの期間
が1年で最高になるのではないでしょうか。大学のイベントというよりも、観光都市京都の大イベント
の1つになっているみたいですので、華やかなお祭りとしてウンと盛り上がることになります。
(写真のクリスマスツリーは同志社大学今出川キャンパスの西門。2008.11.22に撮影。
フラッシュを焚いたので写真では色が飛んでいます。実物はもっと、もっと華やかです。高さは3階建てのビル
くらいでしょうか)。
京都はいま紅葉の盛りで、どこもかしこも観光客で充満しています。秋学期には土曜日の3限に講義がありま
すので、毎週土曜日にはお昼ごろまでに、阪急京都線経由で、地下鉄今出川まで出てきますが、街の食堂が
どこもいっぱいで、昼食をいただくのがたいへんなのです。観光客のおばさんが3,000円の京料理なのに、こ
ちらは学食の160円のきつねそばか、105円のおにぎり2個という日が多くなってしまいます。たまにはわたし
も京料理を、と思っているのですが、めぼしい店には「土曜日は予約だけ」という貼紙がしてあって、門前払
いというあんばいなのです。もう少し寒くなると、このブームも下火になるでしょうが、不況の影がちらつい
ているのに、この観光ラッシュはものすごいものです。清水寺、銀閣寺あたりの紅葉はいまが一番なのでしょ
うが、このひと出では、気後れがして、とても足が向きません。(下の写真は京都御苑の中
の紅葉。明治天皇が産湯をお使いになった中川邸付近。2008.12.22に撮影)。

◆会計学会関西部会は同志社大学で◆
日本会計研究学会の関西部会は、ことしは同志社大学で開催されます。12月13日(土)のことですから、
このクリスマス・ツリーの賑わいの最中となります。今出川キャンパスに隣接する新しいビルに寒梅館
という学舎がありますが、その最上階7階には超高級なレストランがあります。学会のパーティはそのレストラン
ということですので、料理もさることながら、素晴らしい京都の夜景をお楽しみいただけます。会員の先生
は、ぜひともご出席いただき、初冬の京都をエンジョイしてほしいものです。

学会のスケジュールはかなりタイトですから、午前中も忙しく、とても観光どころではないのかもし
れません。しかし、同志社大学のすぐ裏には相国寺(しょうこくじ)という大寺院がありますし、道を挟ん
だ南側は京都御苑ですから、空き時間に少し足を延ばすだけで、大いに京都の冬の風情を楽しめるはずで
す。かなり古いシャレに「金銀同でもつ相国寺」というのがあるそうですが、「金銀」というのはもち
ろん金閣寺と銀閣寺のことで、相国寺が金閣寺と銀閣寺を束ねる総本山だという意味です。「同」とい
うのは同志社大学のことらしく、わたしの想像では、同志社大学が土地か何かを借りていることにより
ます。同志社大学が相国寺に依存しているだけでなく、相国寺もまた同志社大学を当てにしているらし
いのです(この付近のもみじの写真はいずれも相国寺のもの。2007.12.
01に撮影)。
相国寺の広大な境内には、見所がたくさんあります。その1つは承天閣という美術館で、見ごたえのあ
る立派な日本画のコレクションが展示されています。あの伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の絵も数点ありますが、ここ一年ほど
の間に若冲の絵をいろいろ見て歩きましたので、どれであったのかすっかり忘れました。有名なバショウの絵があった
というのが、わたしの不確かな記憶です。

相国寺境内のもうひとつの見所は西側の墓地で、その一角にはどうしたことなのか、伊藤若冲の墓、足利義政の墓、藤原定家
の墓が同じ場所に並んで立っています。若冲は江戸中期の人ですが、義政は室町の人、定家はもっと前でしょうから、時代が離れすぎていて、頭の中が混乱します。もっとも、天国は1つで、時代の区切りなどないのかもしれませんが・・・。相国寺境内のもうひとつの見もの
は、不思議な浴場です。ひと棟の建物全体がお風呂になっていて、その中が拝観(?)可能になっているのです。
釜で炊いたお湯を大きな風呂桶に集め、その桶の中で高僧(か皇族)が湯浴みをしたのだろう、とわたしは
想像しています。浴場はこんにちでは各家庭にありますが、当時ではごく稀なもので、湯浴みの贅沢は庶民には
許されていなかったのでしょう。その時代にこれだけの規模のフロの殿堂ですから、ふつうの人には縁の薄いものであった
ことはまちがいありません。いうまでもないことですが、洗面器に石鹸とタオルを入れて持ってきても、ここのお湯に入
ることはできません。

