A Message from Webmaster to New Version(June 20, 2014)


   2014年6月版へのメッセージ


     OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆ササユリ◆

  梅雨の半ばは、関西地方では田植えの真っ最中である。この雨しきりのころには小川では蛍が飛びはじめるし、山ではササユリが清楚な花を咲かせ、 甘い香りを周囲に漂わせているにちがいない。こういう思いから、大昔の記憶を頼りながら箕面のゴルフコースの山裾を散策してみるが、ササユリのサ も見当たらない。地形や植生は昔とあまり変わっていないと思うのだが、ササユリなどもう影も形もなくなっている。

  話に聞くと、ササユリが消えたのは、ハイカーのせいばかりではないらしい。ユリ根は人間が茶碗蒸しに入れておいしくいただいているが、イノシシもまた 大好きで、得意の鼻ワザで根を掘り返してしまうという。最近ではイノシシが急増しているから、ササユリは根絶やしにされつつあるのかもしれない。ササ ユリはもう人工的に保護されなと生き残れないということらしい。どこかにササユリは咲いていなものか(上と下のササユリの写真は三輪の 大神神社の境内にて、2014.06.16撮影)

  奈良の「三輪」という所はあのそうめんの里である。JRの大和路快速を「王寺」で降り、支線に乗り換えると30分ほどで、その「三輪」というド田舎の無人駅に 着く。駅前に古い街並みが拡がっているが、大きな邸の間に狭い道があるので、それを辿って10分ほど歩くと「大神(おおみわ)神社」に達する。ご神体は背 後の三輪山そのもであり、立派な社殿はその拝殿なのだそうだ。付近一帯は神代の時代に神話の主たちが国作りに励みに励んだところらしく、やたらと神社 が多い。あっちにもこっちにも鳥居があり、その先には難解な神社のいわれが長々と記されている(下の写真は大神神社、2014.06.16撮影)

  この大神神社の境内の一角に、あのササユリが育てられている。広さはテニスコート2面ほどで、激しい傾斜地でるが、ほどよい日陰にササユリがぱらりぱらり。 ササユリは白とばかり思い込んでいたが、ピンクもあるし、輪郭がやや大きいのもある。タネから花を咲かせるまでには5-6年の歳月がかかるというから、 たいへんな手間をかけて品種改良をすすめてきたのであろう。写真から漂ってくるはずであるが、香りもなかなかのもので、深い味わいがある。大和は大阪 からでも近くはないが、なかなか値打ちのある旅である。来年の6月にも来てみようと思う。

◆スチュワードシップ・コード◆

  スチュワードシップ・コード(stwardship code)というのは、機関投資者がしたがうべき行動規範を列記したものをいう。イギリスでは2010年に明文化されて いたが、最近では日本においても関心が高まり、2014年になって金融庁においてガイドラインが定められれた。機関投資者は個人投資者の資金の運用 を任された受託者であるから、受託者として個人投資者の最善の利害(the best interest)に沿って投資行動を選択する義務を負っている。この義務が スチュワードシップ(stwardship)の原義であり、明文化されるかどうかかわらず、機関投資者としては当然に遵守しなければならない行動規範である。し かし、この当たり前の義務をあえて明文化して、その遵守を機関投資者に押し付けなければならない点に、現代のビジネス社会の苦渋がある。機関投 資者は資金委託者の個人投資者の利害よりも、オノレの利害を優先する傾向がなくならないのである。悪くすると、個人投資者を食い物にする、アクド イ機関投資者も次々に現れてくる。

  「委託者にとって最善のことだ」と機関投資者が本気で信じている場合であっても、その投資先がスカタンで、結果的には個人投資者に損害を与える ことが少なくないが、こういった場合にはスチュワードシップはいったいどうなるのであろうか。このケースはやや微妙ながら、きわめて重要である。まず第1に、 機関投資者は「委託者にとって最善のことだ」と本当に思っていたのに、機関投資者が投資に失敗して、委託者の個人投資者に損をさせるケースが実際には きわめて多い。第2に、機関投資者はいいかげんな投資行動を選択して、個人投資者に損害を与えているのに、「委託者にとって最善のこと」をやったと釈 明するケースも、これまた実際にきわめて多い。だから、「機関投資者は委託者にとって最善のことをやるべし」と定めたところであまり意味はなく、「学生は勉 強すべし」というのと同じ絵空ごとにしかならないおそれがある。

