A Message from Webmaster to New Version(February 10, 2016)


   2016年02月版へのメッセージ


     OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


(暖冬の豪雪)

◆会計不正:マスキング価格◆

  2015年に発覚した東芝の一連の会計不正の中で、「マスキング価格」ほど珍妙な手口はない。その名称は社内の隠語であったのかもしれないが、字義通りに解すると「覆面価格」を意味するから、事実を隠蔽するヤミ価格が、大手を振って東芝の社内を闊歩していたという印象を受ける。

  会計不正では純利益を実際よりも多く見せ掛けるのがふつうである。純利益は次の式で計算される。

  収益 − 費用 = 純利益

   純利益を実際よりも多く見せ掛けるには、収益を嵩上げするか、費用を隠すかしかないことになるが、ふつうは収益の嵩上げの方が選択される。最も一般的な収益項目は売上高であるから、売上高の過大計上が純利益を多く見せ掛ける最も典型的な手法になる。 ところが、東芝では、費用の過小計上によって、純利益を膨らませたのである。いったいどのようにして、費用を過小に計上することができたのであろうか。この問いに答えるには、費用が増える道筋をまず理解しておいて、次にこの道筋を逆転させて、費用が減少したように見せ掛けるテクニックを使うことになる。

(六甲台キャンパス兼松記念館前[2016.2.4])

  いま商品の仕入れを行って現金\100を支払うとすると、現金が減るが同額の資産(棚卸資産)が増えるから、費用が増えたことにはならない(掛けによって商品を仕入れても結果は同じで、負債(買掛金)と資産(棚卸資産)が同じ額だけ増えることになる)。その商品を顧客に\150で現金販売すると、受け取った現金に相当する売上高\150が計上され、同時に商品の仕入価格に相当する費用\100が計上される。顧客への販売時に計上されるこの費用(売上原価)は、商品という大切な棚卸資産を販売によって失ったという理由によるものである。

   (借方)売掛金    15O (貸方)  売上高    150

       売上原価   100       棚卸資産   100

  収益\150は現金増加額\150に等しいし、費用\100は商品(棚卸資産)の減少額\100と同じである。したがって純利益\50は収益と費用の差額として計算できるが、現金増加額と棚卸資産減少額の差額としても計算することができる。このニつの計算をなにげなくしているところが複式簿記の妙技である。

  この予備知識にもとづいて、東芝の不正会計に話をすすめよう。東芝のマスキング価格というのは、架空販売のケースに当たるから、売れてもいないのに売上高を計上するというのが「本来の不正の手口」だといえる。ところが、東芝はこの「本来の不正の手口」を使わなかった。しかし、架空販売だとすれば、話の筋道として、「本来の不正の手口」によっていればどういうことになっていたかを、先に確かめておく必要があろう。

  架空販売というのは実際には販売していないのに、販売取引をでっちあげることであるから、マスキング価格をいくらにするかは、好き勝手に決めることができる。東芝がでっちあげたその価格は原価の6倍とか8倍という説があるが、ここでは単純化して5倍だと仮定することにしよう。\100の商品を\500で売ったと偽って、\400の純利益をえたことにするわけである。その場合には、会計学では次の処理をしなさいと、教室では教えている。

   (借方)売掛金   500 (貸方) 売上高    500

       売上原価  100      棚卸資産   100

  本当に販売取引があった場合には、商品の実物が売り手から買い手へ動くし、運賃などの関連経費も発生する。会計監査人は実際の荷動きとか関連経費などを確認して、販売取引が本物かどうかをたしかめるという決まりになっている。だから、商品が倉庫に眠ったままなのに、販売取引あったというニセ伝票を起こすようなことはできない。そこで、東芝の担当者が智恵に知恵をしぼって考え出したのが、OEMである。OEMというのは、「東芝のマークの付いたパソコンを、東芝の指図通りに製造してください」という形で、他のメーカーへ生産を委託することである。材料はすべて東芝が支給し、工賃だけを東芝が委託先に支払う。支給した材料は東芝の商品を委託先に預けただけのことだから、空間的に委託先に移動していても、その所有権は東芝が握ったままである。したがって商品が販売されたことにはならないが、空間的に移動しているので、販売を見せ掛けるには多少は役に立つ、と東芝の担当者には思えたかもしれない。

