A Message from Webmaster

 to New Version(February 29, 2008)




2008年02月版へのメッセージ


OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆早春◆

 日本列島は数年ぶりの大雪に見舞われ、2月になってもことのほか厳しい寒さがつづきましたが、皆様、いかがおすごしでしょうか。盆地の京都は冬が(夏も)酷しいと伺っていましたが、や はり大阪、神戸とは一味違った冷たさで、陽が陰るとともに、足下から冷気が這い上がってくる感じです。今出川の研究室の窓から望める北山には、つい先日まで残雪がちらちらしていましたし、賀茂川の葦原も枯葉に覆い尽くされたままです。しかし、堤防の柳の枝には新芽が萌え始めていますので、まちがいなく春はもうそこまできています。いよいよ春を迎えます。

 桜にくらべて梅はジミで、一番寒い季節に開花を迎えますが、ほのかに漂う香りがおくゆかしく、何ともいえない高貴な雰囲気をもっています。その梅の枝をメジロが飛び交っている情景は、一服の絵になりそうです。この冬に若冲(伊藤若冲[1720-1800])の日本画を何枚か観る機会に恵 まれましたが、その中にも、梅と鳥を描いた感動の花鳥図が幾枚か含まれており、思わず溜息を漏らしてしまいました。いまその梅の花が真っ最中で、しばらくはこの早春の花の香を楽しめそうです。(梅花の写真は、大阪城公園と京都御苑の梅林にて、2008年2月に撮影したもの)

◆虚偽報告と偽装の横行◆

 昨年は、食品、建築資材などの「ウソ」についての報道が飛び交った一年であり、「偽」ということばが時の流行語に選ばれたほどでした。食品や食材の賞味期限、使用材料、品質テスト結果などを偽っただけという単純なケースも少なくなかったようですが、建築設計や建築資材のウソ になると、耐震強度、耐火強度などが大幅に不足してきますから、ひとの生命にかかわってきて、経済的にもその被害は甚大になってきます。これだけ「ウソ」に振り回されると、直接の被害がなくとも、ニュースを聞くだけで腹立たしい思いをしたひ とは少なくなかったはずです。

 経営学や会計学の世界では、ほんの数十年前までは、「ウソ」は世俗のいまわしい現象で、学問の世界にはいささかもかかわりがない、とみられていました。ひとにウソをつくのは、”あってはならない”反社会的行為であり、まともに議論する題材とはとても考えられなかったのです。それは社会的行動規範に背く行為として、宗教学とか倫理学では視野の片隅に捉えられていたのかもしれませんが、「科学」において取り扱う事柄ではない、と切り捨てられていたのです。

 この「ウソ」に対して、社会科学の分野において初めてメスを入れたのがウィリアムソン(Oliver Williamson)です。ウィリアムソンは制度派経済学という分野に属する経済学者であり、いまもお元気にご活躍中のご様子です(数年前、神戸大学に講演におみえになられていました)。このウィリアムソンが経済活動には「ウソ」がつきものであり、「ウソ」を分析しないことには、現実の経済現象がうまく説明できないという点を突き止めたのです。「ウソをつく」というのは、その場その場でいい加減なことをいうこと、つまりご都合主義だとされ、ウィリアムソンは機会主義(opportunism)という用語で表現しました(「機会主義」という日本語の訳語は浅沼萬里元京大教授 のもの)

 ウィリアムソンはいわゆる取引コスト(transaction cost)の経済学を飛躍的に発展させた超一流のエコノミストです。取引コストの経済学では、売り手と買い手が市場において行う「取引」が関心の焦点ですが、その取引を妨げる要因の1つが「ウソ」なのです。売り手も買い手も本当のことを相手に知らせたがらないために、取引の円滑な進行が阻害されるというのです。別のいい方をすると、取引にウソが紛れるために、取引コストが高くなり、この取引コストの上昇が採算を悪くして、取引の成立ちを妨げるのです。

