A Message from Webmaster to New Version(October 31, 2015)
2015年10月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
(京都東山 哲学の道)
◆大型株、中型株、小型株◆
ことしも台風の多い歳であったが、わけても「超大型台風」の襲来がめだって多かった。しかし、この「超大型」というのはどういう意味なのであろうか。強烈な風なのか、
豪雨なのか、それとも大波なのか。風も雨も波も特に厳しくないときでも、気象衛星からみた渦巻きが大きく、広い範囲をカバーしていてれば、「超大型」になるのか
「超大型台風が接近中ですので、ご注意を!」とテレビの気候予報士は警告を連発するが、いったい何に注意したらよいのか、意味不明である(下の写真は神戸大学六甲台
キャンパス。本館から兼松記念館に向かう出光記念講堂裏の坂道)。
同じことは株式のニュースについてもいえる。「本日は大型株は続落しているが、小型株が反騰している」とか、「きょうの大型株は軟調であるが、中型株は値を保っている」
といった短いコメントがテレビから流れてくる。上場会社に「大会社」、「中会社」、「小会社」の区別があり、「大会社」が「中小会社」より存在感が大きいことは、誰でも
知っていることである。しかし、「大会社」というのは、他の会社とどこが違うのであろうか。従業員が多いということなのか、敷地が広いということなのか、本社ビルが大き
いということなのか、それとも支店・営業所の数が多いということなのか? 財務基準の方でいえば、「大会社」というのは売上が多い会社なのか、利益が多い会社なのか、資
本金が多い会社なのか、あるいは純資産が多い会社なのか? 「大会社」、「中会社」、「小会社」という用語はよく使われているのに、これも内容はぼやけている。
証券業界においては「大型株」、「中型株」、「小型株」がよく使われているが、その意味はわれわれが日常的に使っているこの「大会社」、「中会社」、「小会社」とも食い
違っている。株式の時価というのは新聞に掲載されている「株価」と同じものであるが、その株価に発行済み株数を掛けると、「時価総額」が計算できる。この時価総額を大き
い順に並び替えて、まず上位100社を「大型株」に分類する。次に上位101社から500社までの会社を「中型株」に分類し、501社以下の全社をひっくるめて「小型株」と呼ぶ。実
際には売買取引量などの流動性基準を加味して調整するが、大、中、小の分類で決め手になるのは基本的には時価総額である。このため、従業員がとほうもなく多い会社でも、
売上高が世界第何位の会社でも、「大型株」になるとはかぎらない。株価が低ければ、時価総額は高くはならないからである。他方、新興の中小企業でも、株価がつり上がって
くれば、「大型株」に出世している可能性がある。
◆【訃報】神戸大学経営学研究科 村上英樹教授◆
神戸大学経営学研究科教授 村上英樹先生(交通論)は平成27年9月23日に、ご逝去になられたという悲しい知らせに接しました。享年50歳
でした。ご葬儀はすでにご家族にて執り行われたということです。ご生前のお人柄をお偲びしつつ、謹んでご冥福をお祈りします。
◆神戸高商から神戸商大への昇格時(昭和4年)における制度設計ミス◆
明治時代において「大学」というのは、明治19(1886)年公布の「帝国大学令」によって設立された大学を指しており、東京帝国大学(明治19年設立、明治30年までは「帝国大学」
が正式名)と京都帝国大学(明治30年設立)の外には大学はなかった。これらの明治時代の大学は複数の学部を統合する「総合大学」を前提にしており、単科大学など、専門分野
別の大学は眼中に入っていなかった。明治末になると、最高教育機関をもっと増やさなければ日本における指導者の養成が間に合わないという批判が強まり、文部省は大学の増設
を急ぎはじめた。しかし、依然として「大学は帝大タイプの総合大学」というのが前提になっていたから、理工系でも社会科学系でも、単科大学が創設されるようなことはなく、
帝大の数が少し増えただけにとどまった。大正7年までに開校していた大学は、東京帝大、京都帝大、東北帝大、九州帝大、帝大の5校だけである。
