A Message from Webmaster to New Version(January 10, 2015)
2015年1月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆熊野古道の春◆
世界遺産に登録されている熊野古道は高野山から紀伊半島を縦断し、熊野本宮大社を経由して、南紀の熊野那智大社と熊野速玉大社に至る。この全ルートを歩くのは、夢のまた夢で、年寄りにはとてもできることではない。熊野那智大社(と熊野速玉大社)だけに詣でるのであれば、紀伊半島の南の突端から回り込むのが手っ取り早いのではと思い立ち、正月に、新大阪から紀勢線の特急列車に乗り込むことになった。3時間半ほども振り子列車に揺られてから「紀伊勝浦」で特急を降り、熊野那智大社行きのバスを掴まえる。昨年の大洪水の爪痕が痛々しい溪谷沿いの山道を40分ほど走ってから、神社の崖下の窮屈なバス停で降りる。ここはもう山の中腹で、とても寒い。問題はこのバス停から空の上まで伸びている急峻な石段である。
借りた竹杖を頼りに、息を切らして登りに登ると、ようやく神社の拝殿が姿を現す。南紀の雪はずいぶんめずらしいことだと聞いたが、山上のこの拝殿の回りには吹雪が舞っていて、大屋根にも樹枝にもうっすらと雪が乗っていた。
熊野那智大社から那智の大滝へ向かう下り道は、うっそうとした杉木立の間をくねくねと曲がる石畳みの古道で、かなり激しい凹凸の石の頭を飛び渡らなければならない。しかし、杉の巨木も、踏み慣らした古道もなかなかのもので、味わいがある。さすがは世界遺産である。
那智の大滝からバスで山を下ると、紀伊勝浦では、正月なのに魚屋の軒下に「営業中」の札が下がっていて、往来に炭焼きの匂いが勢いよく吹き出している。さっそくのれんを潜って熱燗を注文する運びになったが、クジラも、マグロも、イセエビも刺身の味は抜群で、寒さが吹っ飛んでしまった。洗面器を半分に割ったようなマグロのカマ焼きとか髭が外に飛び出たイセエビの味噌汁も忘れられない味になった。雪の舞う南紀の果てにまで初詣にきたのだから、ことしは何かよいことが降って湧いてほしいものである。
◆株主への利益還元策◆
会社のオーナーは株主なのだから、会社が利益を稼いだときには、その利益を株主のポケットに戻さなければならない。株主に対するこの利益分配の方策が「株主還元策」であるが、この株主還元策には広く捉えると3つある。第1は株主へ現金配当を支払うことであり、第2は自己株式を償還することであり、第3は利益を内部留保することである。
第3の内部留保というのは、利益の社外流出を抑え、株主には何の分け前も渡さないことであるから、これは「利益還元策」には当らないとみるのが一般である。しかし、内部留保された利益は会社の金庫の中で眠っているわけではなく、ふつうは新規投資の財源として利用される。内部留保された資金が新規投資に充当され、さらにその投資が成功すれば、次のサイクルでは内部留保の投資が利益を稼ぎ出し、「利益が利益を生む」という好循環が生まれる。この好循環の創出は現在の株主たちに歓迎されるだけでなく、その会社の株式を買いたいと思う将来株主の株式購入意欲を掻き立てるから、その会社の株価を押し上げることになる。利益の内部留保が株価を押し上げるとすれば、現在の株主は何の分け前にも与(あず)っていないが、株価上昇の差益、つまりキャピタルゲインを手にすることができる。このキャピタルゲインは会社の内部留保によって生み出されたものなのだから、内部留保が株主への利益還元策になるという見方は間違いではない。
しかし、こうした利益の内部留保は株主への還元策とはみられないのが一般である。会社から株主に向かっての金銭の流れが存在しないから、「利益還元」ということが視覚的にとらえられないのが、おそらくはその主要な理由である。しかし、ネガティブな見解はそれだけではない。最もよく出てくる批判は、内部留保された利益は実際には利益を生まないケースが多いという見解である。利益を内部留保してみたものの、良い投資機会がみつからず、結果的には会社の金庫の中で眠らせてしまうケースとか、実際にどこかに投資しているのに、その投資先の選択にミスがあり、大きな損失を被ってしまったケースなどがその例である。