  委託者の利害にあからさま反する機関投資者の行動がスチュワードシップに違背することは、もちろんのことである。しかし、実際において「委託者の利害に 反する行動であった」ことを立証するのは容易なことではないから、機関投資者の違反行為を締め出すのはたいへんな難事業である。これよりもさらにむつ かしくなるのが、機関投資者が「委託者にとって最善のこと」をやろうしたのに、結果においてそれが実現されていないケースである。スチュワードシップ責任 がはたされていないのは結果から明らかようであるが、判断がむつかしい。本当にやろうとしていたのか?、手を抜いたのではないか?、やり方が甘かったの ではないか?、言い訳をしているだけではないか?、こうした疑念が限りなく 湧いてくる。スチュワードシップの責めを完全に果たすとすれば、こうした疑念をすべて晴らすことが必要とされるが、それは神様のみができることで、人間 には無理なことであろう。実際には、どうコードを定めるべきであろうか。

  スチュワードシップの責めを果たす1つの実際的な途は、「わたしは一所懸命に委託者のために頑張りましたが、結果はこれこれとなしました」と、委託 者に向けて機関投資者が「言い訳をする」ことだといわれている。機関投資者の投資行動が思惑通りのよい結果を生むようなことは滅多にないことなのだから、 結果がうまく行かないという想定で、機関投資者が「あれもやりました、これもやりましたが、結果がこの通りで、すいません」というふうに「申し開き」を するというのである。これを「報告責任」、「説明責任」、あるいは「会計責任」と呼んでいるが、問題はこの「申し開き」を委託者の個人投資者が納得してくれる かどうかである。

  金融庁のスチュワードシップ・コードは、こういう主旨から、スチュワードシップ責任を果たす基本方針、投資先企業のモリタリングの方針、議決権 行使と株主総会への対応などについて、機関投資者がそれぞれの基本指針を公表することを求めている。その「申し開き」が適切かどうかは、読 者の判断にお任せするほかはない。

◎金融庁 日本版スチュワードシップ・コに関する有識者検討会 「責任ある機関投資家」の諸原則

≪日本版スチュワード シップ・コ日本版スチュワード シップ・コード≫〜 投資と対話を通じて企業の持続的成長促すために〜

◆寿司ロボット◆

  回転寿司の主役といえば、ぐるぐる廻ってくるあのベルトコンベヤーと思うかもしれないが、ふつうのレスト ランにたとえれば、ベルトコンベヤーは皿運びの給仕でしかない。レストランで一番大事な役は料理を作 るシェフであろうが、回転寿司におけるシェフはマシンの寿司ロボットである。寿司ロボットはシャリ玉、 巻き寿司、いなり寿司・・・・・に専門化していて、大きなお櫃にご飯を積んでおくと、1分間に何百個もどん どん握って、あのベルトコンベヤーの上に載せていくという。

  ふつうの寿司屋では職人がシャリを握るが、その際決定的に重要なのは酢飯の握り加減だだそうで、シンマイの小僧 に酢飯を扱わせると、握りが堅すぎたり柔らかすぎたりで、いかにいい具(タネ、ネタ)を上に載せても、いか にいいワサビを練り込んでも、上等の寿司にはならないらしい。ところが修業を積み上げている寿司ロボット には心得があり、堅すぎもしないし柔らかすぎもしない均一なシャリ玉をほんわりと握る。だから、客の口に入 るのは一流の職人が握った第一級の寿司と変わるところがない。実際には、回転寿司の具はぺらぺらとした 紙のようなものが多いから、「やはり職人が握ったものでないと・・・・・」といった愚痴がこぼれてくるが。