大正7年、「大学令」が発令され、文部省は単科大学と公私立大学を設立することを認め、これを受けて帝国大学とは異なるタイプの大学が日本にも生まれることになった。東京高
商と神戸高商ではかなり前から大学昇格運動を繰り拡げていたが、この政策転換に飛び付く形で、念願の「商業大学」に生まれ変わることになった。大正9(1920)年にまず東京高等
商業学校が東京商科大学への昇格を果たしたし、次いで昭和4(1929)年に、神戸高等商業学校が神戸商業大学に昇格した。いずれも単科大学であるが、学部は3年制、研究科は2年制
という学制であり、帝大と同等の大学としてめでたく生まれ変わったわけである。
神戸高商はこうして昭和4年に神戸商大に昇格したが、この「昇格」ということを正しく理解しているひとは少ない。昇格いうのは、校門の看板を架け替えただけのことだ、という誤
解が多いのである。神戸商大は神戸高商とは「格」が違っており、神戸高商より一段上に位置する教育機関であるから、看板の架け替えといった簡単な話ですますわけにはいかないの
である。現在に引き直すと、高等学校を大学に格上げすることに相当するのはたしかであるが、高等学校を廃校にしてしまうという点で、この改革はかなりややこしい内容になってい
る。
明治以来の高等教育のモデルは、帝大方式では、旧制中学(5年制)→旧制高校(3年制)→帝国大学(3年制)→大学研究科(2年制)となっていた。このモデルに沿うと、神戸高商
(4年制)は、帝国大学入学前の予備的ステップである旧制高校(3年制)にほぼ相応する。そこで昇格以前においては、神戸高商(および東京高商)ではその上に専攻部(2年制)を
継ぎ足し、神戸高商の卒業生は帝大卒と同等だと主張していたのである。旧制高校(3年制)と帝国大学(3年制)を通算すると6年になるが、神戸高商(4年制)と専攻部(2年制)を
通算すると、これも6年になるからである。
当時の標準モデルによりながら神戸高商を大学に昇格させるとなると、神戸高商を旧制高校と同格とみなして、まず神戸高商を廃校にし、次に帝大と同格の神戸商大を新規に開校するほか
はない。これが当時の関係者が達した結論であり、こうして神戸高商の廃校と神戸商業大学の新設とを並行的すすめることが決まった。キャンパスと学舎はそっくり引き継がれ、看板だけ
架け替えられたように外部には写ったが、内部では大忙しであった。特に教育・事務職員と在学生を手当する問題が大きかった。そこで、移行期間を設けて、暫定措置を通じて徐々に実施
する運びなったが、その概要は次のようである。
(1) 神戸高商には在校生がいるので、即座には廃校にしない。とりあえず神戸高商は神戸商大の「商学専門部」に名称変更して、存続させる。在校生の卒業を待って、3年先の昭和7年
に専門部そのものを廃止する。
(2) 専門部においては新規入学生の募集を停止する。専門部に移籍した高商の学生には従来からの高商の講義を実施する。
(3) 新設の商大は、有資格者を対象に新規に学生募集を行う。有資格者には昇格前の神戸高商(および他の一般高商)の卒業生を含める。
(4) 昇格前の高商の教育・事務職員は原則として商大に移籍させる。この移籍は、専門部と商大の学部の開講科目を勘案して、3年間を通じて順次実施する。
神戸商大では毎年新入生を受け入れるが、その入学資格については、帝大の入試制度と同様とすることが大学令に定められている。帝国大学に入学するには、5年制の旧制中学校の4年次以
上を修了し、さらに旧制高校の3年課程を修了していることが要件とされている。神戸商大の入試制度はこの帝国大学の標準パターンに準じているから、旧制中学(または旧制商業学校)の
3年次を修了し、そのうえに旧制高校に3学年以上在学していなければ、入学資格を満たさない。昇格前の神戸高商であれば、旧制中学校と旧制商業学校の卒業生なら、そのまま直ちに進学
できたのに、神戸商業大学となるとそのうえさらに旧制高校3年が追加的に要求されるのだから、受験生にとっては壁が格段に高くなった。
昇格時に神戸高商に在学中の学生は、3年(本科2年)次を修了すれば旧制高校卒と同等とみなされ、神戸商大の学部への入学資格が与えられる。また山口、長崎、小樽など、3年制の一般高