内部留保が株主への利益還元策の含まれないとすると、残るのは現金配当と自己株式償還の2つということになる。現金配当では現在の株主に対して、持株数を基準にして均等に現金がばらまかれるから、それが「株主への利益還元策」であることはだれの目にも明らかである。これに対して、自己株式償還は少しばかり持って回った利益還元策になってくる。ややくどくなるが、概要を説明しよう。
現在の株主は会社の株式を保有しているから、その株式の一部を時価で会社が買い上げると、株式を売った株主には現金が渡され、株式を買い取った会社が代わりの株主になる。買い手の会社は自分の会社の株式を保有する株主になるから、「自己株式」の取得というわけである。その自己株式をその発行会社が買い戻すという意味で、「償還」という用語が使われている。
さて、自己株式を償還すると、会社の現金が株主に引き渡されるので、それが「株主への利益還元策」になるという点は、現金の流れの方向からして、疑問が生じる余地はないであろう。しかし、ここで問題となるのは、その現金が「どの株主に渡されたのか」という点である。現金配当の場合には、全部の株主に均等に現金がばらまかれる。これに対して、自己株式償還の場合には、現金が渡されるのは、株式を売却したごく一部の株主にかぎられる。株主の大多数は株式を手放さず、株主の地位を保持しつづけているが、そうした「株式を売らない株主」には現金は渡されていない。したがって、自己株式償還という利益還元策は、すべての現在株主に対して均等に現金を渡す方式ではなく、株主のごく一部に限定して、現金を支払う方式だということができる。自己株式償還では、この点で大きな偏りがあり、この偏りが株主間に不公平を生み出す可能性がある。
会社が自己株式を償還すると、償還後には株式数が減少し、この減少に見合うだけ、残存する株式の値打ちが高くなる。この株式の値打ちの上昇分は自己株式償還において償還に応じなかった株主に帰属するから、紙のうえの計算では、自己株式償還のメリットは株式を売らなかった株主にも波及することになる。いい換えると、自己株式償還に応じた株主には売却代金の引き渡しという形で株主への利益還元が行われるが、自己株式償還に応じなかった株主には、保有株式の価値の増加という形で株主への利益還元が行われることになる。理論的には株主にとってこれら2つの利益還元は同一の意味をもつから、公平性が損なわれることはないといえる。
しかし、実際に公平性が厳密に達成されているかと問えば、その答えは必ずしも「イエス」ではない。自己株式償還が実施された後の株価は、理論的な推定値とは異なっていて、自己株式償還に応じた株主と応じなかった株主との間で差が生じるのがむしろふつうである。これは自己株式償還は株主への利益還元策といわれるが、株主の見地からすると、現金配当とは内容が同じでないことを意味する。
会社の見地に立った場合でも、自己株式償還は現金配当と同じでないという点もしばしば指摘されるところである。現金配当を行うと、会社から社外の株主へ渡された現金が会社に戻ってくることはないから、現金の流れは一方通行となる。自己株式を償還すると、同様にして会社の現金は社外に流出するが、会社の金庫に自己株式が保有されているから、この自己株式を将来に再利用するという戦略が残される。たとえば、将来に自己株式を市場に売り出せば、売却価格(発行価格)に相応するだけの現金が会社に流入する。この自己株式の再利用というメリットは、現金配当にはまったくないことである。
現金配当も自己株式償還も、株主にとっては喜ばしいことである。このためこれらのいずれを会社が発表しても、株価はポジティブな反応を示す。現金配当と自己株式償還とは同じではなく、株主側からみても会社側からみても、微妙ながら差異がある。この結果として、現金配当と自己株式償還のいずれを会社が選択したかによって、株価のリアクションが違ってくることになるのである。しかし、実証会計学においても、この違いはまだ証拠づけられていない。
◆岸和田の岡部長景と西条の伊藤述史◆