  しかし、OEMという委託取引をそのまま売上高に計上すると、架空販売が露見してしまう可能性が大きい。売上高は監査人にとっても最も重要なチェック項目であり、売上高を操作すると、監査人に簡単に見つかってしまうおそれがある。そこで東芝では、OEMの材料支給分を売上高に計上する処理をあきらめた。みつかりやすい「本来の不正の手口」を離れて、監査人のチェックが緩い非標準的な手口を採用したのである。その非標準的な不正の手口は、次のような処理になっているという。

   (借方)売掛金    500 (貸方)  売上原価   500

       売上原価   100       棚卸資産   100

  売上高に計上する代わりにマスキング価格\500をそっくり売上原価に計上しているので、棚卸資産の減少額と差し引きすると、売上原価はマイナス\400となっている。売上原価は費用項目なので、売上原価が\400少なくなるとれば、それだけ純利益は増加する。純利益が\400増加するということは、結果において架空売上を\500計上したのと同じことになる。

  東芝では、翌期にOEMのパソコンが納品された時点で、上の架空販売の処理をすべて取り消すとともに、たとえば外注加工費\50を計上して、実際の取引処理に引き戻している。

   (借方)売上原価   500 (貸方)  売掛金    500

       棚卸資産   100       売上原価   100

   (借方)外注加工費  50  (貸方)  未払金    50

  上半分は前期の架空取引の取り消しであり、下半分は本来の委託製造による工賃の計上である。架空販売を取り消せば元に戻ったようにみえるかもしれないが、そうではない。前の年度に\400の架空利益を公表済みであるから、会計不正はすでにその目的を達成しているのである。

  さて、ここでマスキング価格という会計不正が、監査においてなぜ発見されなかったとい点にも、注意を促したい。たしかに架空販売によって売上高は嵩上げされていないが、その言い訳は通用しないであろう。架空販売による売掛金(あるいは特別の「未収入金」とされていたかもしれない)は計上されていたのであるから、通常の監査手続きにおいて、この営業債権の存否は期末に必ず確認されなければならないことであった。また、マイナスの売上原価というのも、大量の返品でもなければありえない会計処理なのであるから、監査人が見落としてはならないことである。しかも、期末の架空販売の処理を翌期にそっくり取り消しているのだから、巨額の金額を期初に修正処理しているという異常性だけからしても、監査に手抜かりがあったというそしりは免れないであろう。

◆ケーキの切り分け:制度設計の寓話◆

  一個のケーキがテーブルの上にあって、二人の子供に半分ずつを分け与えたい。母親はナイフでそのケーキを切り分けるが、子供たちは 自分の取り分をめぐっていつもケンカをはじめて、最後には泣きわめく。おいしいケーキなのだから、仲良く食べたら、どれほどよいだ ろうか。

  母親は考えに考えて、新しいルールを作り、子供たちに説明して、納得してもらう。母親は次からケーキは切らない。ナイフを子供のど ちらかに渡すから、ナイフを渡された方は、ケーキを半分に切ってほしい。ナイフを渡されなかった方の子供は切ったケーキを先に取る 権利がある。ケーキを切った方が先に取ってはならない。この新しいルールによって、次から自分たちでケーキの切り分けをしてほしい。 これで紛争はなくなった。

  この寓話における母親は公共機関(つまり政府)であり、子供は市民である。ケーキの切り分けは市民の間の富の配分である。市民の間 の富の 配分に政府は介入したがるが、その直接介入はふつうはうまくいかない。政府の介入は、紛争を大きくするだけである。しかし、紛争を 予防することは、政府の重要な仕事である。そうした政府の役割は制度設計(mechanism design)と呼ばれるが、制度設計において大切な点 は市民同士の間で問題を解決するようにすることである。政府が自分で手を出すことではない。政府の役割をルール作りに限定すれば、民 間の活力が生かされるし、政府のコストも減る。

Narahari, Y., Game theory and Mechnism Design (IISc Press,2014),pp.206-207.