  回転寿司が大流行りで、不二精機、鈴茂器工など、日本の寿司ロボットメーカーはかなり潤っている 模様であるが、こうした日本独特の食品加工機に注目しはじめているのが、海外のレストランである。最近 は日本食ブームで、海外では和食のレストランを展開する動きが拡がっている。その和食メニューの目玉はも ちろんsushiであるが、日本製の寿司ロボットを買ってくればよいのだから、コトは簡単である。日本に派遣して店 舗の運営の仕方を2−3人に仕込んでもらわなければならないとしても、寿司職人を日本から呼び寄せる 必要はないのだから、経費も安いし、開業準備も短期で足りる。寿司屋のハッピ、ハチマキ、テヌグイなどの小道具もインターネ ットで売っているし、醤油、ガリ、刺身のツマなどもどこかの専門業者が卸しているという。

  30年ほど前に海外で暮らしたことのある人びとは、海外で味わう寿司の1切れがどれほど舌に浸みるものか は忘れられずにいるにちがいない。懐かしさに涙ぐみながら喉に押し込んだにぎり寿司のひと口は、忘れようににも忘れられ ない遠い日本の味があった。そのにぎり寿司が、いまでは海外のどこでも安くいただける時代になりつつあるのは、寿司 ロボットのおかげであるから、文明の進化に喜ぶべきであろう。 

◆FASB+IASBが新収益認識基準を発表◆

  IASBとFASBは、コンバージェンス・プログラムの基本計画にもとづき収益認識に関する新会計基準を準備してきていたが、このほどその最終版の完成 にこぎつけ、2014年5月28日付けで「顧客との契約から生じる収益」を発表した。この新収益認識基準は顧客への財・サービスの移転を 売り手が移転と交換に受け取れると期待する販売対価によって計上することを求めるものであり、旧来の収益認識ルールを大幅に変更するものではな い。しかし、従来では業種とか販売方法の違いによってばらばらに定められていた収益認識方式を統一的な基本原則にもとづいて体系化しただけでなく、 多数の会計処理方法の間の矛盾を除去したり、開示方法の拡充を行ったりしている。また複数要素契約(multiple-element arrangement)の会計処理を 改善し、多数のサービスを抱き合わせる最近の販売動向への対処をすすめている。詳細は「新会計基準(GAAP)制定の動き」のコーナーで検討する予定 である。

  この新会計基準の施行は、FASB基準による場合には2016年12月15日以降に始まる会計年度から、IFRS基準による場合には2017年1月1日以降に 始まる会計年度からとされている。しかし、日本基準については邦訳が未発表であり、施行年度も明らかにされていない。

◆環太平洋火山帯◆

  太平洋沿岸を取り巻く「火の輪」(ring of fire)というのは、環太平洋火山帯のことである。先般のロスアンゼルスの地震も、南米チリの地震も この「火の輪」の仕業といわれているし、また東日本大震災、インドネシアの大津波も、この「火の輪」が暴れたことによるらしい。北米も南 米も、地図の上では日本から遠くかけはなれているように見えるが、「火の輪」という同じ囲炉裏を囲んでいると考えると、親近感が増してくる (下の画像はFox newsのTV画面より転載)

  アメリカのロッキー山脈はとてつもなく高くて、険しいが、これは「火の輪」を囲む火口の縁取りのようなものらしい。カナダのバンクーバーは1980年に 1年間住んだ懐かしい都市であるし、隣接するシアトルも数年ごとに訪れている美しい街であるが、周辺には5,000メートル級の高山が群がっていて、 その中腹では5月になってもスキー場が賑わっているほどである。一昨年の2013年にはシアトル空港から飛び立った飛行機の窓越しにMT.Rainierの頂上付 近を真横に眺める幸運に遭遇したが、真夏であったのにあちこちに残雪があって、濡れた黒い山肌の上で雪の中の水滴が太陽に輝いてキラキラしてい た。1997年に半年を過ごしたオレゴン州にも、MT.Food, MT.Three Sistersなどの美しい峰々が連なっているが、その山はどれも5,000M級で気高く、美し い姿を空中に突き上げている。MT.Three Sistersのドライブウエーには夏に車で一番上まで昇ったが、肌寒い上に空気が薄い感じで、写真を撮るのが精いっ ぱいというところであった。こうした北米のロッキーの山並みはカルフォールニアからメキシコを越え、さらに南米を縦に貫いているのだから雄大であること このうえない。このロッキー山脈の東裾野にはまた広大な砂漠が拡がっているが、その砂漠も丘陵あり、岩山あり、渓谷ありの激しい凹凸続きで、平坦な砂 地はごく稀にしかない。グランドキャニオンの険しい谷底は観光地として有名であるが、北米にはもう少し規模の小さいキャニオンがあちこちにある。これらは、 いずれの側面からみても古代における「火の輪」の活発な火山活動の痕跡なのである。