岸和田といえば「だんじり祭り」の街で、秋口には狭い町筋をだんじりが激しく駆け回ることで知られている。街の中央には三層の立派な城郭が聳えているが、このお城が第二次大戦後に再建された岸和田城である。お城を取り巻く石垣とお濠は昔の姿そのままに残されており、お濠の外には武家屋敷の家並がいまもつづいている。
岸和田藩は、江戸時代の終わりまで13代にわたり岡部家5万石によって治められていた(念のため申し添えると、岸和田5万石の岡部家と岡部孝好の岡部家は無関係である)。世が明治に変わって岸和田も廃藩になったが、その14代城主に予定されていたのが岡部長景(おかべ ながかげ:1884年-1970年)である。幼少のときより英才の声が高く、長じて東京帝国大学にすすんで、卒業後には外務省に入省した。明治・大正を通じ外交官として各国大使を歴任したあと政治家に転じ、第二次大戦前には文部大臣まで登りつめた。
この岡部長景と同年に外務省に入省し、外交官としてよく似たキャリアを積み上げたのが伊藤述史(いとうのぶふみ:1885年-1960年)である。伊藤述史は愛媛県新居浜の生まれで、旧制西条中学で学んだ秀才である。その後の学歴はやや変わっていて、伊藤述史は当時の出世コースである旧制高等学校から帝大というルートをたどらなかった。
1903(明治36)年に文部省直轄の官制學校として4年制の高等商業學校が神戸に開設されたが、伊藤述史が入学したのはその神戸高商の方であった。神戸高商は予科1年、本科3年の四年制であり、予科は旧制中学出身者を受け入れる第1部と、旧制商業学校出身者を受け入れる第2部に分かれていた。第1期生の予科の入学者は第1部130名と第2部42名、合計172名であったが、西条中学出身の伊藤述史が組み入れられたのはもちろん予科第1部である。
第2部の学生には数学(週4時間、単位は以下同じ)、物理(3)、化学(3)、博物(2)、あわあせて12時間が必須とされており、一般教養科目が重点的な履修科目とされていた。これに対して、第1部の学生の重点科目は商業科目であり、簿記(4)、商業算術(5)、商業通論(2)、経済学(3)、あわせて14時間の履修が要求された。予科の第1部の学生に商業科目を、第2部の学生には一般教育科目をと、別々の教育メニューを提供するというのが神戸高商の戦略であり、この点において先行の東京高商と差別化を図っていたが、神戸高商においてもう1つの売り物にしていたのが語学教育である。予科では英語が特に重視されており、第1部・第2部ともに週総授業時間32時間のうち10時間が英語教育に充てられていた(下の写真は岸和田城に隣接する「五風荘」。現在はがんこ寿司が料亭として運営している。)。
当時の神戸高商の学舎は神戸市葺合区筒井(現在の王子公園の西で、葺合高校の校舎あたり)におかれていたが、開校当初の教育環境はまだ十分に整えられていなかったと推定される。校長は水島鐵也で、教育職員としては他に教授7、助教授4の合計12名がいたにすぎなかった。しかし、この定員の枠外にお雇いの外国人教員が2−3名いて、英語教育はこの外人教員があたっていた。伊藤述史が西条中学においてどれほど英語に親しんでいたかは不明であるが、神戸高商におけるこの徹底した英語教育が伊藤述史の語学の才能を開花させたことは、まちがいないことである。本科に進級すると英語のほかに第二外国語(清、仏、露、独、西より1つ選択)の履修が要求されたが、語学の天才、伊藤述史にとってはこれも才能を刺激する絶好の機会になった。
当時の東京高商と神戸高商は経済・商学系の最高学府であり、帝国大学系の高等教育との接点はなかった。当時の帝国大学は法律・政治の専門大学であり、経済・商学系の科目をまったく開講していなかった。このため東京高商と神戸高商では経済・商学系の研究者養成を自ら行う必要があったが、この役割を担当したのが東京高商に附置された「専攻部」である。東京高商には1897(明治30)年より2年制の「専攻部」が設置され、これが今日の大学院修士課程の役割を果たしていた。問題はこの専攻部に進学できる資格が狭く限定されていたことで、最初は東京高商の卒業生以外は入学を許されなかった。1902(明治35)年に日本第2の官立高商とし
