A Message from Webmaster to New Version(May 11, 2016)
2016年05月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆瓜生島の沈没◆
九州には桜島、霧島、阿蘇、島原などに活火山があり、あちこちで火を噴いているから、
地震は珍しいことではない。わたしは少年時代を大分県の国東半島で過ごしたから、地震はいつものことで、少々厳しい地震でも腰を抜かすようなことはなかった(ただし、阪神淡路大震災は例外で、あの時には本当に腰が抜けた)。ガタガタと揺れたあとで、棚の上のコップが落ちるようなことは、しょっちゅうあったような気がする。しかし、子供のころに伝え聞いた話で、いまもときどき思い出すのは、地震で大揺れした後、別府湾に浮いていた小島が沈没してしまったという戦国時代ので実話である。
今回の熊本地震はかなり大きな規模のもので、群発する余震もなかなか衰えをみせない。最初は阿蘇周辺だった震源地はいまや東西に広がり、湯布院、別府温泉にも移動しつつあるようにみえる。別府は田圃の用水路からお湯が噴き出しているところだから、地震とは無縁ではありえない。その別府でのお話である。
記録上の最も大きい大分県の過去の地震は「文禄の別府湾地震」――たぶんは慶長豊後地震が正式名――であろう。これは関ヶ原の戦いの4年前に、別府湾の活断層がずれたことによる直下型地震だといわれている。1596年9月4日(閏では文禄5年7月12日)に豊後国別府に発生したこの大地震は周辺に大打撃を与えたが、震源地に地殻変動を引き起こした。最も象徴的な地殻変動は、瓜生島(うりゅうじま)と久光島(ひさみつじま)が海底に沈没したことである。
地震前には、別府湾に2島が浮かんでいて、漁業の基地として周辺の漁民に親しまれていたという。それなのに大地震の後には2島は影も形もなくなって、別府湾の水面には静かな波が漂うばかりになった。地元の若い漁師が素潜りで昔の瓜生島の痕跡を探したところ、神社の階段らしきものが確認できたというが、真偽のほどはいまも不明である。何といっても瓜生島の沈んでいる海底は恐ろしく深く、簡単に調査できるところではないらしい。
現在の別府市の繁華街は海辺の浜脇から西のJR別府駅方面に拡がっているが、その浜脇の東の沖合に久光島が、そして久光島のさらに東に瓜生島があったという。瓜生島の鼻先には現在の大分市の勢家町(大分港付近)があったらしいから、別府と大分は2つの島を介して、海上においてつながっていたことになる。当時の豊後国の首府
は「府内」と呼ばれ、その西方の保養地は「別府」といわれていたから、久光島と瓜生島は、2つの「府」を結びつけつる要路だったわけである。しかし、意外と文献的証拠も少ないらしく、つい500年ほど前のことなのに、事実関係ははっきりしていない。
この別府湾地震に連動する形で発生したのが、慶長伊予地震と慶長伏見地震である。別府湾地震はあちこちに大規模な地震を誘発したが、格別大きかったのが愛媛県の地震と京都府の地震であった。伊予の誘発地震は瀬戸内海の沿岸部に、特に愛媛に壊滅的な打撃を与えたし、京都伏見の誘発地震は、秀吉が建築していた伏見城の天守閣を倒壊させるなどの大被害をもたらした。
◆予算の移用と流用◆
日本政府から給付された国庫補助金をどう使うか、ここの課題である。たとえば、
X先生の研究補助金として1,000万円が支給されることが決まったとしよう。この1,000万円
はX先生の研究助成を目的とするものであり、それ以外の目的に使ってはならない。当り前のことであるが、このことが次の含意をもっていることにまず注意したい。
(1)X先生以外の人間が、この補助金を使ってはならない。Y先生がX先生の補助金を使用すると、それは補助金の「移用」になって、罰則が適用される。移用というのは「目的上の使用」といっても、本来の人物とか本来の部署ではないところに予算を充当することであり、「盗用」にも相当することばである。