商卒業生にも、同じ理由によって神戸商大への入学資格が認められた。この点では、神戸高商の3年次修了生にも一般の高商の卒業生にも不利益はなく、たしかに神戸商大の門は開かれたとい
える。しかし、神戸商大専門部(旧神戸高商)は3年後の昭和7年に廃校することが決定済みであり、新入生の募集はすでに停止されている。昭和8年以降になると神戸商大専門部(旧神戸高
商)の出身者は神戸商大ではゼロになるから、内部進学のルートが途絶する。
東京商科大学ではこの問題を予見し、東京高商からの昇格と同時に「予科(3年制)」を開設し、予科から大学学部への内部進学の途を確保していた。予科は旧制高校と同格であるから、これが
設置されていると、予科3年、大学3年、計6年の一貫教育が可能になる。それなのに神戸商大では何を間違えたか、予科の開設を置き去りにしたまま大学の設置をすすめてしまった。このため
に神戸商大専門部(旧神戸高商)が廃止されると、内部から進学する学生は1人もいなくなった。予科を設置していれば、従来と同様に、旧制中学校と旧制商業学校の卒業生をひとまず予科で教
育し、次いで大学に内部進学させることが可能であったのに、そのルートが閉ざされたのである。この制度設計のミスにだれが、いつごろ気づいたのかは不明であるが、神戸商大専門部(旧神戸
高商)が廃止され、内部進学者がゼロになったときには、だれの目にも結果は明らかになった。そこで、神戸商大では大慌てで、予科の開設に動きはじめた。
神戸商業大学では昭和15(1940)年になって、予科(3年制)の開設に漕ぎつけた(神戸商業大学から改名した神戸経済大学では昭和25(1950)年3月に予科を廃止)。しかし、昭和18(1943)年から
昭和25(1950)年までの7年間、神戸商業大学への内部進学者はゼロで、空白の時代がつづいた。その間に神戸商業大学に入学してきたのは、旧制高校と一般高商の卒業生たちであった。第二次
世界大戦の開戦直前から終戦直後にいたる古い話である。
◆明治時代の神戸三ノ宮駅(再)◆
明治初年に神戸から東京に向かう場合に、陸路の東海道を辿るとすれば、まず大阪の八軒浜(いまの天満橋)に出て、船便で淀川を遡上し、京都下京の「伏見港」にたどり着く。江戸時代
にはこの伏見港は重要な交通の中継地になっており、旅人のために旅籠、馬匹、駕籠が揃えられていた。そこから東海道53次を2週間ほどもトボトボと歩くわけだから、東京行き
も大変な難苦行であった。日程に余裕があっても、足腰に自信がもてない人は、旅そのものを諦めざるをえなかったろう。
明治初年には神戸港―横浜港には定期船の運航があったらしく、この船便によると3−4日で東京に行くことが可能であった。しかし、運賃は高価で、とても庶民が払える金額では
なかった。明治中期の官吏の月給が2円のとき、横浜までの船賃が8円だったというから、初任給20万円のいまの公務員に換算するとすれば、横浜までの片道の船賃は80万円であっ
た勘定になる。この運賃は、いまでは豪華客船に乗って北アメリカへを漫遊旅行する値段に相当するから、庶民が手が出なかったのは当然である。
東京では明治5年に、新橋―横浜(桜木町)間に日本最初の鉄道が敷設され、「陸蒸気」(おかじょうき)が走り出した。関西では2年遅れて、明治7年に神戸ー大阪間に鉄道が
開通して、陸蒸気の定時運行がはじまった。東京と神戸の間には、関ケ原、箱根などの「天下の険」が多いから、東と西の両側から両方をつなぐ工事がすすんだが、この延伸工事
は困難をきわめた。難工事の末にこれら東と西の短い2本の鉄道が接合され、東海道線となるのは、明治22年のことである。初期でも1日に1本の直通列車が、往復で運行されて
いたが、片道は20時間だったというから、徒歩や船旅に比べると、とんでもなく旅程が短縮されていたことになる。明治29年には急行列車が生まれ、神戸と東京の間はさらに15時
間程度に短縮された。
当時の神戸駅があったのは現在の元町付近であり、当時の正式な名称は「神戸三ノ宮」であったらしい(写真はジュンク堂で売っていた当時の観光絵葉書を複写したもの)。この
神戸三ノ宮駅の南側には京街の外人居留地が拡がっており、さらにその南にはメリケン波止場などの突堤が並んでいた。神戸三ノ宮駅の北側は昔の城跡であり、神戸港が一望でき
