A Message from Webmaster to New Version(September 20, 2017)


   2017年09月版へのメッセージ


     OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆経営報酬としての自己株式の無償供与:その会計問題◆

  新事業を立ち上げるという理由で、資金の拠出を誘われることが少なくない。この場面でよく聞くのが、「お金はないが、知恵か労力ならいくらでも出資できる」という返答である。しかし、先進諸国ではどこでも、会社に対する知恵とか労力は「出資」の対象に含まれていない。それなのに、「新株予約権」とか「ストックオプション」という迂回路を経由した場合には、労務出資ではないかと疑われるケースが少なくない。労働出資などありえないのに、結果をみると労働出資と同じようなことになっていることがあるのである。

  会社へ出資できるのは金銭などの財産だけだと法律に決められていて、労働サービスを拠出する労務出資は許されていない。ところが、実際には労務出資に類似する取引形態が存在していて、アメリカにはかなり広範囲にこの労務出資類似取引が広がっていた実績がある。その典型的な事例は、経営報酬として自社の株式をタダで渡すというものである。

  経営報酬として自社株式を引き渡す場合でも、その値段を事前に決めておいて、自社株式と交換に現金の払込みを求めることも少なくない。この場合の自社株式の許与はタダではなく、有償である。しかし、自社株式に対する払込価格を大幅に安くしておくと、時価との差額が自社株式の取得者の利得になって、経営報酬としての意味をもつ。現金の払込みを求める自己株式の「有償譲渡」の場合でも、その一部(あるいは大部分)が「無償交付」になっているケースが多いのである。

  一部であれ全部であれ、新規発行の自己株式を経営報酬として無償供与した場合には、一般株主の側において株式価値のロスが発生している。新株の 発行によって「希薄化」(dilution)が起きており、この希薄化部分だけ一般株主が損失を被っているのである。一般株主におけるこの希薄化損失に相応する価額が新株を取得した経営者の利得になっているのだから、経営者に経営報酬を支払っているのは、実質的には一般株主だとみかければならない。 それなのに、株式報酬費用の計上にあたって、その相手勘定に払込資本勘定を用いると、経営報酬を支払っているのは報酬を受ける経営者自身となり、経営者によって労務出資が行われていることになってしまう。

この議論の詳細は別稿を参照。

◆シベリア出兵から、ことしは100年◆

  日本軍が日本海北岸のウラジオストックに上陸し、ロシア領に侵攻したのは1918年(大正7)であったから、ことしは そのシベリア出兵の100周年に当たる。ロシアの中央にはウラル山脈がタテに走っていて、そのはるか東にバイカル湖がある。 そのバイカル湖からさらに東に拡がる広大な凍土地帯がシベリアである。ウラジオストック侵攻から7年もの間、日本軍は その極寒の凍土地帯でロシア軍と戦いつづけることになった。 ロシア側でも日本側でもこの戦いで多数の軍人と民間人が犠牲になったのに、現在ではこの「大戦」のことがほとんど忘れら れていて、話題にさえならないのはなぜななのだろうか。

  シベリア出兵より20年前には日清戦争があったが、この日清戦争は、日本と清国との間の戦いというよりも、日本と清国+朝鮮+ ロシアとの大戦争であったといえる。日清戦争の開戦の地は朝鮮であったし、その末期の激戦地は鴨緑江の西側に拡がり、清国の遼東 半島の全体にわたった。この遼東半島の利害に最も深くかかわっていたのはロシアであり、日本軍が遼東半島を占領すると、ロシアは ドイツとフランスと組んで日本の領有に激しく反発し、日本は遼東半島を返還せざるをえなくなった。いわゆる三国干渉である。 それ以来、日本は遼東半島にこだわるようになり、満州(中国東北部)とその北のロシア領をあきらめきれなくなってしまった。 日露戦争の遠因になったのは、まちがいなく日清戦争である。

  この日清戦争の10年後にその遼東半島と満州(中国北東部)の権益をめぐって紛争が起きたが、それが日露戦争である。 日露戦争で日本軍は旅順会戦、奉天会戦、日本海海戦などの激戦を征して、満州鉄道の運営権を獲得し、さらに広大な満州平野 に手を伸ばすことが可能になった。しかし、日露戦争の終戦処理では日本の要求は抑え込まれ、樺太の南半分を領有するに終わってしまった。 アメリカのポーツマスで開かれた日露交渉の結果は惨憺たるもので、日本の満州進出の願いはまたも封じ込まれた。 この鬱積がシベリア出兵の原動力になったといえよう。