(2)X先生が勤務するZ大学の経費を補填するために、この補助金を使ってはならない。大学経費への充当は、X先生の研究の範囲を超えている点では、補助金の「移用」にあたる。大学経費への充当は、X先生の研究目的に含まれない点では、「目的外使用」そのもであり、補助金の「流用」とみなされる。
(3)X先生へ支給される1,000万円は、その使途が事前に(申請時に)決められている。たとえば図書200万円、旅費交通費300万円、研究補助者人件費500万円という明細になっているとすると、この明細は大枠であり、変更することはできない。明細であれ何であれ支出の基本計画を示すのが予算の枠組みであり、予算制度上は「款」という大分類に属するとされている。予算執行において2つ以上の款に跨る補助金の使用は禁じられているから、仮に図書費が30万円余っているからといって、それを旅費交通費に充当すると、補助金の「目的外使用」とみなされ、罰則が適用される。ある款の予算を他の款の予算に回すのは、2つの款を跨ぐ予算執行を意味するのである。
補助金予算の分類においては、「款」は「項」に、「項」はさらに「目」に細分される。この予算枠の細分化がすすむにつれて金額も小さくなっていくが、これに応じて「予算の流用」もその縛りが緩くなる。補助金の流用には(a)正当な理由があって、しかも(b)流用の手続きにしたがっていなければならないが、分類が小さくなると、これら(a)と(b)のいずれにおいても、その内容が簡略化される。「目」にあたる費目では補助金の流用が許されているが、その理由も手続きも厳格な要件は求められていない。しかし、「項」になると、かなり明確な理由が必要であって、上司の決裁を経ている場合でないと、予算の流用は許されない。「款」になると、縛りはさらに厳しくなって、流用禁止となる。
補助金については「事故」が多いが、それは「予算は単なる努力目標であり、達成しても達成しなくてもよい」という甘い考えによることが多い。実際には予算は縛りがタイトな数字であり、予算の枠を踏み越えることは本来は不可能ことなのである。特に大分類の「款」にことことがいえ、この分類枠を踏み越えると、犯罪者になってしまう。
◆会計不正:マスキング価格(再)◆
2015年に発覚した東芝の一連の会計不正の中で、「マスキング価格」ほど珍妙な手口はない。その名称は社内の隠語であったのかもしれないが、字義通りに解すると「覆面価格」を意味するから、事実を隠蔽するヤミ価格が、大手を振って東芝の社内を闊歩していたという印象を受ける。
会計不正では純利益を実際よりも多く見せ掛けるのがふつうである。純利益は次の式で計算される。
収益 − 費用 = 純利益
純利益を実際よりも多く見せ掛けるには、収益を嵩上げするか、費用を隠すかしかないことになるが、ふつうは収益の嵩上げの方が選択される。最も一般的な収益項目は売上高であるから、売上高の過大計上が純利益を多く見せ掛ける最も典型的な手法になる。
ところが、東芝では、費用の過小計上によって、純利益を膨らませたのである。いったいどのようにして、費用を過小に計上することができたのであろうか。この問いに答えるには、費用が増える道筋をまず理解しておいて、次にこの道筋を逆転させて、費用が減少したように見せ掛けるテクニックを使うことになる。
いま商品の仕入れを行って現金\100を支払うとすると、現金が減るが同額の資産(棚卸資産)が増えるから、費用が増えたことにはならない(掛けによって商品を仕入れても結果は同じで、負債(買掛金)と資産(棚卸資産)が同じ額だけ増えることになる)。その商品を顧客に\150で現金販売すると、受け取った現金に相当する売上高\150が計上され、同時に商品の仕入価格に相当する費用\100が計上される。顧客への販売時に計上されるこの費用(売上原価)は、商品という大切な棚卸資産を販売によって失ったという理由によるものである。
(借方)売掛金 15O (貸方) 売上高 150
売上原価 100 棚卸資産 100