る花隈の台地として知られている。この駅北側の高台の、さらに北側にはいまでは下山手通り、中山手通りという大通りが東西に貫き、県庁、警察本部などの官庁街が拡がている
が、この高台は明治時代でも神戸の一等地であったものと思われる。こうした神戸市街地のド真ん中であったのが、当時の神戸三ノ宮駅なのである。
◆トヨタ自動車と豊田利三郎(再)◆
トヨタグループの源流をなすのは豊田自動織機製作所(現在では「豊田自動織機」が正式社名)。この会社の初代の社長が豊田(旧姓児玉)利三郎
(1884年-1952年)である。豊田利三郎は滋賀県彦根市の「児玉」家に生まれ、創立間もない神戸高商に2期生として入学した。神戸高商を1908年
に卒業すると、現在の大学院修士課程に相当する東京高商専攻部に進学して、さらに2年間学問を積んだ。東京高商専攻部の卒業後には伊藤忠商店
に就職し、早速、新設のマニラ支店に派遣され、その初代支店長に就任した。バリバリの商社マンとして、そのスタートを切ったわけである。
豊田利三郎には児玉一造というお兄さんがいたが、この児玉一造もバリバリの商社マンであり、三井物産の綿花事業部長を務めた後、東洋棉花(後のトーメン、
現在の豊田通商)を興し、その社長として商才を発揮した。この児玉一造が事業展開していた綿花のビジネスが豊田佐吉の自動織機製造の事業と接するところが
多かったらしく、2人の間には長らく親密な交友関係がつづいていた。この実兄の関係により、豊田佐吉の長女愛子と児玉利三郎の間に縁談が持ち上がり、1915
年に利三郎が婿養子として豊田家に入り、佐吉の自動織機事業をバックアップすることになった。1926年には豊田自動織機製作所が新たに設立される運びになった
が、その初代社長に就任したのも豊田利三郎であったし、また11年後の1937年にトヨタ自動車工業株式会社が設立されたとき、その初代社長に選ばれたのも
豊田利三郎であった。こんにちのトヨタ・グループの基礎を築いた1人が、豊田利三郎なのである。なお、豊田佐吉には長男がいたが、その豊田喜一郎が利
三郎の後を受けて、トヨタの自動車工業を飛躍的に発展させていった。
2015年6月、愛知県豊田市を訪れる機会があったので、「トヨタ鞍ヶ池記念館」を見学することになった。池端の広い芝生の上に散在するいく棟かの建物の
中には、豊田佐吉、豊田利三郎、豊田喜一郎の往年の業績を称えるパネルが展示されていたし、古い木製の織機なども陳列されていた(写真)。いまでこそトヨタは
ビジネス界のトップリーダーとして世界に光り輝いているが、その歴史は血の滲む苦労の連続であったらしい。この記念館のパネルで語られていることも、成功
物語というよりも苦労話が大部分を占めており、こころが洗われる逸話にいくつか出合うことができた。なお、自動車に関する博物館は別にあり、この記念館
には自動車関連の展示物はおかれていない。
◆戦後の資産再評価法と渡辺進先生(再)◆
第二次世界大戦後、例によって大インフレが激進して、取得原価基準の会計制度はもはや耐えられなくなってしまった。販売目的の棚卸資産は頻繁に入れ
替えられるから、この入れ替えにともなって新しいその時々の時価を反映する価額に自動的に変更されるが、設備などの固定資産は古い戦前の価額に据え
置かれたままになっている。このため、減価償却費などがまったく無意味な数字になっていた。この状況を受けて「物価変動会計」の議論が巻き起こされ、
「資産再評価法」の立法という臨時措置によって苦境を切り抜けるということになった。日本では、この「資産再評価法」が三次にわたって施行された。
日本における資産再評価法の特徴は、次のような点にあった。
(1)資産の再評価によって資産を再評価するかどうかは強制的なものとせず、会社の選択に任せる。
(2)資産再評価の対象資産は固定資産とするが、どの固定資産を対象資産に含めるかは会社の判断に任せる。
(3)資産を再評価すれば、原価と時価(取替原価)との間に差額が発生するが、この差額――再評価積立金――は資本剰余金とし、純資産の一部とする。
(4)再評価積立金は配当の財源には充当できないものとするが、過年度から累積している欠損金の填補に当てることができる。
後年になってこの資産再評価法に触れた学術論文を読んだ覚えがあるが、そのほとんどは「どの時価が正しいか」、「減価償却費の計算はどうなったの