  「火の輪」はカムチャッカ、日本列島をめぐってオセアニアに達しているが、火山が煙を噴き上げ、高い山々が聳えているのは日本だけではない。 南の島にはサンゴ礁で出来た海抜数メートルの島々が多数あることは広く知られているが、他方には峻嶮な高山もあって、人を寄せつけないという 点はあまり注意されていない。たとえばニューギニア島には、MT.Jaya 5,000M、MT. Mandara 4,700M、MT.Wilhelm 4,500Mなどの高山が並んでいるし、 きょうも噴煙を吐いている活火山もいくつかある。

  なお、上の画像に示されている「チャレンジャー海溝」(Challennger deep)というは地球上で最も深い海の窪みで、水面から10,920Mもの下にある海底の 中の海底である。場所はフイリピン海溝のはるか東方沖であるが、所属はミクロネシア連邦だという。位置はFais島から南西に287 km、お馴染みの Guam島から北東に 304 km離れており(11°22.4′N 142°35.5′E)、広さは11KM×1.6KMとやや狭い。名称は、前世紀末にこれを発見した英国の軍 艦の名前にちなんだものというが、なにしろ深いことはまちがいない。エベレストが8,000Mだから、それよりもなお3,000Mも深い計算になる。山高ければ、また 谷深しというべきか・・・・・

◆備中高松城の水攻め(再)◆

  黒田官兵衛が編み出した奇作の中でいまも最も広く膾炙されているのは、備中高松城の水攻めの話であろう。高松城は天然の湖沼池の真中に 泥を掻きあげて築いた平城であり、四囲を取り巻く広大な沼が外堀の役割を果たしていた。天正10年(1582年)に、3万の兵によってこの高松城を取り囲 んで兵糧攻めで攻め立てていたのは羽柴秀吉であるが、後背の山地に毛利の大軍が大陣営を敷いていて、その毛利軍から高松城に夜陰に乗じ て食料など軍需物資が運び込まれるから、城はいつまで待っても落ちる様子がない。湿地帯の中の城だから、城内の井戸では水が涸れる心配もま ったくなかった(下の写真は備中高松城跡公園、2014.02.26に撮影)

  この戦況の中にあって、「水攻め」という古い中国の戦略を想い出したのは黒田官兵衛だったと伝えられている。高松城の西側には幅もさして広く ないし、底も浅い「足守川」が北から南へと流れており、この細い川が高松城を囲む湖沼に、北方の山地から集めた山水を注ぎ込んでいた。堤防を築 いてこの足守川の水を湖沼に引き入れると、水位が高くなり、高松城は島の中に取り残された孤城になってしまうのではないか。これが黒田官兵衛が 考案した水攻めの作戦であるが、突貫工事に突貫工事を重ねて堤防を築いてみると、折も折、梅雨末期の大雨が降り、洪水によって高松城は1階部 分は完全に水没してしまった。

(備中高松城付近の見取図、2014.02.26に作成)

  ちょうどその頃、京では本能寺の乱が起こり、秀吉は停戦を急がねばならなかったから、それまでに強硬に主張していた領土の割譲要求を大幅に 削り、高松城主の清水宗治の首さえ差し出せば停戦してもよいと、講和条件を引き下げた。この案は毛利・高松側にすぐに受け容れられたから、 場面は高松城主の清水宗治の切腹という後世に残る名シーンに移った。高松城を囲む夜の湖沼には雨水が満々と湛えられていたが、その湖上に 清水宗治と3人の家来を乗せた一艘の屋形舟が静かに漕ぎだした。秀吉はもとより、両陣営の将兵が見守る中で清水宗治は船上でひと舞してから、 辞世の句を詠み、自害して果てたのである。