水上勉の「雁の寺」の舞台となった瑞春院も、相国寺の境内の片隅にあるお寺です。外から覗くかぎりでは、それほ
ど大きな寺院には見えませんが、その少年時代、水上勉はこの寺で修業したのだそうです。会計学会当日
の12月13日にはもみじは散ってしまっているでしょうから、その写真を右に掲げておきます。写真のもみ
じはこれからという感じですが、なかなか立派なお庭で、いつも手入れが行き届いています。大学の教室
から見える庭ですが、建物の中にはまだ入ったことはありません。襖絵が有名ですので、いつか拝観させ
ていただきたいと思っています。予約制で、有料みたいでした。清閑なところで、観光客も少ない勧めのスポットです。
◆京阪中之島線が開通◆
京阪中之島線が開通し、大阪都心へのアクセスが激変しました。中之島は大阪の都心の都心で、まさになにわのヘソに
あたります。北側の堂島川と南側の土佐堀川に囲まれた細長の島の中は大阪の一等地とされ、江戸時代から米取引
の中心街として栄えてきました。淀屋橋付近だけでも中央公会堂、大阪市役所、
日本銀行大阪支店などが並んでいます(中央公会堂の横にあった神戸大学経営学部の
サテライト教室はいまはなくなっています)し、地下鉄御堂筋線の西側の方には、国際美術館、リーガロイヤルホテル、
大阪国際会議場、中之島センタービルなどがあります。

しかし、これまでは中之島の西の方は交通が不便で、中之島セン
タービルの関経連などに出向くときには、タクシーによるほかはなかったのが実情です。ところが、京阪が地下
を西へ掘りすすんで、天満橋からリーガロイヤルホテルの真下まで電車を乗り入れたのです。このために、その不便さが
一挙に解消されました。京阪電車は10月19日からの運転で、新聞記事によると、中之島駅付近は祭りのような賑わいだった
とのことでした(上の写真は琵琶湖畔からみた比叡山の雪景色。2008年1月に撮影)。
京都からは、出町柳駅で京阪の特急に乗り、直通で終点の中之島駅まで行けます。JR大阪駅からは御堂筋線の淀屋橋ま
で行き、京阪の大江橋で乗り換えることになりますが、バス、タクシーよらずに、中之島まで電車
で行けるとうのが感動なのです。まだ実際に歩いたことはありませんが、JR福島駅とか阪神の駅にも、地下道でつながっているみたいでした。たぶん、雨の日でも、JR大阪駅から中之島駅まで傘なしで、歩けるのではないでしょうか。

来年には阪神電鉄がナンバまで延長するという話ですので、大阪のキタからミナミへの交通が太くなって、大阪の都心は
ますます発展することになります。地上交通はそれなりに便利ですが、やはり地下鉄以上の交通手段はないわけですか
ら、地下鉄の延伸は大きな恵みです。地震などの災害にも地下鉄は強いことも知られていますので、地下交通には
優先的に予算を廻すべきではないでしょうか(右と下の写真は坂本城址付近の冬の琵琶湖。2008年
1月に撮影)。
◆財務制限条項の再興◆
公的負債市場(public debt market)において、会社が一般投資者に向けて販売する負債証券は、社債(bond)と呼ばれます。日本市場では、1990年頃までこの社債の発行には厳格な発行規制が加えられていて、有担保原則(物的担保・人的保証を欠く融資を禁止する昭和恐慌以来の日本金融政策当局の基本原則)が適用されていました。このため、無担保社債の発行は原則的に禁止されてきましたし、その後、国際化の流れを受けて無担保社債の発行が解禁になってからでも、財務制限条項付きでなければ社債の発行は許されない状況がつづきました。大蔵省(当時)、日本銀行の主導のもとに、起債案件の審査が個別に行われ、画一的な適債基準(当時の社債発行規制ルール)にしたがって、負債金額、満期、利率、担保、財務制限条項などの社債の発行条件が金融関係者の合議によって決定されてきたのです。
ところが、1990年代初めのバブルの崩壊を受けて、日本の公的負債市場では、社債発行規制が一挙に緩和されました。
市場当事者の自己責任という旗印のもとに、市場原理に全面的に委ねられることになったのです。有担保原則も大幅に
後退し、無担保社債が幅をきかせはじめたのです。これにともない財務制限条項の約定も自由化され、取引当事者が
任意に決めることとされたのです。この結果として、社債に担保とか財務制限条項を付けるという伝統的な金融実務
は、日本市場では陰を潜めてしまいました。金融機関が貸し手となる私的負債市場(private debt market)ではやや事
情が違っていたようですが、担保供与と財務制限条項があまり利用されなくなった点は同じです。