◆キセル◆

  喫煙道具の1つに「キセル」がある。火皿とラオ竹と吸い口の3部品 が連接されたパイプで、火皿に詰めた刻みタバコに点火して、吸い口 からその煙を肺に吸い込んで、喫煙を楽しむ。

  すり鉢円形の火皿の直径は1cmほどあり、指先で丸めた刻みタバコを 火皿に押し込んで火を付ける。2口ー3口吸うと灰になってしまうの で、たばこ盆の角にキセルを打ち付けて、灰皿に灰を落とす。空にな った火皿に再度刻みタバコを詰めて、火を点けて、煙を吸う。この動作を 3ー4回繰り返すと、「いっぷく」が終わることになる。

  いまどき、キセルでいっぷくする人などいなから、キセルといっても何のことことかわからない人がほとんどである。 キセルというのは、ひょっとして「電車の無賃乗車」のことではないか? あたりではないが、関係あることは事実 である。

  電車に乗るとき、乗車駅の1区間の切符と下車駅の1区間の切符の2枚をもっていて、途中駅の乗車賃を払わないのが 電車の「キセル乗車」である。なぜそういう名前がついたかというと、乗車駅が吸い口、下車駅が火皿だとすれば、こ れら2つだけが「カネ」で出来ていて、2つをつなぐ途中(ラオ竹)が「カネ」で出来ていないからである。

  「キセル乗車」にも無賃のラオ竹部分が長いのと短いのがあるであろうが、本物のキセルにも、ラオ竹がおそろしく長 いのがある。わたしは吸ったことはないが、中国人の写真には身長ほども長いキセルを吸っているのがあった。

  なお、余談ながら、本物のキセルの「カネ」は真鍮であり、「ラオ竹」というのは南アジアのラオスで採れた黒竹という ことらしい。いずれも最近ではみかけないが、骨董屋に出せば、けっこういい値段で引き取ってもらえるのではないでし ょうか。

◆神戸高商から神戸商大への昇格時(昭和4年)における制度設計ミス◆

  明治時代において「大学」というのは、明治19(1886)年公布の「帝国大学令」によって設立された大学を指しており、東京帝国大学(明治19年設立、明治30年までは「帝国大学」 が正式名)と京都帝国大学(明治30年設立)の外には大学はなかった。これらの明治時代の大学は複数の学部を統合する「総合大学」を前提にしており、単科大学など、専門分野 別の大学は文部省の眼中に入っていなかった。明治末になると、最高教育機関をもっと増やさなければ日本における指導者の養成が間に合わないという批判が強まり、文部省は大学の増設 を急ぎはじめた。しかし、依然として「大学は帝大タイプの総合大学」というのが前提になっていたから、理工系でも社会科学系でも、単科大学が創設されるようなことはなく、 帝大の数が少し増えただけにとどまった。大正7年までに開校していた大学は、東京帝大、京都帝大、東北帝大、九州帝大、北海道帝大の5校だけである。

  大正7年、「大学令」が発令され、文部省は単科大学と公私立大学を設立することを認め、これを受けて帝国大学とは異なるタイプの大学が日本にも生まれることになった。東京高 商と神戸高商ではかなり前から大学昇格運動を繰り拡げていたが、この政策転換に飛び付く形で、念願の「商業大学」に生まれ変わることになった。大正9(1920)年にまず東京高等 商業学校が東京商科大学への昇格を果たしたし、次いで昭和4(1929)年に、神戸高等商業学校が神戸商業大学に昇格した。いずれも単科大学であるが、学部は3年制、研究科は2年制 という学制であり、帝大と同等の大学としてめでたく生まれ変わったわけである。

  神戸高商はこうして昭和4年に神戸商大に昇格したが、この「昇格」ということを正しく理解しているひとは少ない。昇格いうのは、校門の看板を架け替えただけのことだ、という誤 解が多いのである。神戸商大は神戸高商とは「格」が違っており、神戸高商より一段上に位置する教育機関であるから、看板の架け替えといった簡単な話ですますわけにはいかないの である。現在に引き直すと、高等学校を大学に格上げすることに相当するのはたしかであるが、高等学校を廃校にしてしまうという点で、この改革はかなりややこしい内容になってい る。

  明治以来の高等教育のモデルは、帝大方式では、旧制中学(5年制)→旧制高校(3年制)→帝国大学(3年制)→大学研究科(2年制)となっていた。このモデルに沿うと、神戸高商 (4年制)は、帝国大学入学前の予備的ステップである旧制高校(3年制)にほぼ相応する。そこで昇格以前においては、神戸高商(および東京高商)ではその上に専攻部(2年制)を 継ぎ足し、神戸高商の卒業生は帝大卒と同等だと主張していたのである。旧制高校(3年制)と帝国大学(3年制)を通算すると6年になるが、神戸高商(4年制)と専攻部(2年制)を 通算すると、これも6年になるからである。