浮世(うきよ)をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔(こけ)に残して

  JR岡山駅でJR吉備線の総社行きに乗り換え、5駅目の「備中高松」で下車する。線路脇を進行 方向に5分ほど歩くと踏切があるので、右に折れてその踏切を渡ると、まっすぐに10分ほど歩いたところに「高松城址」という標識が建っている。何の変哲 もない田圃に囲まれたふつうの公園であるが、ここが備中高松城のあったところである。あれから430年が経っているのだからか、湖沼はすっかり泥で埋 まってしまったらしく、周りを見渡すと向こうの山裾まで田園が拡がっている。遠くの山は春霞に煙っていたが、平和そのもので、小鳥のさえずりが聞こえ てきそうな感じであった。おそらくはあの山の中に深く踏み込んでみても、昔の戦場の跡はどこにも残っていないにちがいない。 公園のすぐ近くの墓地に宗治首塚・胴塚があり、写真のような立派な墓標が建っている。脇の石碑には清水 宗治の辞世の句が刻まれているし、墓には新しい花が供えられていた。

中島 省吾 先生を偲んで(再)

  中島 省吾(なかじま・せいご)先生が2013年12月24日のクリスマスイブの夜に、急性心筋梗塞により死去されました。 中島先生は1922年のお生まれですので、享年は91歳でした。日本会計学界の巨星がまた1つ墜ちたと、大きな衝撃を 受けています。

  中島先生は母校の東京商科大学(現一橋大学)で、古川栄一博士の下で会計学のご研究を始められました。 東京商科大学を卒業してから、ペンシルヴェニア大学商学部に留学し、同大学院修士課程のMBAコースを 修了されています。学位は一橋大学から商学博士を授与されました。

  中島先生は最初に明治学院大学の助教授に就任され、その後横浜国立大学助教授を経て、1964年から20年間、 国際基督教大学教授として研究と教育にご活躍になられました。国際基督教大学をご退職された後では、フェリス 女学院の院長・理事長を永くお務めになられていました。横浜国立大学では黒沢清、山辺六郎、沼田嘉穂といった 大先輩の下で研鑽を積まれたとお聞きしましたが、国際基督教大学にお移りになってからも、横浜国立大学のイメー ジを背負っておられた印象でした。わたしが神戸大学経営学研究科修士課程に入学したのは1967年ですから、中 島先生のお名前に初めて接したのは国際基督教大学時代の先生であったという計算になります。もちろん、当時の 中島先生は雲の上の存在でしたが・・・・・・

  中島先生のご研究の主柱はアメリカ会計基準の理論的発展史であり、その成果は『会計基準の理論――AAA会計基準の理論 構造――』(森山書店、1964年)など、多数のご著書・論文にまとめられています。わたしが最もお世話になったのが中島 先生の訳書『ペイトン・リトルトン会社会計基準序説』(森山書店、1933年)ですが、そのほかにも数えきれないほどの多く の学恩を中島先生に負っています。1960-1980年は日本だけでなく、世界中が会計原則、会計基準の一色に染まって いましたから、中島先生のご研究成果を頼りにしないことには、会計学の研究が始められないような状況でした。こんにち どの教科書にも載っている「歴史的原価」、「実現基準」、「対応原則」などはたぶんは中島先生が日本に定着させた会計 学の用語で、当時では中島先生のお考えに沿ってそうした先端用語の含意を正確に理解することが最優先事項になっ ていました。会計学会の全国大会においてメーン・テーブルに陣取っているのはいつも中島先生という感じでしたが、それ は当然のことといえます。

  中島先生が日本会計学会の会長にご就任のころ、わたしは学会幹事を務めていましたので、何度もお話を拝聴する 機会に恵まれました。中島先生は新潟県のご出身とかで、物静かに、また訥々といろいろ興味深いお話を聞かせていただ いた覚えがありますが、酒席でのお話も理路整然としていて、中島先生の周りで座が湧き立つようなことはなかったと思います。 最近では巷に公正価値会計の話題が飛び交っていますので、歴史的原価会計のことをいま中島先生がどのように思って おられるか、いちどお伺いしたいものと考えていた矢先でした。まことに残念なことですが、病気ということであれば仕方のない ことです。中島先生のお人柄と学術的ご貢献を偲びつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。