ところが、2002年ごろから、再び財務制限条項の利用が拡大してきました。多数の銀行が集団となって会社に貸付けを
行う取引をシンジケート・ローンといいますが、このシンジケート・ローンにおいては、財務制限条項を付けるのが標
準的実務になってきています。同じことはコミットメント・ライン融資にもいえ、財務制限条項が付いていない融資契
約は稀になったとさえいわれています。
シンジケート・ローンもコミットメント・ラインも、大会社と銀行との間の大口取引ですが、中小企業向けの小口金融
取引でもまた、財務制限条項の約定が大はやりになってきています。地方銀行などでは英語をそのまま使って「コベナ
ンツ・ローン」と呼んでいますが、これを中小企業向け融資取引においては、営業活動の柱にする銀行が増えてきている
のです。担保付きの融資だけでは、銀行業はやって行けない時代になってきているともいえますが、債権の保全を図るに
は、財務制限条項以外に、いい方法がないという理由にもよります。

財務制限条項というのは、資金の借り手が借用証書に書き込む誓約文のことです。借りたお金がいくらで、それをいつ、
どこで返済するという誓約文は借用書の本体に書かれます。財務制限条項は、この本体に
追加する誓約文で、「借金の返済を妨げるようなことは一切いたしません」という趣旨の文章です。この
趣旨に沿った行動目標を具体的に列記するのがふつうですが、典型的な条項は、「純資産をXXX円以下まで
減らすようなことはいたしません」(純資産維持条項)、「借入金をYYY円以上まで増やすようなことはい
たしません」(追加借入制限条項)といったものになります。財務制限条項には会計数値によって限界値が
指定される例が多く、このため会計ベースの契約の典型とされています。
財務制限条項を付けて貸し手を安心させないことには、借り手は、お金が借りられません。しかし、貸し手のいいなりに
なって、厳しい財務制限条項を誓約してしまうと、こんどはその順守がむつかしなるのです。財務制限条項に違反すると、
ただちに借金を返済するという約束になっていますので、順守できないという事態になると、たいへんなことになります。
ただちに借金を返済するというのは、通常のケースであれば経営破綻を意味します。しかし、違反すれすれの状態なのに、
違反を回避するのもきわどい芸当になります。そのきわどい芸当の1つが、会計不正なのです。会計数値をごまかし、これ
によって資金の貸し手を欺こうとするわけです。
財務制限条項を利用する事例が激増していること、景気が悪くなると違反すれすれの会社が多くなることなどを
考慮しますと、財務制限条項がらみの会計不正が増えるのは、これからのことになりそうです。この点でも、財務制限条項
の再興は、興味のつきないトピックです。
◆太宰治の里(再)◆
東京の三鷹は中央線で、新宿から210円の距離。2008年9月11日、立教大学での日本会計研究学会の後、飛行機ま
での待ち時間を利用して、この三鷹へ。目的は太宰治の墓。太宰治は玉川上水のむらさき橋の付近で、愛人と情
死したことは学生時代の昔から知っていましたが、その地はこの目で見たことはなかったのです。太宰の作品
『桜桃』にちなんで、6月の何日かに毎年『桜桃忌』(おおとうき)が催されることも知っていましたが、その墓
にはいちども詣でるチャンスはありませんでした。そこで、このたび三鷹へ、ということになった次第です。まず
墓所の禅林寺を訪れ、案内図にしたがって、裏の墓地に太宰の墓を捜し当て、ここがそうだったのかと、納得しま
した。意外に簡単にみつかったのは、戒名ではなく、本名の「太宰治」と楷書で彫り込まれていた
(本当の本名はもちろん島津なにがしで、島津の先祖累代墓も隣に建っていた)からであろう。

