A Message from Webmaster

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 2002年1月版へのメッセージ



Back Numbers

   1995年10月 ラボ開設のご挨拶  ウエブマスターのプロフィール(Profile Information) [in English]

   Webmasterからのメッセージのバックナンバー[Backnumber]


◆もうすぐ春◆

 明けまして、おめどう、ございます。

本年も、よろしく、お願いします。

 大学ではいよいよ学期末を迎え、博士論、修士論、卒論の提出、学期末試験の出題、入試の監督などで、ごったがえしています。ですが、これは毎年のことで、いつもの北風みたいなものです。冷たい北風ですが、おかげさまで、平穏に、新年を迎えております。もうすぐ春ですので、ここで、ひと頑張りしたいと思います。

◆2001年のアクセス数◆

 いつものご来訪ありがとうございます。

 昨年のご来訪者は、延べ27,000人で、1月あたり平均2,250人といった勘定になります(高松志麻さん、データをありがとう)。

◆冷や水◆

 クリスマスイブの日に、横積み雑誌の底から、たった1枚の紙切れを引き抜こうとして、腰がギックリ。あろうことか、正月3ケ日まで、寝たきりという惨状でした。もちろん2週間で、復旧しましたが、年末年始の忙しいときに、会議をさぼったり、原稿の締め切りに遅れたりで、あちこちにご迷惑をお掛けすることになりました。「何とかの冷や水でしょう」という陰口も、何度か耳にしました。そこで、本年の最初の一句。

   冷や水で ロボット歩行の お正月

◆ラオスへ出張◆

 2月下旬から、国際協力事業団(JAICA)のプログラムにより、3週間ほど、ラオスの国立大学に講義にでかける予定です。ラオスは初めての国で、予備知識がまったくありませんが、これから勉強して、大いにエンジョイしてきたいと思います。担当は、ビジネススクールのFinance & Accounting コースということですので、教材の準備をはじめているところです。

◆キセル◆

 喫煙道具に「キセル」という のがあって、キザミタバコを詰める先端の火皿と吸い口だけが金属(たぶんは真鍮)になっています。2つ の金属をつなぐ竹製の細い煙管を「ラオ(羅宇)」といっています。なお、電車の乗車駅と降車駅の切符だ けを買って、中間の運賃を払わない不正乗車のことも「キセル」といいますが、これは入口と出口だけが「カネ」で、中間のラオが「カネ」でないというたとえらしく、いいえて妙というほかはありません。

 司馬遼太郎によると、キセルというのはカンボジア語で、カンボジア原産のキセルが中国経由で、そのまま日本に渡ってきたらしい(「街道をゆくー南蛮の旅U」)。キセルに使う「ラオ」というのは、わたしがこれから出かけるラオスのことで、ラオス産の黒竹がキセルに最適であったことよるというのです。腰痛の間、同氏の「街道をゆく」シリーズにはずいぶんと楽しませていただきましたが、この種の雑学でも、大いに勉強になりました。ラオスにいったら、どの竹なのか、さっそくたしかめたいものです。

◆会計文献データベースの運転再開◆

 最近ではハッカーが暴れていて、メールやWebサーバーに、たいへんないたずらをしてくれます。この「財務会計ラボ」も何度もアタックされており、深刻な被害を受けています。

 昨年に受けたハッカーの被害の中で最大のものは、Windows NT(SP4)というOSの弱点を衝かれ、重要なファイルがいくつか潰された事件です。このため、データベースソフトSQLがまったく動かなくなり、バックアップデータさえ引き出せなくってしまいました。3年ほど前から運用してきた「会計文献タイトルデータベース」も、このために、初期状態に戻ってしまいました。

 昨年末に気を取り直し、SQLを再び最初から立ち上げ、残っていたフロッピーを頼りに、データを再登録しました。失われたデータはこれで80%までは復元されたはずですが、20%のデータは行方不明のままです。この行方不明のデータのほとんどは、みなさまご自身の手により、リモートから登録いただいたものです。まことに申し訳ないことですが、どうかお許しください。