◆五畿内と近畿(再)◆

  「畿内」というのは、昔には天皇の宮殿の近場という意味で使われており、天皇とその親族の勢力圏の内側を指すことばであったと 想像される。だから、婚姻によって新しい親族が追加された場合には畿内に新屋敷が建造されたし、罪人とか謀反人が身内から出 た場合には畿内の外へ追放されるのが常であったようである。しかし、この用語が使い慣らされると対象の地域が固定化し、地名と しての意味をもつようになった。7-8世紀ごろには畿内は五カ所あるとされ、山城国、大和国、河内国、和泉国、摂津国の国名が挙げ られるようになった。これが「五畿内」であるが、律令制のもとでは、税制もこの地域区分によっていたと思われる。

  これら五畿内の中で広大な面積をもつのは摂津国であり、神戸市須磨区の一の谷から京都市乙訓郡大山崎までに、東西に長く拡 がっている。摂津国の真中には西宮から京都を結ぶ西国街道が走っており、交通通信の上で大きな戦略的意味をもっていた。河内 国も面積は広大であるが、淀川の堤防が整備される秀吉の治世まで、台風ごとに洪水で溢れる湿地帯ばかりで、農業生産の拠点と いう意味ではあまり重要な役割を果たしていなかったと考えられる。

  いまでは「畿内」よりも「近畿」の方が馴染み深いが、「近畿」というのは五畿内に隣接する国を指しており、五畿内に加えて三重、和歌 山、滋賀が含まれる。しかし、岐阜、愛知を含んでいない点では地域は限定されており、こんにちの「関西」に近い意味をもっていると いえよう。

  ちなみに、「上方」は江戸時代に使われていたころには、「昔の都」という意味をもっていた。したがって本来は「京都」を指していた ものであるが、意味がぼやけて、いまでは「大阪」も「上方」の一部らしい。大阪の難波あたりで演じられている落語も、「上 方落語」といわれているから、むしろ「上方」の本場は「大阪」なのかもしれない。

◆ファーマにノーベル経済学賞(再)◆

  Eugene Francis Fama (1939.2.14-)がついに2013年のノーベル経済学賞に輝いた。共同受賞者として Robert ShillerとLars Peter Hansenが挙げられているが、これら共同 受賞者とFamaとの学術的な関係はよくわからない。ともかく、ノーベル経済学賞というのは最高の賞なのだから、これ以上に目出たいことはない。

  Famaはイタリア系の三世としてMassachusetts州のBostonに生まれ、1960年にTufts Universityという無名の大学を卒業している。学部時代にはスポーツに興じており、 アスリートとしてかなりの名をなしていたらしい。その後にUniversity of Chicagoの大学院に進学したのがFamaの素晴らしいキャリアの始まりで、 University of ChicagoのM.B.AとPh.Dを取得してからたちまち金融論の若手研究者として大躍進の途を辿りはじめた。 これまで一度もUniversity of Chicagoを離れたことはないというから、University of Chicagoに根を生やした、University of Chicago生粋の金融学者である (Famaの写真はUniversity of Chicagoのホームページから借用)

  University of ChicagoにおけるPh.D論文はランダム・ウォークにしたがう株価に関するものであったが、この論文はすぐさま"The Behavior of Stock Market Prices"というタ イトルでJournal of Business(January 1965)に掲載され、学界と実務界の両方に大きな衝撃を与えた。Famaはつづけて1969年に"The Adjustment of Stock Prices to New Information"という画期的な論文をInternational Economic Reviewに発表したが、この研究は当時最新のCRSPというデータベースを使った株価の実証分析 であり、今日でいうところの"event study"の先駆けをなすものであった。FamaはEMH(efficient-market hypothesis)の「元祖」とされているが、その理論的な基礎になっているの はこれらの初期の数本の研究成果であり、その大綱は"Efficient Capital Markets: A Review of Theory and Empirical Work,"Journal of Finance(May 1970)にまとめられている。