  こうして溜まりに溜まった過去の鬱積をバネに日本政府シベリア出兵に踏み切ったが、結果は思わしいものではなかった。 ロシアの共産革命と重なって複雑な戦局展開となったが、最後は北部のアムール川河口付近から日本軍は撤退し、ロシアと 日本との戦いは終結した。この終戦処理でも領土要求は満たされず、日本に与えられたのは樺太の北半分だけであった。

  昭和の初期から日本軍は暴走を始め、大陸の満州平野だけでなく、蒙古、ソ連までも支配するようになった。そのきっかけになったのは シベリア出兵だったといわれている。司馬遼太郎の有名なことばを借りると、日本は「シベリア出兵からキツネに酒を飲ませて馬に乗せた ような国になった」(『アメリカ素描』)というわけである。

  満州事変から支那事変へ、そして支那事変から太平洋戦争へ、その後、第二次世界大戦に至る歴史はかなり詳しく検討されている。 しかし、それまでの歴史の研究は十分とはいえない。シベリア出兵は第二次世界大戦のあり方に大きな影響を与えたのに、なぜもっと 注意されないのであろうか。

◆新著『神戸高商・神戸商大の会計学徒たち』、好評発売中◆

  岡部孝好著『神戸高商・神戸商大の会計学徒たち』が発売され、3カ月が経過しました。全国各地から読後のメッセージを いただき、感謝しております。神戸高商のことも、神戸商大のことも、意外にも、これまで知っていたのは 校名だけでしたというのが大勢です。神戸高商の創立のことも、神戸商大への昇格のことも、その経緯を聞いのは初めてだという声が 大多数でした。戦後に新制神戸大学を立ち上げる局面においても、大阪帝国大学と合併して、「阪神大学」を創成するという アイディアがあったというのは、驚きだったとい反響です。

  神戸大学を興したのは、二人の簿記学者です。この二人の簿記学者が苦労を重ねて、神戸高商を立ち上げました。神戸 高商はわが国二番目の官立(国立)の高等商業学校ですが、それは「簿記の神戸高商」としてスターしたのです。明治36 (1905)のことです。

  神戸高商は、会計学、経済学、商業学といった当時の新興学問をつぎつぎに取り込み、大きく発展していきます。明治・ 大正時代を通じて、日本の代表なビジネス・スクールとして高くそびえ立つ存在になりましたが、それは学問の発展に 機敏にキャッチアップできたからだと思われます。

  神戸高商は昭和4年に神戸商業大学(神戸商大)に昇格し、東京商大(現一橋大学)、大阪商大(現大阪市立大学)とと もに「三商大時代」を築きます。

  第二次世界大戦中、神戸商大は「神戸経済大学」に名称を変更します。これは「商」という1文字が軍部に嫌われたこと によるものです。しかし、神戸経済大学(神戸経大)は逆境に中で活躍をつづけ、学部においては「経営学科」を、大学 附属機関としては「経営学専門部」を開設し、経営学の研究・教育を積極的に展開します。

  第二次大戦が終結し、6・3・3・4制の新しい学校教育制度がはじまります。戦後のこの学制改革の結果として、新制 神戸大学が生まれ、その中に「経営学部」というわが国初の新学部が創設されました。神戸経大時代にあった法学部門は法学部 として、また経済学部門は経済学部として分離独立したために、新制神戸大学の経営学部の主要部門は経営学、会計学、 商学の3つに絞り込まれました。これが現在の神戸大学経営学部の原型です。

  神戸大学経営学部は昭和24年から疾走をはじめます。昭和28年に学部の第1期生が卒業すると、すぐさま大学院(修士、 博士課程)を開設し、学部と大学院の両方で大活躍をはじめたのです。昭和30年代にはじまった日本経済の高度成長の波に 乗って経営学部は大躍進を遂げますが、その後押しをしたのが、昭和40年代の経営学ブームです。

  神戸高商の開校のころは、「簿記の神戸高商」と呼ばれていました。神戸高商はそれから間口を拡げ、会計学、原価計算、 会計監査などについても、研究・教育の拠点校として今日まで活躍をつづけてきました。簿記・会計学の発展という視点 から、神戸高商⇒神戸商大⇒神戸経大⇒神戸大学経営学部という発展過程を追っているのが、新著『神戸高商・神戸商大 の会計学徒たち』です。出版は神戸新聞総合出版センター、販売価格は\2,000+消費税です。