か」など、資産の評価額とか、費用の計上額の正当性にかんする議論が大勢を占めていたように思う。取得原価と時価の差額は資本剰余金として隔離され、
利益計算の枠外に放出されていたから、大筋において会計学上の問題は少ないとみなされ、学会ではほぼ肯定的に受け止められていたのである。
最近になって太田哲三先生の回顧録(*)を拝読していたところ、こうした資産再評価法に対するわたしの解釈が見当違いであったことが
わかってきた。資産再評価法は実質的には「会社再組織法」ともいうべきもので、疲弊した会社の「新出発」(fresh start)を促す会計手法
であったのである。なぜそういう解釈になるかというと、次のような理由があげられる。
*太田哲三著、『会計学の四十年』(中央経済社、昭和31年)。
(1)好業績の会社とか繰越損失(欠損金)がほとんどない会社においては、資産再評価の実施を差し控え、固定資産を引き続いて取得原価で評価する
傾向が一般的であった。これは、旧来の低い固定資産価額を継続すると減価償却費が少なくてすむので、純利益が膨らみ、配当を続けるのが容易だった
ことによるとみられている。
(2)巨大な繰越損失(欠損金)を抱える会社は資産再評価をすぐさま実施して、固定資産価額を膨らませる一方において、多額の再評価積立金を計上した。
そしてこの多額の再評価積立金を利用して、過年度からの繰越損失(欠損金)を一掃してしまった。この結果として、多額の繰越損失(欠損金)を抱えていた会社
でも配当することが可能になり、復配するケースが目立って増えた。
(3)資産再評価を実施した会社側の理由は、固定資産価額を適正にするとか、減価償却費の計算を適正にするということではなかった。会社が固定資産を
再評価したのは戦時に積み上がった繰越損失(欠損金)の圧迫を逃れるためであり、繰越損失(欠損金)の消去によって、会社の新出発を図るのが主たる目
的をなしていた。
終戦直後というのは、大砲や戦闘機を作っていた会社も作るものがなくなって、ナベ・カマを作って従業員を養っていた時代である。増資などとても出来
る環境ではなかったし、借金しようにも銀行がお金をもっていなかった。それなのに会社は資金に窮していて、出資や貸付けによる資金調達の途を模索していた。しかし会社
の繰越損失(欠損金)が障害になって、資金調達の途が閉ざされていた。債務超過の会社とか債務超過に瀕している会社に出資するとか、貸出しをするなど
ということは、当時でもとんでもないことであったのである。そこに資産再評価法という一陣の風が吹き抜けて、繰越損失(欠損金)という重しがどこかに吹き飛ばされ
たのである。債務超過に喘いでいた会社は立ち直り、戦後の復興に光が射しはじめた。
昭和23(1948)年ごろ、この資産再評価法の立法を政府に建言したのは紡績連合会であったが、その原案を立案して建議書を書いたのは東洋紡経済研究所
次長の渡辺進氏であった。渡辺進氏は1950年に神戸大学経済経営研究所教授に迎えられ、1967年に定年退官するまで、神戸大学の会計学スタッフとして活
躍された。名著の名が高い渡辺進著『棚卸資産会計』(1958年)は、氏の代表作の1つである。
わたしは昭和42(1967)年に神戸大学経営学部を卒業し、昭和44(1969)年に経営学研究科修士課程を終えているから、わたしの在学期間は渡辺進先生の在任期
間と重なっている。しかし、研究所に渡辺先生という偉い大先生がおられるという話は何度か耳にしたが、残念なことにお会いする幸運には恵
まれなかった。資産再評価法に渡辺進先生が関与されていたという話はまったく耳にしていなかったうえに、渡辺先生は棚卸資産の専門家で、固定資産には
無関係と思い込んでしまっていた。惜しい機会を逃したものである。
◆次回の更新◆
次回の更新は、来春01月ごろを予定しています。暮れからお正月に向かう慌ただしい時期を迎えますが、
旅行、パーティ、ウインター・スポーツなど、お楽しみごとも多い季節でもあります。ご健康にはくれぐれも
ご留意いただいたうえで、今年の冬を存分にお楽しみください。ごきげんよう、さようなら。
2015.10.31
OBENET
代表 岡部 孝好

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