て神戸高商の開設が決定されたときこの枠が拡大され、東京高商の卒業生だけでなく、神戸高商の卒業生も東京高商専攻部に受け入れるということになった。1907(明治40)年に神戸高商を卒業した第1期生の伊藤述史はさっそくこの制度を活用して東京高商専攻部に進学し、さらに語学の才を磨くことになった。そして、専攻部卒業時には、わけなく高文(外交官試験)に合格して、外務省に入省したが、その入省時の同期生が岡部長景なのであった。(下の写真は和紙の原料となる「ミツマタ」の花。)
伊藤述史は外務省入省後リヨン大学に留学し、フランス人の夫人と結婚。その後イタリア、フランス、スイス、支那、オランダ、ドイツ等において外交官として活躍した後、1927年には国際連盟帝国事務局次長に就任した。1933年に国際連盟総会において松岡洋介主席全権大使が連盟脱退の大演説をぶち上げたことはあまりにも有名な話であるが、その松岡洋介をバックアップしたのが伊藤述史である。伊藤述史はその後、在ポーランド特命全権公使、支那特命全権公使、内閣情報部長、情報局総裁と、戦時内閣において光輝く要職を務め上げた。神戸高商の第1期生としての伊藤述史は国際舞台において大活躍し、日本中の衆目を集めた。
戦前において貴族院議員(現在の参議院議員)の大多数を占めるのは皇族、華族であったが、岡部長景は男爵であったから、文部大臣を務めた後、当然のキャリアとしてこの貴族院議員に選ばれた。これに対して、平民の出身であった伊藤述史にとっては貴族院議員というのは雲の上の椅子であったのに、1945年には狭い狭い門を潜り抜けてついにその貴族院議員の椅子を射止めた。しかし、その直後に日本はポッダム宣言を受諾し、終戦によってすべてが終わった。岡部長景も伊藤述史もともにGHQに戦争責任を追及され、1946年には公職を追放された。
◆隠密の商い(再)◆
戦国時代の武将は敵地に隠密を放ち、敵状を探らせたが、刀を腰にした武士姿の隠密も黒装束で固めた忍者姿の隠密も、敵地で警戒されて、
お役目を果たせなかったと思われる。どの敵地でも他国人の潜入に目を光らしていたから、その警戒網を潜りながら各地を移動し、
秘密情報を収集する仕事は、困難をきわめたにちがいない。
時代小説に登場する最も一般的な隠密の「職業」は、旅商人である。旅商人を装って、小商いを続けながら諸国を遍歴すれば、怪しまれずすむ
。敵地の役人に捉えられ、尋問された場合でも、ちゃんとした商人であることを立証できれば、言い逃れできる可能性が大きい。し
かし、旅商人に化けるとしても、いったい何を売り歩けばよいのであろうか。ひとまず採算は度外視するとしても、怪しげな商品では
身元を隠しおおせないし、旅廻りなのに日持ちのしない商品とか高級すぎる商品では商いそのものが成り立たない。ワラジ履きの
旅商人がひとりで担げる量にも限界があって、重すぎる商品や嵩張りすぎる商品も、話にならないであろう。
真田幸村の配下は、あの真田紐を売り歩いたというが、真田紐は当時でもブランドもので、メーカーが容易に推定できたから、隠密が売り歩く
商品として適切であったどうかは、かなり疑わしい。大和郡山の筒井順慶の配下は特産のカヤ売りを特技にしていたというが、カヤは夏場だけ
の季節商品であるうえに嵩張るから、たとえば関東の甲州とか上州まで足を延ばすのはむつかしいことであったろう。隠密の商いには一番適し
ているのは、誰もがほしがる一般的な必需品で、安価で、持ち運びが簡単な小物がよい。
こう考えていくと、富山の薬売りが隠密に向いた仕事であったという考えが浮かぶ。なかでも貝殻などの小ぶりの容器に詰めた「秘薬」は、
隠密が売り歩く商品に一番適していたのではないであろうか。薬草をすり潰した整腸薬とかマムシのエキスを溶かした切り傷用軟膏などは、持ち
運びが楽であっただけでなく、それなりの効能が期待できたから、農漁村などでも広く受け容れられ、隠密の商売なのか本業なのか見分け
がつかないほどであったにちがいない。
隠密の旅商人が扱った商品の中で最高傑作の1つは、おそらくは明智光秀の配下が売り歩いた針と糸である。針と糸は生活必需品であるのに、