  当時の標準モデルによりながら神戸高商を大学に昇格させるとなると、神戸高商を旧制高校と同格とみなして、まず神戸高商を廃校にし、次に帝大と同格の神戸商大を新規に開校するほか はない。これが当時の関係者が達した結論であり、こうして神戸高商の廃校と神戸商業大学の新設とを並行的すすめることが決まった。キャンパスと学舎はそっくり引き継がれ、看板だけ 架け替えられたように外部には写ったが、内部では大忙しであった。特に教育・事務職員と在学生を手当する問題が大きかった。そこで、移行期間を設けて、暫定措置を通じて徐々に実施 する運びなったが、その概要は次のようである。

(1) 神戸高商には在校生がいるので、即座には廃校にしない。とりあえず神戸高商は神戸商大の「商学専門部」に名称変更して、存続させる。在校生の卒業を待って、3年先の昭和7年 に専門部そのものを廃止する。

(2) 専門部においては新規入学生の募集を停止する。専門部に移籍した高商の学生には従来からの高商の講義を実施する。

(3) 新設の商大は、有資格者を対象に新規に学生募集を行う。有資格者には昇格前の神戸高商(および他の一般高商)の卒業生を含める。

(4) 昇格前の高商の教育・事務職員は原則として商大に移籍させる。この移籍は、専門部と商大の学部の開講科目を勘案して、3年間を通じて順次実施する。

  神戸商大では毎年新入生を受け入れるが、その入学資格については、帝大の入試制度と同様とすることが大学令に定められている。帝国大学に入学するには、5年制の旧制中学校の4年次以 上を修了し、さらに旧制高校の3年課程を修了していることが要件とされている。神戸商大の入試制度はこの帝国大学の標準パターンに準じているから、旧制中学(または旧制商業学校)の 3年次を修了し、そのうえに旧制高校に3学年以上在学していなければ、入学資格を満たさない。昇格前の神戸高商であれば、旧制中学校と旧制商業学校の卒業生なら、そのまま直ちに進学 できたのに、神戸商業大学となるとそのうえさらに旧制高校3年が追加的に要求されるのだから、受験生にとっては壁が格段に高くなった。

  昇格時に神戸高商に在学中の学生は、3年(本科2年)次を修了すれば旧制高校卒と同等とみなされ、神戸商大の学部への入学資格が与えられる。また山口、長崎、小樽など、3年制の一般高 商卒業生にも、同じ理由によって神戸商大への入学資格が認められた。この点では、神戸高商の3年次修了生にも一般の高商の卒業生にも不利益はなく、たしかに神戸商大の門は開かれたとい える。しかし、神戸商大専門部(旧神戸高商)は3年後の昭和7年に廃校することが決定済みであり、新入生の募集はすでに停止されている。昭和8年以降になると神戸商大専門部(旧神戸高 商)の出身者は神戸商大ではゼロになるから、内部進学のルートが途絶する。

  東京商科大学ではこの問題を予見し、東京高商からの昇格と同時に「予科(3年制)」を開設し、予科から大学学部への内部進学の途を確保していた。予科は旧制高校と同格であるから、これが 設置されていると、予科3年、大学3年、計6年の一貫教育が可能になる。それなのに神戸商大では何を間違えたか、予科の開設を置き去りにしたまま大学の設置をすすめてしまった。このため に神戸商大専門部(旧神戸高商)が廃止されると、内部から進学する学生は1人もいなくなった。予科を設置していれば、従来と同様に、旧制中学校と旧制商業学校の卒業生をひとまず予科で教 育し、次いで大学に内部進学させることが可能であったのに、そのルートが閉ざされたのである。この制度設計のミスにだれが、いつごろ気づいたのかは不明であるが、神戸商大専門部(旧神戸 高商)が廃止され、内部進学者がゼロになったときには、だれの目にも結果は明らかになった。そこで、神戸商大では大慌てで、予科の開設に動きはじめた。

  神戸商業大学では昭和15(1940)年になって、予科(3年制)の開設に漕ぎつけた(神戸商業大学から改名した神戸経済大学では昭和25(1950)年3月に予科を廃止)。しかし、昭和18(1943)年から 昭和25(1950)年までの7年間、神戸商業大学への内部進学者はゼロで、空白の時代がつづいた。その間に神戸商業大学に入学してきたのは、旧制高校と一般高商の卒業生たちであった。第二次 世界大戦の開戦直前から終戦直後にいたる古い話である。