岡部孝好著 『神戸高商と神戸商大の会計学徒たち』 正誤表

井尻雄士 先生を偲んで(再)◆

  会計学の世界的リーダー、井尻雄士先生が2017年1月18日お亡くなりになられました。81歳でした。2012年にカーネギー ・メロン大学を退職された後も、専門誌に掲載されている幾編かの論文に接しましたので、相変わらずお元気にてご活躍中の ことと思っておりました。それなのに突然の訃報に接して、大きな衝撃を受けております。ほんとうに偉大な人を亡く したと、惜しんでも惜しみきれない思いに沈んでいます(お写真はAccounting Education Newsの最新号より借用しております)。

  井尻先生は神戸市の三宮のお生まれで、1934年2月24日に、父井尻竹次郎、母ヒロの長男として誕生されました。父上は パン屋か何かを営んでおいでだったと伺った記憶があります。ご父母のお墓は神戸市の山手にあるらしく、阪神淡路大震 災のときには帰国後まっさきに墓地を訪れ、墓石が倒れていなかったと、胸をなでおろしておいででした。井尻先生にと って神戸は文字通りのホームタウンであり、阪急三宮駅付近の情景などは「昔とほとんど変わっていない」と、いつも楽 しそうにお話になられていました。たぶんはこの神戸とのご縁で、神戸大学もわたしも井尻先生のお世話になるというた いへんな幸運に恵まれることができたのです。井尻先生にはいろいろとご配慮をたまわり、ほんとうにありがとうござい ました。こころからお礼を申し上げます。

  井尻先生は幼少のときよりソロバン塾に通っていましたし、奈良商業高校で若年のころにすでに簿記を習得していました。 その奈良商業高校2年生のときに公認会計士の一次試験に合格し、高校卒業後に入学した同志社短期大学在学中に二次試験にパスしています。 その後に立命館大学法学部に在籍し、実務補習を受けながら同時に法学も学びます。21歳で三次試験にも合格しましたので、 日本の最年少の公認会計士という新記録は井尻先生がマークすることになりました。この新記録は、たぶんいまも破られてい ないはずです。

  井尻先生は同志社大学在学中に、2つの大きな出合いをしています。1つはゼミ担当者の西村民之助先生から、ことばに尽く せぬほどの大きな学術的影響を受けたことです。「これこれは西村先生に教わった」という話は井尻先生から何度も聞いたこ とがありますが、文書になって残っていることもいくつかあるはずです。第2は、西村先生の娘さんの倫子(ともこ)さんと 知り合ったことです。二人は1962年に結婚され、二人のお嬢さんをお育てになりました。お嬢さんは二人とも学者になったと お聞きしました。

  井尻先生はプライス・ウオーターハウスなどで数年働いてから渡米し、ミネソタ大学大学院で1960年に修士号を、そして1963年に カーネギー・メロン大学大学院でPh.Dを取得されています。そのPh.D論文が後に出版されたManagement Goals and Accounting for Control(1965). 『計数管理の基礎』(岩波書店、1970年)だったというのですから、井尻先生はすでに院生時代からとんでもない高レベルの研究をなされていた ことになります。1963年に大学院を終えると西海岸のスタンフォード大学に奉職され、1967年までこのスタンフォード大学をベースにして活躍 されました。神戸大学の丹波康太郎教授がアメリカに出張され、井尻先生に初めてお会いになられたのはそのころのことです。わた しはちょうどそのとき神戸大学大学院で丹波先生の講義を受けていましたが、帰国されるやいなや丹波先生は「スタンフォード大にすごい日本人 研究者がいる」とお話になられたのを、いまもはっきりと覚えています。わたしが井尻先生のご高名に初めて接したのは、このときでした。

  1960年代の会計学界はいまとよく似ていて、時価主義会計がどうのとか、保有損益がどうのこうのといった、とても本質的とはいえない議論に沸 いていました。ところがスタンフォード大学から突如として新星が現れ、公理論(axiom theory)、測定論(measurement theory)といった自然科学系 の概念を駆使して、ユークリッド幾何学にも匹敵する超精密な新会計理論を展開しはじめたのです。それが、若き井尻雄士先生だったのです。井尻 先生はその著『会計測定の基礎』(東洋経済新報社、1968年)において、「支配」、「数量」、「交換」など、ごく少数の基本公理だけを使って、 1つの会計現象をすみずみまで説明しつくす一般理論を構築しようとしてしたのです。驚いたことに、この理論的説明の対象となっていたのは慣行 的な会計制度、つまり歴史的原価会計であったのです。「公理論、測定論によって、歴史的原価会計の成り立ちを理論的に解明する」というのが 井尻先生の構想であったらしいのですが、この大胆なチャレンジに世界中の会計学者がみな目を見張りました。