 市場には売り手と買い手がいて、それぞれが競争圧力のもとで自分に有利な取引をすすめようとしています。いずれもが損をしたくない(できるだけ利益を増やしたい)と動機づけられていますが、この自分だけが可愛いという性向(利己心)から派生する行動には、商品の欠点を隠したり、実際以上によい品質に見せ掛けたりすることが含まれます。取引の当事者は、そうする方が有利だとすれば、事実を大げ さに表現したり(誇張)、事実とはズレた表見を用いたり(歪曲)、事実の一部だけを伝えたり(濾過)、都合のるいことを隠したり(隠蔽)、とかくご都合主義的な行動に走りがちなのです。程度とかやり方はさまざまですが、「ウソ」によって相手を欺き、これによって、有利な取引を導こうとする点は同じなのです。

 取引相手が機会主義的行動によって「騙(だま)す」とすると、騙される方では損害を被ります。この損害を防止するには、相手から「騙されない」ようにすればよいわけですし、 騙されないようにするためには、取引相手を疑ってかかって、相手のいうことを信用しなければよいのです。これは、売り手と買い手の間においてことばが交わされていても、情報はまったく伝達されず、情報の断絶(information block)が起きる ことを意味します。

 売り手と買い手の間で情報伝達がブロックされると、取引は成り立たなくなってしまいます(「市場の失敗」という現象が起きます)。仮に取引が成り立つにしても、その取引は劣悪な取引で、 経済効率は貧弱です。そこで、健やかな市場取引を成り立たせる工夫が大切になってきますが、その工夫は、理論的には 難しいことではないないのです。ウソをつかないようにすれば、つまり真実のことだけを相手に伝えるようにすれば、そ れだけでよいのです。しかし、現実において、ウソをつかせない仕組みを具体的に作るというのは、大変な難事業です。

 理想的なのは、ウソをつくと損をする、真実を伝えると得をするという 世界に変えることです。しかし、現実の世界においては、ウソをつくと得をし、真実を伝えると損をします。現実の世界を理 想的な世界に転換するには、真実を語るひとが報われる仕組み、つまり真実だけを伝えたくなる仕組み (truth-telling mechanism)を市場に埋め込む必要があります。しかし、この仕組作りは、将来に残された大きな課題に なったままです。

 なお、ここで詳しく取り上げる余裕はありませんが、会計学は 「ウソ」と闘いつづけてきた学問です。領収書などにより取引の「足跡」を残 しながら会計帳簿を作成したり、職業専門家の公認会計士によって、会計監査を実施してきたのが、会計学なのです。 しかし、大変な努力と金銭を注ぎ込んできたにもかかわらず、会計学の世界では、いまも「ウソ」の追放には成功していま せん。報道でも騒がれていますように、粉飾決算とか会計不正が頻発しているが現状なのです。

◆鞍馬天狗のこと◆

 NHKの木曜時代劇場でも鞍馬天狗が放映されていたみたいですが、それよりずっと前に、本屋の店頭でふと選んでしまったのが大仏次郎(おさらぎじろう、1924-1973)著『鞍馬天狗』(小学館文庫)です。大昔にアラカン(嵐寛寿郎)の映画を見て以来のことですから、きっと懐かしくなったのでしょう。アラカンの姪とかにあたる女優の森光子が、ごく最近に日経新聞の「わたしの履歴書」において、この映画に出ていた(というよりこの映画でデビューした)と書いてあった驚きの記事を思い出したことも、関係があったのかもしれません。アラカンの鞍馬天狗は、われわれの少年時代では、あこがれ的であったわけですが、その中で娘役の森光子がどうだったのかは、この小説を読んでも、その片鱗も記憶は戻りませんでしたが。