◆明治時代の神戸三ノ宮駅(再)◆

  明治初年に神戸から東京に向かう場合に、陸路の東海道を辿るとすれば、まず大阪の八軒浜(いまの天満橋)に出て、船便で淀川を遡上し、京都下京の「伏見港」にたどり着く。江戸時代 にはこの伏見港は重要な交通の中継地になっており、旅人のために旅籠、馬匹、駕籠が揃えられていた。そこから東海道53次を2週間ほどもトボトボと歩くわけだから、東京行き も大変な難苦行であった。日程に余裕があっても、足腰に自信がもてない人は、旅そのものを諦めざるをえなかったろう。

  明治初年には神戸港―横浜港には定期船の運航があったらしく、この船便によると3−4日で東京に行くことが可能であった。しかし、運賃は高価で、とても庶民が払える金額では なかった。明治中期の官吏の月給が2円のとき、横浜までの船賃が8円だったというから、初任給20万円のいまの公務員に換算するとすれば、横浜までの片道の船賃は80万円であっ た勘定になる。この運賃は、いまでは豪華客船に乗って北アメリカへを漫遊旅行する値段に相当するから、庶民が手が出なかったのは当然である。

  東京では明治5年に、新橋―横浜(桜木町)間に日本最初の鉄道が敷設され、「陸蒸気」(おかじょうき)が走り出した。関西では2年遅れて、明治7年に神戸ー大阪間に鉄道が 開通して、陸蒸気の定時運行がはじまった。東京と神戸の間には、関ケ原、箱根などの「天下の険」が多いから、東と西の両側から両方をつなぐ工事がすすんだが、この延伸工事 は困難をきわめた。難工事の末にこれら東と西の短い2本の鉄道が接合され、東海道線となるのは、明治22年のことである。初期でも1日に1本の直通列車が、往復で運行されて いたが、片道は20時間だったというから、徒歩や船旅に比べると、とんでもなく旅程が短縮されていたことになる。明治29年には急行列車が生まれ、神戸と東京の間はさらに15時 間程度に短縮された。

  当時の神戸駅があったのは現在の元町付近であり、当時の正式な名称は「神戸三ノ宮」であったらしい(写真はジュンク堂で売っていた当時の観光絵葉書を複写したもの)。この 神戸三ノ宮駅の南側には京街の外人居留地が拡がっており、さらにその南にはメリケン波止場などの突堤が並んでいた。神戸三ノ宮駅の北側は昔の城跡であり、神戸港が一望でき る花隈の台地として知られている。この駅北側の高台の、さらに北側にはいまでは下山手通り、中山手通りという大通りが東西に貫き、県庁、警察本部などの官庁街が拡がている が、この高台は明治時代でも神戸の一等地であったものと思われる。こうした神戸市街地のド真ん中であったのが、当時の神戸三ノ宮駅なのである。

◆戦後の資産再評価法と渡辺進先生(再)◆

  第二次世界大戦後、例によって大インフレが激進して、取得原価基準の会計制度はもはや耐えられなくなってしまった。販売目的の棚卸資産は頻繁に入れ 替えられるから、この入れ替えにともなって新しいその時々の時価を反映する価額に自動的に変更されるが、設備などの固定資産は古い戦前の価額に据え 置かれたままになっている。このため、減価償却費などがまったく無意味な数字になっていた。この状況を受けて「物価変動会計」の議論が巻き起こされ、 「資産再評価法」の立法という臨時措置によって苦境を切り抜けるということになった。日本では、この「資産再評価法」が三次にわたって施行された。

  日本における資産再評価法の特徴は、次のような点にあった。

(1)資産の再評価によって資産を再評価するかどうかは強制的なものとせず、会社の選択に任せる。

(2)資産再評価の対象資産は固定資産とするが、どの固定資産を対象資産に含めるかは会社の判断に任せる。

(3)資産を再評価すれば、原価と時価(取替原価)との間に差額が発生するが、この差額――再評価積立金――は資本剰余金とし、純資産の一部とする。

(4)再評価積立金は配当の財源には充当できないものとするが、過年度から累積している欠損金の填補に当てることができる。

  後年になってこの資産再評価法に触れた学術論文を読んだ覚えがあるが、そのほとんどは「どの時価が正しいか」、「減価償却費の計算はどうなったの か」など、資産の評価額とか、費用の計上額の正当性にかんする議論が大勢を占めていたように思う。取得原価と時価の差額は資本剰余金として隔離され、 利益計算の枠外に放出されていたから、大筋において会計学上の問題は少ないとみなされ、学会ではほぼ肯定的に受け止められていたのである。