◆100年前の簿記事情◆

 今年の平成14(2002)年は、神戸高商の開校から100周年目にあたります。この記念すべきめでたい年を祝う行事として、5月11日の式典など、いろいろな企画が固まってきているのは、喜ばしいことです。

 明治35(1902)年に、東京高商(現一ツ橋大学)につづいて、国立ではわが国で2校目の高商として神戸高商が誕生しました。この上級のビジネススクールが国立学校として開設されたこと、それも神戸という国際港湾都市に開設されたことは、日本の会計教育に画期的なことだったといえます。日本の会計ルールを最初に定めた商法(法律第48号)が制定されたのは3年前の明治32(1899)年ですから、いよいよこれから会計教育に腰を入れるという最適な時期だったのです。

 福沢諭吉が日本最初の簿記書『帳合之法』を明治6(1873)年に公刊していますので、複式簿記の知識は、神戸高商の創立よりも30年も前に、日本に入ってきていた勘定になります。しかし、明治35(1902)年ごろ、複式簿記が日本に普及していたかという点になると、答えはノーで、複式簿記によって記帳された「洋帳」はごく一部の官営会社でしか使われていなかったのです。ほとんどの企業は、伝統の「和帳」、つまり大福帳を使っていたのです。

 日本における洋帳の普及のネックになっていたのは、もちろん簿記教育で、複式簿記の知識の持ち手がごく一部に限られていたという事情があります。神戸高商の開校には、簿記教育の指導者を育成し、このネックを取り払うという狙いがあったことはまちがいないことです。しかし、問題はそれだけではなかったのです。明治35(1902)年ごろには、わが国には、洋帳に使う簿記用紙も、ペンも、インクもなく、和紙、筆、墨によるほかは記帳の手立てがなかったのです。わが国伝来のソロバンは和帳にも洋帳にも使えるものでしたが、和紙、筆、墨によって、洋帳をつけるというのは不可能なことだったのです。

 明治35(1902)年ごろ、簿記用紙、ペン、インクは高価な舶来品がありましたが、これらの輸入量はきわめて微量です。他方、大福帳は量産できる体制になってきていましたが、その売上高は年々増えつづけ、大正時代に入ってからでも増加しています。大福帳の需要がようやく減退し、代わりに国産の簿記用紙が売れはじめるのは、第一次世界大戦が終結する大正8(1919)年から関東大震災の大正12(1924)年までのことです。このことから、日本において複式簿記が普及したのは大正年間のことで、明治時代にはほとんど大福帳だけであったことがわかります。

 神戸高商の第1期生が卒業したのは、明治40(1907)年ごろですから、どこへいってもまだ大福帳が幅をきかせていたはずです。その中で、最新の会計教育を受けたわが神戸高商出が、日本の会計実務を大胆に変革していったことになります。

(この点の詳細は、岡部孝好稿「神戸高商の開校のころの会計帳簿―和帳から洋帳への転換―」、『国民経済雑誌・経営学の学習のために』(近刊)を参照されたい)

◆あれでよかったのか、退職給付会計規制◆

 わが国には、退職金制度という、外国には類のない従業員への給付システムがあります。最近では多くの会社が退職金制度から年金制度に乗り換えつつありますが、この年金制度も日本独特の色彩が濃く、外国の年金制度と異なる点が多数あります。しかし、いずれにしても、退職金制度も年金制度も、ずっと前からあったもので、ここ数年の間に、制度そのものは、基本的に変わってはいないのです(「変えよ!」、「変えよ!」という騒々しい議論はありますが)。したがって、従業員からみると、最近になって、退職金や年金が格別に増えたわけでも減ったわけでもありませんし、雇用主にしても、特に退職金や年金の支払義務が増えたというわけではありません。

 しかし、退職金や年金を処理する会計基準は変わりました。この会計基準の変更は、退職金や年金の制度をいじったのではなく、その支払義務の計算(と記帳)の仕方を変えただけのことです。それなのに、たったこれだけのことで、バランスシートの負債の金額が激増し、同時に、損益計算書に巨額の損失が現れました。グローバルスタンダード(多分は国際会計基準)に乗るという名目で、強制的に「隠れ債務」を表にださせたことの結果です。