各家庭で簡単に自作できるようなものではない。このため、どこに廻っても消費者に歓迎され、商品がよく捌けたと思われる。針と糸は運搬が簡単
であるし、販売単価は高くはなりえないから、代金の回収でトラブルが引き起こされるようなこともなかったであろう。
針と糸の商売を考えついたのは、明智光秀自身ではなく、その参謀であったとすれば、明智光秀はよい家来に恵まれていたことになる。しかし、
これは隠密の旅商人が扱った商品の選択のことであり、その旅商人が入手した機密情報に関することではない。明智光秀が針と糸の旅商人か
らどれほどよい機密情報を手にしていたのかは、いまなお未知のことである。
◆スチュワードシップ・コード(再)◆
スチュワードシップ・コード(stwardship code)というのは、機関投資者がしたがうべき行動規範を列記したものをいう。イギリスでは2010年に明文化されて
いたが、最近では日本においても関心が高まり、2014年になって金融庁においてガイドラインが定められれた。機関投資者は個人投資者の資金の運用
を任された受託者であるから、受託者として個人投資者の最善の利害(the best interest)に沿って投資行動を選択する義務を負っている。この義務が
スチュワードシップ(stwardship)の原義であり、明文化されるかどうかかわらず、機関投資者としては当然に遵守しなければならない行動規範である。し
かし、この当たり前の義務をあえて明文化して、その遵守を機関投資者に押し付けなければならない点に、現代のビジネス社会の苦渋がある。機関投
資者は資金委託者の個人投資者の利害よりも、オノレの利害を優先する傾向がなくならないのである。悪くすると、個人投資者を食い物にする、アクド
イ機関投資者も次々に現れてくる。
「委託者にとって最善のことだ」と機関投資者が本気で信じている場合であっても、その投資先がスカタンで、結果的には個人投資者に損害を与える
ことが少なくないが、こういった場合にはスチュワードシップはいったいどうなるのであろうか。このケースはやや微妙ながら、きわめて重要である。まず第1に、
機関投資者は「委託者にとって最善のことだ」と本当に思っていたのに、機関投資者が投資に失敗して、委託者の個人投資者に損をさせるケースが実際には
きわめて多い。第2に、機関投資者はいいかげんな投資行動を選択して、個人投資者に損害を与えているのに、「委託者にとって最善のこと」をやったと釈
明するケースも、これまた実際にきわめて多い。だから、「機関投資者は委託者にとって最善のことをやるべし」と定めたところであまり意味はなく、「学生は勉
強すべし」というのと同じ絵空ごとにしかならないおそれがある。
委託者の利害にあからさま反する機関投資者の行動がスチュワードシップに違背することは、もちろんのことである。しかし、実際において「委託者の利害に
反する行動であった」ことを立証するのは容易なことではないから、機関投資者の違反行為を締め出すのはたいへんな難事業である。これよりもさらにむつ
かしくなるのが、機関投資者が「委託者にとって最善のこと」をやろうしたのに、結果においてそれが実現されていないケースである。スチュワードシップ責任
がはたされていないのは結果から明らかようであるが、判断がむつかしい。本当にやろうとしていたのか?、手を抜いたのではないか?、やり方が甘かったの
ではないか?、言い訳をしているだけではないか?、こうした疑念が限りなく
湧いてくる。スチュワードシップの責めを完全に果たすとすれば、こうした疑念をすべて晴らすことが必要とされるが、それは神様のみができることで、人間
には無理なことであろう。実際には、どうコードを定めるべきであろうか。
スチュワードシップの責めを果たす1つの実際的な途は、「わたしは一所懸命に委託者のために頑張りましたが、結果はこれこれとなしました」と、委託
者に向けて機関投資者が「言い訳をする」ことだといわれている。機関投資者の投資行動が思惑通りのよい結果を生むようなことは滅多にないことなのだから、
結果がうまく行かないという想定で、機関投資者が「あれもやりました、これもやりましたが、結果がこの通りで、すいません」というふうに「申し開き」を