  最近になって太田哲三先生の回顧録(*)を拝読していたところ、こうした資産再評価法に対するわたしの解釈が見当違いであったことが わかってきた。資産再評価法は実質的には「会社再組織法」ともいうべきもので、疲弊した会社の「新出発」(fresh start)を促す会計手法 であったのである。なぜそういう解釈になるかというと、次のような理由があげられる。

*太田哲三著、『会計学の四十年』(中央経済社、昭和31年)。

(1)好業績の会社とか繰越損失(欠損金)がほとんどない会社においては、資産再評価の実施を差し控え、固定資産を引き続いて取得原価で評価する 傾向が一般的であった。これは、旧来の低い固定資産価額を継続すると減価償却費が少なくてすむので、純利益が膨らみ、配当を続けるのが容易だった ことによるとみられている。

(2)巨大な繰越損失(欠損金)を抱える会社は資産再評価をすぐさま実施して、固定資産価額を膨らませる一方において、多額の再評価積立金を計上した。 そしてこの多額の再評価積立金を利用して、過年度からの繰越損失(欠損金)を一掃してしまった。この結果として、多額の繰越損失(欠損金)を抱えていた会社 でも配当することが可能になり、復配するケースが目立って増えた。

(3)資産再評価を実施した会社側の理由は、固定資産価額を適正にするとか、減価償却費の計算を適正にするということではなかった。会社が固定資産を 再評価したのは戦時に積み上がった繰越損失(欠損金)の圧迫を逃れるためであり、繰越損失(欠損金)の消去によって、会社の新出発を図るのが主たる目 的をなしていた。

  終戦直後というのは、大砲や戦闘機を作っていた会社も作るものがなくなって、ナベ・カマを作って従業員を養っていた時代である。増資などとても出来 る環境ではなかったし、借金しようにも銀行がお金をもっていなかった。それなのに会社は資金に窮していて、出資や貸付けによる資金調達の途を模索していた。しかし会社 の繰越損失(欠損金)が障害になって、資金調達の途が閉ざされていた。債務超過の会社とか債務超過に瀕している会社に出資するとか、貸出しをするなど ということは、当時でもとんでもないことであったのである。そこに資産再評価法という一陣の風が吹き抜けて、繰越損失(欠損金)という重しがどこかに吹き飛ばされ たのである。債務超過に喘いでいた会社は立ち直り、戦後の復興に光が射しはじめた。

  昭和23(1948)年ごろ、この資産再評価法の立法を政府に建言したのは紡績連合会であったが、その原案を立案して建議書を書いたのは東洋紡経済研究所 次長の渡辺進氏であった。渡辺進氏は1950年に神戸大学経済経営研究所教授に迎えられ、1967年に定年退官するまで、神戸大学の会計学スタッフとして活 躍された。名著の名が高い渡辺進著『棚卸資産会計』(1958年)は、氏の代表作の1つである。

  わたしは昭和42(1967)年に神戸大学経営学部を卒業し、昭和44(1969)年に経営学研究科修士課程を終えているから、わたしの在学期間は渡辺進先生の在任期 間と重なっている。しかし、研究所に渡辺先生という偉い大先生がおられるという話は何度か耳にしたが、残念なことにお会いする幸運には恵 まれなかった。資産再評価法に渡辺進先生が関与されていたという話はまったく耳にしていなかったうえに、渡辺先生は棚卸資産の専門家で、固定資産には 無関係と思い込んでしまっていた。惜しい機会を逃したものである。

◆次回の更新◆

  次回の更新は、桜の咲くごろを予定しています。暖冬、暖冬というので、マフラー一枚で冬を越せるのかと思っていたところ、 とんでもない冬の嵐に襲われ、凍えそうになりました。しかし、梅の花もすいぶんと早くから芽を出しているようですから、春はそこまで きているにちがいありません。花の春の訪れをお楽しみしているところです。ごきげんよう、さようなら。


2016.02.10

OBENET

代表 岡部 孝好