 ここ10年の不況で、会社はどこも業績不振に苦しんでいて、倒れかかっている会社があちこちにあります。それなのに、昨年4月より新しい退職給付会計基準の適用が開始されましたので、日本の上場会社は、例外なく、負債の大幅な引上げと、信じられないほど多額の特別損失の計上を迫られています。日本全体で、80兆円とも100兆円ともいわれる損失が、今期に、一挙に表にでてくるのです。何社かが、この損失に耐えられずに、破綻することになるでしょう。

 このような巨大なインパクトをもつ会計基準は、その適用の時期を慎重に選ぶというのがマクロの政策判断ではないのでしょうか。退職金や年金の支払義務そのものは以前と同じなのですから、何も不況の底を狙って適用を急ぐことはないはずです。移行措置によって段階的に適用するとか、株主持分の部にペンディングにしておく(資本直入法)とか、他にもやり方がありそうなものです。会計基準の制定には経済的インパクト(経済的帰結)が必ずともなうのですから、金融秩序への影響、雇用への影響、国際競争力への影響などを慎重に考慮する必要があります。悪くすると、今回の退職給付会計基準の適用は、会計史上、最悪の結果を引き起こすことになりかねません。

◆特定目的会社の悪用◆

 不動産の証券化などを促す目的で、特定目的会社(SPC)が、わが国でもあちこちで利用されるようになってきています。その最も一般的な利用例は、会社Xが保有中の社宅を新設のSPCに売却し、SPCではその社宅を住宅として賃貸して、その賃貸収入をバックに、負債証券を投資者向けに売り出すというものです。負債証券は満期には償還されますが、その償還資金には、社宅の再売却、それもX社による買戻しが予定されているのがふつうです。

 問題の根源の1つは、SPCが連結財務諸表の中に組み入れられないことで、会社Xでは社宅をSPCに売却した時点で売却益を計上し、SPCの不動産を簿外に出してしまいます。数年後になって、X社がSPCから不動産の社宅を買戻した時点で、資産を新規に取得したものとして扱います。X社ではSPCに対する支配権を、したがって不動産の社宅に対する支配権を継続して保持しているのですが、この点は無視されています。また、不動産の売却取引というのも買戻し条件付きであり、セールアンドリースバックと同じようなもので、売り切りではないのです。実質優先の原則からすれば、明らかに、問題アリです。

 米国のエネルギー最大手の会社「エンロン」が破綻し、世界規模のクライシスが発生していますが、その発端はSPCにあったといわれています。SPCが悪用され、巨額の資産負債が簿外に逃げていたことに問題があったらしいのです。

◆監査法人の強制的交代制◆

 監査する方と監査を受ける方が何10年間も同じであれば、問題が出てきそうというのは、だれがみても明らかなことです。癒着といったことにはならないとしても、緊張が薄れます。

 イギリスでは、今回のエンロン事件の反省から、監査法人を強制的に交代させる制度づくりをすすめていて、5年程度で、監査法人を入れ換える方針と報道されています(日経2002年1月26日朝刊)。監査法人の強制的交代制によって、監査人の目を厳しくしようというのです。

 監査法人からすれば、監査を受ける被監査法人はお客さんで、クライアントとして大切にしています。大切なクライアントを競争相手に奪われると、たいへんな打撃を受けます。しかし、大切なクライアントとして遇するこの姿勢が、監査を甘くしてしまうのです。

 監査法人の強制的交代は、担当する監査法人の数も、監査を受ける被監査会社の数も変えるものではないはずですから、マクロ的には、需給に影響はないといえます。しかし、5年ごとの入れ換えによって、クライアントの数が増減し、「奪ったー奪われた」という結果がでるのは避けられないことです。監査業界の競争が熾烈になって、浄化作用が働くことになりそうです。わが国でも、早急に取り入れるべきでしょう。


2001.10.31

神戸大学財務会計ラボ

岡部 孝好

Graduate School of Business Administration

okabe@kobe-u.ac.jp

okabe@kobebs.ne.jp