 昔の少年時代には、京都の地図も大阪の地図も皆目頭になく、1人の剣豪と新撰組との戦いのストーリィだけを追って興奮していたことになります。ところが、いまでは(というより昨年に同志社大学に赴任してから)、おぼろげながらも京都の地図が呑み込めていて、壬生、薩摩屋敷(これは同志社大学の今出川キャンパスにあたります)、東寺、宇治、淀、京橋などの地形の見当がつきますから、ストーリィを超えたおもしろさがあって、近畿一円を走り回るアクションに引き付けられます。京都から大阪への街道筋も地形を追ってたどれますから、物語の展開は気を抜くところがありません。いまの京阪でいえばどの辺りのことと、場面が特定できますので、すぐにでも「現場」に駆け付けたくなります。大阪城の大屋根の上を走り回ったとか、城壁に攀じ登ってお壕にジャンプしたと という大げさな話になると、現実とのかかわりの影が薄れますが、特定の地名が舞台に登場してくると、その情景がしっかりと目に浮かんできて、現在のドラマみたいなるのです。よくできた名小説で、元気だけでなく、昔の感動までも甦ってきた思いがしています。

 同じ新撰組の小説でも、浅田次郎などの最近の作品になると、「大人の小説」という色合いが強烈で、少年向けの夢の部分が霧散しています。しかし、昔の少年向けの小説は、善玉・悪玉がはっきりしているいえに、気配り、気遣いのストーリィがゆきとどいていて、まったく壮快です。鞍馬天狗とか杉作少年の思いを抱きながらの京都の旅も、味わい深いものです。

 

◆資産除去債務の会計◆

 「資産除去債務」 というのは、会計学にとっての新しい用語です。原子力発電所などの発電設備は、核燃料の使用によって汚染されます。このため、将来に発電設備を廃棄する となると、巨額の撤去費用を負担しなければならないことになります。解体・撤去にともなって発生するこのマイナスのキャッシュフローが、固定資産の除去費用ですが、将来にこの除去費用を支払う義務があるとすれば、それは現時点でも負債になっているのではないかということから、資産除去「債務」ということばが生まれました。

 原子力発電設備の耐用年数は60年というはなしですので、建設時からすれば、除去費用が発生するのは遠い将来のことです。廃棄時の60年先に、どういう工事をして、だれに、いつ、いくら支払うのかは まったく見当もつかないことですが、環境汚染者がその修復義務を負うという考え はいまや常識化してきています。そこで、この「常識」にしたがうとすれば、環境修復費用を負担する電力会社が、資産除去債務を負っていることになります。

 環境修復義務を免れえないとするかぎり、環境汚染者が資産除去債務を負うということに、あまり異論はないようです。特に環境修復義務を定めた法律、条例などが制定されている場合にこのことがいえ、法律上の修復義務があるのに、この義務を怠るというのは法律違反を認めることになってしまいます。法律や条令がなくとも、土地の原所有者とか周辺住民との間に環境修復契約が締結されている場合も同じで、資産除去債務を負っているといえます。

 資産除去債務のむつかしい問題は、 その債務が「いつ発生したのか」という発生時点の特定です。原子力発電所が使用を停止し、解体・撤去を待っている状態であれば、発電装置の除去は差し迫っています。そのままの状態で放置しておくことも許されないとすれば、すぐにでも除去の基本計画を策定し、予算と要員を割り当て、施工業者を選定することが必要になります。3年計画であろうが5年計画であろうが、ともかく解体・撤去の段取りが組み上がると、資産除去債務の内容が明確になり、およそであれ、債務の金額がはっきりしてきます。つまり、解体・撤去のステップに達すると、資産除去債務が発生していること に疑いの余地はないのです(下の盆栽は 長浜の盆梅まつりで、2008年2月撮影。樹齢300年を超える傑作も多数あったが、盆栽はあまりに形が整いすぎていて、感動はもうひとつといったところ。)

 こうして原子力発電装置の解体・撤去の基本計画が確定し、そのキャッシュ・アウトフローが積算されているとしても、工事はこれからのことですので、施工業者への支払金額はまだ予定の域を出ていません。この段階においては、資産除去債務の金額は明確になっていますが、それは法律的な確定債務という形を整えていないのです。しかし、会計では法律的な確定債務でなくても負債として認識して、「引当金」として貸借対照表に計上することが許されています(強制されています)。損失の内容も特定されていて、当期の事業に起因しており、また金額も合理的に見積可能なので、企業会計原則の注解17の要件を満たしており、基本計画策定年度に、原子力発電装置の解体・撤去の全支出を資産除去費用(特別損失)として引き当て計上し、対応する「資産除去損失引当金」(仮称)を貸借対照表の負債の部に掲記することになります。なお、この資産除去損失引当金は、資産除去債務に準じた性質をもつ引当金であり、解体・撤去の工事対価の支払に充当されますので、対価支払時に取り崩されます。