墓掃除中のオジサンが教えてくれたことだけど、太宰治の墓の斜め前には「森信太郎」という立派な墓が建っているが、
これが森鴎外の墓だという。森鴎外の『舞姫』はこの夏に読ませていただいたものでもあり、何度目のことかわからな
いのに、この『舞姫』にはかなり強烈な印象を受けたばかりです。こういう出会いを、ご縁というのだろう。
禅林寺からの帰りのタクシーで、むらさき橋に立ち寄ってみると、このコンクリート製の案外幅広い橋の下には、
玉川の清い水が流れている。この玉川上水は飲料用としていまも使われているらしく、立ち木の間の流れは清潔に
保たれている感じではあった。多摩川の水を新宿(四谷という)に導くこの上水道は、江戸時代初期の建造らしく、
玉川という名は、建造者の玉川兄弟からとったものと書かれていた。

川幅は1間(1.8M)くらいなもので、それほど深いようではなかったから、わたしにはとても心中できるような
場所とは思えなかった。昔は激流が渦巻いていたのかもしれないが、いまは繁みを縫って水が鈍く走っているだ
けであり、京都の琵琶湖疏水に比べると、水勢はずいぶんと弱い。太宰は、この細い、弱い流れで、女と入水し
たのである。
◆つけと節季払い(再)◆
日本のビジネスでは、B2BだけでなくB2Cでも、「つけ」をよく利用します。「つけ」という
のは、付帳(つけちょう)の略称で、売り手が買い手に提供する後日払いの信用のことです。
買い手が売り手に提供する代金先渡しの信用は各国にみられる慣行で、仲買人が手工業者などに
資金を前渡しするタイプのものが一般的です。これに対して、売り手から買い手への信用が、
日本では、江戸中期からすでに日常化していたのです。それが、いまでも、続いていて、
「五十日払い(ごとうびばらい)」などの商慣行として、残っているわけです。後日払
いの信用ですから、いつか代金の決済が必要になりますが、そのひとつが「節季払い(せっきばらい)」
という慣行です。

節季払いというのは、盆、暮れを代金決済日とする江戸時代からの日本独特のビジネス慣行です。
盆(ぼん:8月16日)、暮れ(くれ:12月31日)にだけ、年2回、つけを清算します。これは、盆
と暮れ以外には代金を支払わず、つけにしておけるということを意味
しますから、毎日の生活は、キャッシュレスの気楽なものであった可能性もあります。しかし、
つけが溜まる一方というのは、気重なことで、不健全なビジネス慣行ともいえそうです。江戸時代の話
(小説、落語、講談など)ではよく「借金苦」のことが話題にのぼりますが、その原因の1つは
この信用制度の広がりにあったみてまちがいなさそうです。
会計ルールの国際的コンバージェンスがすすんできて
いますが、各国におけるビジネス慣行の違いにはぜんぜん注意が払われていません。会計ルールを同じ
にするというのは、人種の違いにかかわりなく同じ服を着ましょうというのと同じことです。あまりむつ
かしいことではないのです。しかし、ビジネス慣行の違いは残ったままですので、いくらコンバージェン
スがすすんでも、問題は根本的には解決されていないのです。みなが同じ服を着ても、人種の違いという
問題は解決されていないことになります。
◆次回の更新◆
お元気にて、よいクリスマス、よいお正月をお迎えください。次回の
更新は新年の1月の予定をしています。ごきげんよう、さようなら。
2008.11.27
OBENET
代表 岡部 孝好

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