収益\150は現金増加額\150に等しいし、費用\100は商品(棚卸資産)の減少額\100と同じである。したがって純利益\50は収益と費用の差額として計算できるが、現金増加額と棚卸資産減少額の差額としても計算することができる。このニつの計算をなにげなくしているところが複式簿記の妙技である。
この予備知識にもとづいて、東芝の不正会計に話をすすめよう。東芝のマスキング価格というのは、架空販売のケースに当たるから、売れてもいないのに売上高を計上するというのが「本来の不正の手口」だといえる。ところが、東芝はこの「本来の不正の手口」を使わなかった。しかし、架空販売だとすれば、話の筋道として、「本来の不正の手口」によっていればどういうことになっていたかを、先に確かめておく必要があろう。
架空販売というのは実際には販売していないのに、販売取引をでっちあげることであるから、マスキング価格をいくらにするかは、好き勝手に決めることができる。東芝がでっちあげたその価格は原価の6倍とか8倍という説があるが、ここでは単純化して5倍だと仮定することにしよう。\100の商品を\500で売ったと偽って、\400の純利益をえたことにするわけである。その場合には、会計学では次の処理をしなさいと、教室では教えている。
(借方)売掛金 500 (貸方) 売上高 500
売上原価 100 棚卸資産 100
本当に販売取引があった場合には、商品の実物が売り手から買い手へ動くし、運賃などの関連経費も発生する。会計監査人は実際の荷動きとか関連経費などを確認して、販売取引が本物かどうかをたしかめるという決まりになっている。だから、商品が倉庫に眠ったままなのに、販売取引あったというニセ伝票を起こすようなことはできない。そこで、東芝の担当者が智恵に智恵をしぼって考え出したのが、OEMである。OEMというのは、「東芝のマークの付いたパソコンを、東芝の指図通りに製造してください」という形で、他のメーカーへ生産を委託することである。材料はすべて東芝が支給し、工賃だけを東芝が委託先に支払う。支給した材料は東芝の商品を委託先に預けただけのことだから、空間的に委託先に移動していても、その所有権は東芝が握ったままである。したがって商品が販売されたことにはならないが、空間的に移動しているので、販売を見せ掛けるには多少は役に立つ、と東芝の担当者には思えたかもしれない。
しかし、OEMという委託取引をそのまま売上高に計上すると、架空販売が露見してしまう可能性が大きい。売上高は監査人にとっても最も重要なチェック項目であり、売上高を操作すると、監査人に簡単に見つかってしまうおそれがある。そこで東芝では、OEMの材料支給分を売上高に計上する処理をあきらめた。「本来の不正の手口」ではみつかりやすいから、その手口を離れて、監査人のチェックが緩い非標準的な手口を採用したのである。その非標準的な不正の手口は、次のような処理になっているという。
(借方)売掛金 500 (貸方) 売上原価 500
売上原価 100 棚卸資産 100
売上高に計上する代わりにマスキング価格\500をそっくり売上原価に計上しているので、棚卸資産の減少額と差し引きすると、売上原価はマイナス\400となっている。売上原価は費用項目なので、売上原価が\400少なくなるとれば、それだけ純利益は増加する。純利益が\400増加するということは、結果において架空売上を\500計上したのと同じことになる。
東芝では、翌期にOEMのパソコンが納品された時点で、上の架空販売の処理をすべて取り消すとともに、たとえば外注加工費\50を計上して、実際の取引処理に引き戻している。
(借方)売上原価 500 (貸方) 売掛金 500
棚卸資産 100 売上原価 100
(借方)外注加工費 50 (貸方) 未払金 50
上半分は前期の架空取引の取り消しであり、下半分は本来の委託製造による工賃の計上である。架空販売を取り消せば元に戻ったようにみえるかもしれないが、そうではない。前の年度に\400の架空利益を公表済みであるから、会計不正はすでにその目的を達成しているのである。