 しかし、原子力発電装置が使用停止後になってから、あわててその解体・撤去の費用を引き当てるというのは、「遅すぎる」という見方が一般的です。資産除去債務はもっと早い段階から存在しているのに、会計が負債の認識を与えないために、貸借対照表の裏側に「隠されている」というのです。それでは資産除去債務はいったいどの時点から存在していたのか、と問い詰めていくと、その意見はまちまちです。しかし、1つの有力な見方は、原子力発電装置は、設置した時点では放射能に汚染されていなかったのに、発電にともなって汚染されてしまったというものです。発電装置の稼働が設備汚染の原因であり、解体・撤去費用の高騰の原因が設備汚染にあるとすれば、資産除去債務を生み出しているのは設備の稼働ということになります。

 日本ではかなり以前より、環境汚染原因は発電設備の稼働にあるという考え方が拡がっていて、環境修復の債務は、設備の稼働につれて増加するという見方が定着してきています。この見方によると、発電設備の設置時点には環境修復義務はゼロであったのに、その後の稼働とともに、その修復コストが膨らんでいくことになりますから、この場合にも引当金が必要になり、毎期の修復コストの増分に相当するだけ、引当金への繰り入れが行われます。日本の電力会社には特別の法律(および通産省令)により、原子力発電装置撤去引当金の計上が強制されていますが、実は、この考え方によるものです。

 電力会社の収益は需用者が支払う電気料金によっていますが、この電気料金には公共料金として規制が加えられています。この電気料金の許認可の目安は発電コストですが、この発電コストには、原子力発電の場合、発電装置撤去引当金繰入額が含められています。これは現在の電気の需用者が将来の解体・撤去費用を負担していることを意味しますが、世代間の公平という観点からしても、この政策は有意義なことと考えられています。もし現在の需要家がこのコストを負担しないとすれば、いま稼働中の設備の解体・撤去費用を、将来の世代にしわ寄せすることになるからです。

 ところで、ごく最近になって、日本企業会計基準委員会より、資産除去債務についての新しい会計基準の原案が提出されました(企業会計基準員会、企業会計基準公開草案第23号「資産除去債務に関する会計基準(案)」、2007(平成19)年12月27日)。この新基準には、まったく新しい考え方が示されており、資産除去債務の発生時点は設備の取得とされています。原子力発電装置を導入した時点において、環境修復義務が発生するとして、予想される解体・撤去の費用の全額を一挙に負債に計上するのです。

 設備の調達時に資産除去債務を負債に計上するにしても、その債務に見合った資産は何も取得されていません。そこで、負債に計上された資産除去債務と同じ金額を設備の取得原価に加算し、固定資産の取得価額を膨らませます。耐用年数の間、膨らんだこの取得価額によって減価償却を実施していきますので、減価償却費がそれだけ大きくなる勘定です。

 新会計基準案によると、設備の調達時点において資産除去債務の全額が発生し、これにともない設備の取得価額が引き上げられます。いわゆる「両建方式」ということで、資産除去債務に相当する金額が、取得時に資産と負債の両側に同時に追加されます。これにともなって増加する減価償却費は引当金方式の繰入額と同じ金額になるはずですから、問題は費用の金額ではなく、資産の取得価額に追加された金額と負債として認識された資産除去債務の金額です。まさに両建ての2つの金額のことですが、そのいずれにも根拠がないのです。

 まず負債の資産除去債務ですが、これは将来にマイナスのキャッシュ・フローをもたらすとして正当な負債として扱われていますが、それが「現在の負債」であるのかどうかは、不確かなことです。原子力発電装置が稼働によって今後の汚染するものだとすれば、将来には負債になるとしても、設備の取得時においては、まだ負債の資格を備えていないといえそうです。