するというのである。これを「報告責任」、「説明責任」、あるいは「会計責任」と呼んでいるが、問題はこの「申し開き」を委託者の個人投資者が納得してくれる
かどうかである。
金融庁のスチュワードシップ・コードは、こういう主旨から、スチュワードシップ責任を果たす基本方針、投資先企業のモリタリングの方針、議決権
行使と株主総会への対応などについて、機関投資者がそれぞれの基本指針を公表することを求めている。その「申し開き」が適切かどうかは、読
者の判断にお任せするほかはない。
◎金融庁 日本版スチュワードシップ・コに関する有識者検討会 「責任ある機関投資家」の諸原則
≪日本版スチュワード シップ・コ日本版スチュワード シップ・コード≫〜 投資と対話を通じて企業の持続的成長促すために〜
◆寿司ロボット(再)◆
回転寿司の主役といえば、ぐるぐる廻ってくるあのベルトコンベヤーと思うかもしれないが、ふつうのレスト
ランにたとえれば、ベルトコンベヤーは皿運びの給仕でしかない。レストランで一番大事な役は料理を作
るシェフであろうが、回転寿司におけるシェフはマシンの寿司ロボットである。寿司ロボットはシャリ玉、
巻き寿司、いなり寿司・・・・・に専門化していて、大きなお櫃にご飯を積んでおくと、1分間に何百個もどん
どん握って、あのベルトコンベヤーの上に載せていくという。
ふつうの寿司屋では職人がシャリを握るが、その際決定的に重要なのは酢飯の握り加減だだそうで、シンマイの小僧
に酢飯を扱わせると、握りが堅すぎたり柔らかすぎたりで、いかにいい具(タネ、ネタ)を上に載せても、いか
にいいワサビを練り込んでも、上等の寿司にはならないらしい。ところが修業を積み上げている寿司ロボット
には心得があり、堅すぎもしないし柔らかすぎもしない均一なシャリ玉をほんわりと握る。だから、客の口に入
るのは一流の職人が握った第一級の寿司と変わるところがない。実際には、回転寿司の具はぺらぺらとした
紙のようなものが多いから、「やはり職人が握ったものでないと・・・・・」といった愚痴がこぼれてくるが。
回転寿司が大流行りで、不二精機、鈴茂器工など、日本の寿司ロボットメーカーはかなり潤っている
模様であるが、こうした日本独特の食品加工機に注目しはじめているのが、海外のレストランである。最近
は日本食ブームで、海外では和食のレストランを展開する動きが拡がっている。その和食メニューの目玉はも
ちろんsushiであるが、日本製の寿司ロボットを買ってくればよいのだから、コトは簡単である。日本に派遣して店
舗の運営の仕方を2−3人に仕込んでもらわなければならないとしても、寿司職人を日本から呼び寄せる
必要はないのだから、経費も安いし、開業準備も短期で足りる。寿司屋のハッピ、ハチマキ、テヌグイなどの小道具もインターネ
ットで売っているし、醤油、ガリ、刺身のツマなどもどこかの専門業者が卸しているという。
30年ほど前に海外で暮らしたことのある人びとは、海外で味わう寿司の1切れがどれほど舌に浸みるものか
は忘れられずにいるにちがいない。懐かしさに涙ぐみながら喉に押し込んだにぎり寿司のひと口は、忘れようににも忘れられ
ない遠い日本の味があった。そのにぎり寿司が、いまでは海外のどこでも安くいただける時代になりつつあるのは、寿司
ロボットのおかげであるから、文明の進化に喜ぶべきであろう。
◆次回の更新◆
明けましておめでとうございます。真っ白な雪におおわれ、清らかな新春となりましたが、皆さまご健勝にて、平穏なお正月を
お迎えのことと存じます。本年もよろしくお願いいたします。
ここ数年、会計学会は国際会計基準IFRSsの嵐に掻き回されてきましたが、ようやくその嵐が凪いできましたので、いよいよ「理論」の出
番になると期待しているところです。ことしは会計学の研究でも新しいアイデアが出てきて、いっそう賑やかな議論になるものと
楽しみにしているところです。次回の更新は03月を予定しています。ごきげんよう、さようなら。
2015.01.10
OBENET
代表 岡部 孝好

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