さて、ここでマスキング価格という会計不正が、監査においてなぜ発見されなかった点にも、注意を促したい。たしかに架空販売によって売上高は嵩上げされていないが、その言い訳は通用しないであろう。架空販売による売掛金(あるいは特別の「未収入金」とされていたかもしれない)は計上されていたのであるから、通常の監査手続きにおいて、この営業債権の存否は期末に必ず確認されなければならないことであった。また、マイナスの売上原価というのも、大量の返品でもなければありえない会計処理なのであるから、監査人が見落としてはならないことである。しかも、期末の架空販売の処理を翌期にそっくり取り消しているのだから、巨額の金額を期初に修正処理しているという異常性だけからしても、監査に手抜かりがあったというそしりは免れないであろう。
◆明治時代の神戸三ノ宮駅(再)◆
明治初年に神戸から東京に向かう場合に、陸路の東海道を辿るとすれば、まず大阪の八軒浜(いまの天満橋)に出て、船便で淀川を遡上し、京都下京の「伏見港」にたどり着く。江戸時代
にはこの伏見港は重要な交通の中継地になっており、旅人のために旅籠、馬匹、駕籠が揃えられていた。そこから東海道53次を2週間ほどもトボトボと歩くわけだから、東京行き
も大変な難苦行であった。日程に余裕があっても、足腰に自信がもてない人は、旅そのものを諦めざるをえなかったろう。
明治初年には神戸港―横浜港には定期船の運航があったらしく、この船便によると3−4日で東京に行くことが可能であった。しかし、運賃は高価で、とても庶民が払える金額では
なかった。明治中期の官吏の月給が2円のとき、横浜までの船賃が8円だったというから、初任給20万円のいまの公務員に換算するとすれば、横浜までの片道の船賃は80万円であっ
た勘定になる。この運賃は、いまでは豪華客船に乗って北アメリカへを漫遊旅行する値段に相当するから、庶民が手が出なかったのは当然である。
東京では明治5年に、新橋―横浜(桜木町)間に日本最初の鉄道が敷設され、「陸蒸気」(おかじょうき)が走り出した。関西では2年遅れて、明治7年に神戸ー大阪間に鉄道が
開通して、陸蒸気の定時運行がはじまった。東京と神戸の間には、関ケ原、箱根などの「天下の険」が多いから、東と西の両側から両方をつなぐ工事がすすんだが、この延伸工事
は困難をきわめた。難工事の末にこれら東と西の短い2本の鉄道が接合され、東海道線となるのは、明治22年のことである。初期でも1日に1本の直通列車が、往復で運行されて
いたが、片道は20時間だったというから、徒歩や船旅に比べると、とんでもなく旅程が短縮されていたことになる。明治29年には急行列車が生まれ、神戸と東京の間はさらに15時
間程度に短縮された。
当時の神戸駅があったのは現在の元町付近であり、当時の正式な名称は「神戸三ノ宮」であったらしい(写真はジュンク堂で売っていた当時の観光絵葉書を複写したもの)。この
神戸三ノ宮駅の南側には京街の外人居留地が拡がっており、さらにその南にはメリケン波止場などの突堤が並んでいた。神戸三ノ宮駅の北側は昔の城跡であり、神戸港が一望でき
る花隈の台地として知られている。この駅北側の高台の、さらに北側にはいまでは下山手通り、中山手通りという大通りが東西に貫き、県庁、警察本部などの官庁街が拡がている
が、この高台は明治時代でも神戸の一等地であったものと思われる。こうした神戸市街地のド真ん中であったのが、当時の神戸三ノ宮駅なのである。
◆次回の更新◆
次回の更新は、8月ごろを予定しています。梅雨がすぎると太陽の季節になりますが、
このころになると、旅行、パーティ、スポーツなど、ますます盛んになってきます。ご健康にはくれぐれもご留意いただいたうえで、今年の夏も存分にお楽しみください。ごきげんよう、さようなら。
2016.05.11
OBENET
代表 岡部 孝好

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