 両建方式によると、資産除去債務として認識された負債と同じ金額だけ、固定資産の取得価額が増額されます。この増分の取得価額には2つの理由づけがあって、1つは環境修復コストは設備投資にともなう投資額の一部であり、支払いを免れえないコストという点を強調します。もう1つは国際会計基準に示唆されている考え方で、環境修復コストは固定資産の取得に随伴する一種の付随費用だとすものです。いずれの理由づけによるにしても、環境修復コストは「支払済み」とみなされていますが、それは会計上は「未払金」でさえもないものです。未払金は債権者、金額、弁済期が確定した負債を指しますが、環境修復コストは、支払いが予定されている金額にすぎず、未払金でも、既払金でもないのです。これを取得価額に加算するというのは、法外なことといわなければならないでしょう。

◆未稼得利益(再)◆

 会計学では実現原則にしたがって収益(したがって利益)を認識していますが、この実現原則は利益の「稼得プロセス」(earning process)ということをを前提にしています。労働の投 下によって生産物を生産していくと、生産におうじて利益が稼得され(earn)ます。この稼得された利益(earned income)が、その後、 その後に販売によって実現されるというわけです。したがって、最初に稼得ありきで、稼得もされていない利益が、後に なって、突如として実現するようなことはありえないという話になります。

 生産にともないどのように利益が稼得されていくのか、その稼得のパターンは視認できることではありません。しかし、一般に最も説得力が強い見方は、生産要素の投入量に比例して、利益が稼得されているというものです。生産要素の投入量はコストによって測ることができますから、この見方にしたがうと、利益はコストに比例して、順次稼得されていくということになります。

 長期請負工事の会計では実現原則の例外として、工事進行基準が適用されています。この工事進行基準においては、現実に利益の稼得はコストに比例するという考えが採用されていて、工事の進捗度(しんちょくど)はコストで測定されます。すでに発生している工事原価と予定総工事原価との比をとって、予想工事利益をこの比率によって按分するのです。

 利益の稼得がコストに比例するというこの考え方は、会計学に広く、また深く浸透していて、たとえば通常とは順序が逆転して、販売の後に、後追いで製造が行われる場合にも、利益はまだ稼得されていない、みなします。プラントメーカーが機械の本体をいったん発注者側に納品し、その後で部品を取り付けるようなケースでは、たとえ納品時に代金を全額受け取っていても、製造プロセスが完了していません。製造が未完であれば利益は「未稼得」ですし、未稼得の利益が実現することはありえませんから、このケースでは利益の認識は禁止ということになります。販売の要件を満たしていない場合は一般に「未実現利益」(unrealized income)といわれますが、製造が終わっていない場合には、「未実現利益」という代わりに「未稼得利益」(unearned income)というのです。

 しかし、この「未稼得利益」という考え方は、最近になって揺らいできています。資産・負債アプローチにしたがって前受金を定義する場合に、入金時に利益を認識するという怪しい会計処理が提案されているからです。資産・負債アプローチによりますと、負債は将来に会社から出て行くキャッシュフローとなります。販売対価の前払いを受けた場合には、このキャッシュフローの入りの見返りに、将来に会社から流出するキャッシュフローは販売価額ではなく、製造原価ということになりますから、負債となるのは製造原価に相当する金額であって、販売価額ではないことになります。販売対価の前受けにともなって販売価額相当額だけ資産(現金)が増加するのに、負債となるのは製造原価相当額です。製造原価と販売対価の差額に相当する利益が前受金の受領時に認識されることになってしまいます。これは製造前の段階ですから、伝統的な考え方によると、明らかに未稼得利益ということになり、利益の認識が禁止されるケースです。

 契約の未履行のステップで利益を認識することは、伝統的な会計学の基本的な考えには沿わないことです。売り手から買い手への財・サービスの引渡しは契約の履行となりますが、実現原則はこの契約の履行に注目していて、財・サービスの引渡しがないと、利益の認識を認めてこなかったのです。それなのに、資産・負債アプローチによるという理由で未稼得利益にまで、利益認識時点を繰り上げるとすれば、これは伝統的な会計学の考え方と衝突することになります。未稼得利益というのは製造プロセスが完了していないステップの利益で すから、契約が履行される見込みもない段階で、未履行契約の利益を認識することになりかねないのです。これは、きわめて不健全な会計実務です。