  井尻先生は1967年に母校のカーネギー・メロン大学に戻られ、その会計学研究陣の中核的スタッフとして大活躍されました。それ以降の学問的業績 については、あまりにも多すぎて、ここでは列挙しきれません。1982年にアメリカ会計学会の会長に推され、2年にわたるその職責を果たされました。 1989年には49番目の「会計殿堂」(Accounting Hall of Fame)」入りを果たされ、その殿堂があるOhio State Universityではいまも井尻先生の偉業が讃えられているはずです。

  井尻先生には渾身の力を尽くして、会計学の発展を導いていただきました。神戸大学に対して、そして神戸大学の岡部に対しても、明るい光と励まし おことばで先々を照らしてくださいました。そのおこころ尽くしに厚くお礼を申し上げます。どうかこれからも、高い空の上からお導きいただきますようお願いいたします。合掌。

◆2016年ノーベル経済学賞に契約理論の経済学者が◆

 現在の実証会計学はエージェンシー理論・契約理論をその起源にしています。取引を行う二人(またはそれ以上)の経 済行動を「契約関係」として分析するのがエージェンシー理論・契約理論です。その契約関係には、ウソをつく、相手を ダマすという行為が当然に含まれます。  会計学の観点からこの契約関係を捉えますと、相手にウソをつかせない、相手にダマされないということが重要になり ます。相手にウソをつかせたり、相手にダマされたりするようでは、取引が成り立たないからです。会計学というのは、 相手にウソをつかせない、相手にダマされない社会的システムづくりを研究する学問だといえます。取引実績を会計帳簿 に記録する、監査によってその帳簿記録を点検するというのがその例になります。  実証会計学が拠って立つ契約関係は、1970年ごろから若い経済学者によって研究テーマに取り上げられていました。当時 は前人未踏の研究領域であり、何もかも分からないことばかりだったのです。それから40年経って、いまではエージェンシー 理論・契約理論といえば、ミクロ経済学の基本研究分野として確立されています。その契約理論を育てた研究者の中の二人が、 2016年のノーベル経済学賞に輝きました。Oliver Hart と Bengt Holmstrom がその人です。  過去のノーベル経済学賞の受賞者 (The Sveriges Riksbank Prize in Economic Sciences in Memory of Alfred Nobel)

2016 Oliver Hart and Bengt Holmstrom

2015 Angus Deaton

2014 Jean Tirole

2013 Eugene F. Fama, Lars Peter Hansen and Robert J. Shiller

2012 Alvin E. Roth and Lloyd S. Shapley

2011 Thomas J. Sargent and Christopher A. Sims

2010 Peter A. Diamond, Dale T. Mortensen and Christopher A. Pissarides

2009 Elinor Ostrom Oliver E. Williamson

2008 Paul Krugman

2007 Leonid Hurwicz, Eric S. Maskin and Roger B. Myerson

2006 Edmund S. Phelps

2005 Robert J. Aumann and Thomas C. Schelling

2004 Finn E. Kydland and Edward C. Prescott

2003 Robert F. Engle III, Clive W.J. Granger

2002 Daniel Kahneman, Vernon L. Smith

2001 George A. Akerlof, A. Michael Spence and Joseph E. Stiglitz

◆戦前期の法人税制とその自主申告制度(再)◆

  日本では個人を納税者にする最初の所得税制が誕生したのは、明治20(1887)年である。同居家族の所得を含め3年平均所得が300円以上である者が納税義務者とされ、所定の役所に所得金額届を提出して納税する。これが新設の個人所得税制である。この所得金額届を審査するのは公選の所得調査委員であり、最終的には7人の委員の決議によって課税ベースとなる所得金額が決定された。

  この個人向けの所得税法をモデルにして明治32(1899)年に創設されたのが、法人向けの所得税(法人税)である。この法人税の創設時に国税の税務行政の管轄はすべて政府機関に統合され、課税所得の金額を調査して決定する権限は府県の税務管理局と各地の税務署に移管された。以前の所得調査員会は廃止を免れたものの、所得金額の決定権をもたない諮問機関にとどまることになった。法人税の課税所得の決定権限をすべて政府に集約するこの集権的な徴税機構が、悪名高い「賦課課税制度」である。その悪名を高めたのは、お役人が個人の税額を勝手に決めて、お役人がその税金を高圧的に取り立てたからである。この賦課課税制度は、第二次大戦後のシャウプ勧告まで存続した。