◆おおはやりの循環取引(再)◆

 循環取引というのは架空売上を計上する会計不正の手口。加ト吉がこの循環取引によって売上高を1,000億余円膨らませたとして強制捜査を受け、世間を沸かせています。2004年のメディア・リンク事件も循環取引によるものでしたから、この手口はおおはやりということになります。

 循環取引は「回れ回れ」、「大回り」など、さまざまな名称がついていますが、先進国のアメリカでは「周遊旅行」(round trip)という名前で広く知れわたっています。周遊旅行のようにぐるぐる回って、必ず元の出発地に戻ってくるのが特徴です。ぐるぐる回るには少なくとも 3ー4社が結託しないと仕組みがなりたたないことになりますが、加ト吉事件では全国の20社以上が関わっていたといわれていますから、大規模な周遊旅行です。

 循環取引の手口を例示するために、ABCの3社共犯のケースを取り上げます。主犯のA社はB社とC社に事前に根回しをして、全体の計画を周知徹底しておきます。まずA社はC社を訪れ、B社から商品Xを購入したら、それに10%のマージンを乗せてA社にもってくれば、A社は必ず買い取ると固く約束します。次にA社はB社を訪れ、A社の商品Xを買い取り、そのままC社に転売すれば、C社が10%のマージンを乗せた価格で必ず買い取る約束になっている、と説明します。これでA⇒B⇒C⇒Aというループができあがりますので、A社はB社に向けて、たとえば商品Xを1,000万円の販売価格で出荷します。B社は1,000万円で仕入れた商品に10%のマージンを乗せて、すぐにC社に向けて出荷します。B社では、この取引で売上高が1,100万円増えるだけでなく、100万円の利益が獲得できます。C社では、B社から商品Xを1,100万円で仕入れていますが、これはA社が1,210万円で買い取ると約束されて いる取引です。そこで、C社では商品Xを1,210万円でA社に向けて出荷しますと、C社の売上高は1,210万円増加し、純利益も110万円だけ増えます。最後にA社では、B社に出荷した時点で売上高が1,000万円計上されていますが、A社における商品Xの当初の仕入原価が1,000万円であったとすれば、利益はゼロです(実際には低い価格で仕入れていますので、利益がでます)。注意を要する点は、A社、B社、C社ともに売上高が増えて、どこも損を出していないということです。A社では1,000万円の商品Xを1,210万円で買い戻していますが、これは在庫の評価額が上昇しただけのことで、損益には影響がないのです。

 売上高は商品が販売された場合にのみ計上されますし、商品が販売されたかどうかは、実際の荷動きによって判定されます。したがって、循環取引においても、商品XはA⇒B⇒C⇒Aというループを「循環」しなければならないことになります。この商品の受け渡しを省略して、伝票だけのやり取りとなるとまったくの架空取引となって、お話にならない幼稚な粉飾となります。循環取引であっても、売上高として正式に認識されるためには、代金の決済も必要ですから、それぞれの間で、代金の支払いが行われていなければなりません。新聞報道によると、加ト吉事件では決済は行われていたみたですが、商品Xは動いておらず、伝票の操作だけで片づけようとしていたということです。これでは、あまりに初歩的で、話にならない会計不正です。

 循環取引は「おいしい取引」であり、一度はじめたら止められない、といわれています。循環取引によって売上高(と利益)を一度嵩上げしてしまうと、次の年度に循環取引を停止しますと、売上高(と利益)がガクンと下がることになるのです。この点で循環取引は麻薬のような効果があって、足を洗うのがむつかい会計不正なのかもしれません。

◆次回の更新◆

  もうしばらくすると入学式です。ぴっかぴっかの新入生を迎え、新しい春学期を全力疾走したいものです。みなさまも、ご健康にて、ますますご活躍ください。次回の更新は5月の連休明けを予定しています。ごきげんよう。さようなら。


2008.2.29

OBENET

代表 岡部 孝好

okabe@obenet.jp