  賦課課税制度のもとでは、法人の課税額がいくらなのかを決定するのも、またそれを徴収するのも課税当局である。それなのに、課税当局には各法人の原初データがなく、納税者の所得がいくらなのかが不明である。そこで法人税制の創設にあたり、課税当局は納税者に対して所得金額届に損益計算書を添付することを求めた。ところが、納税者が提出するこれらの書類には不実記載が多く、公正な課税額を決定するのにはほとんど役に立たなかった。そこで、大正2(1913)年の税法改正時に、財産目録、貸借対照表、損益計算書などへ添付書類の範囲を拡大したが、不実記載は一向に減らず、依然として虚偽、脱漏が幅を利かせることになった。こうした不正な提出書類に対して課税当局は取り締りの強化によって対抗したが、課税当局の高圧的な姿勢は法人税制に対する産業界の反発を強めるばかりであった。

  このような実情を受けて、大正2(1913)年の税制改正時に、納税者の申告が誠実なものであればそれを積極的に是認しようとする動きが、課税当局側に生まれた。この自主申告を奨励する運動は、大正9(1920)年の税制改正後にいっそう積極化され、納税者サイドにおいて計算した課税所得を、正直に自主申告しているかぎり、課税当局ではその申告所得を尊重することになった。

  この自主申告奨励制度のもとでは、課税所得の計算方法、計算の裏付け方、申告の仕方などについて、納税者と課税担当者とが知識を共有していなければならない。そこで大正9(1920)年の所得税法の改正を受けて、各府県の税務監督局ではまず内部向けの講習会を開催し、この課税担当者の再教育が一巡すると、引き続いて一般の納税者向けに講習会を開くことになった。

  この自主申告奨励活動において課税当局が注目したのは、会計帳簿の作成である。当時の商法25条には会計帳簿の作成義務が明記されていたが、罰則がなかったこともあって、この条文は宙に浮いており、日常取引を会計帳簿に記録している法人は、貿易商社、海運会社など、ごく一部の大会社に限られていた。街の商店や工場では、大福帳に債権・債務の増減を記帳するのがせいぜいであり、組織的な会計帳簿を作成している法人などほとんどなかった。しかし、これでは課税所得の自主申告のための資料が揃わないので、事業活動の経過をいかに会計帳簿に洩れなく記録させるか、これが講習会の中心的テーマとなった。しかし、会計帳簿というものは、いったいどのように作成したらよいやら、街の人々は迷うばかりであった。

  この場面において最も活躍できたのは、複式簿記であったかもしれない。しかし、大正時代になっても複式簿記は庶民からは遠い雲の上の存在であったし、洋式の帳簿も、ペンもインクもどこにも売られていなかった。入手可能な文具は、和紙を綴じた大福帳、硯と墨と筆、それにソロバンだけであった。アラビア数字を操れる人も多くはなかったと思われる。この環境において、課税当局は会計帳簿の作成をどのように指導したのであろうか。

  自主申告の奨励運動は長期にわたって、全国的に繰り広げられたが、その講習会のプログラムはみつかっていない。このため、自主申告奨励活動の内容がどのようなものであったかは、調査の手掛かりがまったくない。断片的な資料によると、出納帳への記帳が奨励されていたようでもあるし、取引の証憑書類を系統的に保存することの重要性が強調されていたようでもある。最も先進的な事例としては複式簿記の解説を試みているケースもあるにはあったようであるが、どのようなテキストを使って、だれが講師になって複式簿記を教えていたのかがはっきりしない。しかし、大正末期から昭和初期にかけて、仮に課税当局の自主申告奨励活動の一環として複式簿記の大衆教育が実施されていたとすれば、この発見は日本の簿記史・会計史において画期的な意義をもつといわなければならない。日本の簿記史・会計史の文献では、高等ビジネス教育機関における簿記・会計学教育に光が当てられることは少なくないが、税制との関連において実施された複式簿記教育が分析された例はこれまでになかったからである。

  通説によれば、日本の税制において自主申告制度が確立されるのは、昭和24(1949)年のシャウプ勧告においてである。会計帳簿の作成を前提にする青色申告制度が採用され、納税者の自主申告制度が日本の隅々に行き渡ることになったのは、シャウプ勧告にもとづく戦後の税制改革によるとされている。しかし、大正末期から昭和初期において課税当局により複式簿記教育が実施されていたとすれば、たとえ萌芽的なものであっても、自主申告制度はシャウプ勧告よりも25年も前に、日本の地に生まれていたことになる。

≪参考文献≫

税務関連法令集http://www.nta.go.jp/ntc/sozei/sousho/03.htm

同解説 http://www.nta.go.jp/ntc/sozei/sousho/03shotoku/kaidai.htm

◆次回の更新◆

  次回の更新は、1月ごろを予定しています。ご健康にはくれぐれもご留意いただいたうえで、秋の日々を存分にお楽しみください。ごきげんよう、さようなら。


2017.09.20

OBENET

代表 岡部 孝好