  Famaが提唱したEMHでは、市場の効率性のタイプに(1)strong form、(2)semi-strong form、(3)week formの3つがあるとされたが、この区別が情報の種類の違いによるのか、 市場における情報分布の違いを指すのか、市場均衡の成立ちの違いを意味するのかがよくわからず、ずいぶんと苦労をさせられたものである。市場がstrong formであれ ば、すべての情報が市場の隅々にまで完全に行き渡っているから、だれにも利得獲得のチャンスがなくなるという点はよく理解できるとしても、それとは違う状況では、どこが、 どう違ってくるのか判然としない。"semi-strong"、"week"というのは、単なる「程度の違い」では片づかないらしいが、かといって何か本質的な違いを指しているとも考えにく い。いまでもこの難解なパズルによく遭遇するが、そのたびに泣きたい思いがしてくる (下の写真は東福寺、2013.11.12に撮影)

  FamaのEMHにおけるもう1つのやっかいな問題は、EMHにおける「効率性」には市場均衡モデル、つまり市場価格形成のメカニズムがくっついていて、切り離せないということ である。これは"joint hypothesis problem"と呼ばれているから、どちらか一方だけに軸足を移すようなことは、やってはいけないらしい。実際の株式リターンと理論上の期待 リターンが食い違っているいるケースがでてきているが、その場合でも、「市場が不効率だからだ」と簡単に片づけてしまったり、「価格形成モデルがダメなのだ」と断定してし まったりすると、一方を切り捨てたことになって、それは やってはいけないのだという。「効率性」も「価格形成モデル」も単独ではテストできないという理屈だから、2つをジョイントさせてテストするほかはないということになる。しかし、両 方を同時にテストして、どっちがわるいということになるのか、両方ともわるいということになるのか、どうにもよくわからない。

  Famaがいう"anomaly"は理論的に説明不能な奇怪な価格現象を指しているが、その"anomaly"も市場の効率性に原因があるのか価格形成モデルに欠陥があるのか、どうも はっきりしない。"joint hypothesis"の下ではどちらが原因なのか、両方に原因があるのかが判然としないから、気分がすっきりしない。まったくこまったことである。

  EMHによる会計学の実証研究は1968年のBall and Brownにはじまるわけであるが、こうしてFamaのキャリアに並べてみると、会計学の研究がFamaの研究にそれほど遅れを とっていなかったことがわかる。Famaにキャッチアップする形で会計学の研究が進展してきたのであるから、Famaのノーベル経済学賞の受賞は、会計学の見地からしても、 エポックメイキングなできごとであることはまちがいない。しかし、会計学研究者からすると、EMHも"anomaly"も、ずいぶんと体力をすり減らされた厄介なアイデアであったといえ よう。

  金融論の世界においては、FamaのEMHと同じくらいに揺るぎない地位を確保しているもう1つの理論にCapital Asset Pricing Model (CAPM)がある。このCAPMにおいて 広く受け入れられている考え方の1つは、個別銘柄の株価は市場平均株価(日経ダウ平均など)と密接な関係をもっており、2つの関連を示すベータ値(β)によって 個別銘柄の株価はかなりうまく説明できるというものである。1993年にFenchと共同執筆した論文"Common Risk Factors in the Returns on Stocks and Bonds," Journal of Financial Economics Vol.33 (1993)において、Famaはこの一般的な考え方を覆した。市場平均のほかに2変数を追加して、3変数によって個別銘柄の 株価を説明すれば、理論が大幅に改善されるという新しい主張を展開しはじめたのである。いわゆる"Fama=French three-factor model"である。 この"Fama=French three-factor model"によれば、"anomaly"のいくつかも、変則的な現象ではなく、当たり前の正常な現象に変わるというから、FamaにおいてはEM HとCAPMとがどこかで融合しているのかもしれない。しかし、EMHとCAPMの壁を取り払うだけでなく、"joint hypothesis"もなおも有効だというのだから、ストーリーは 簡単ではない。Famaが仕事をすればするほど、わたしにとっては未知の世界がどんどん拡がっていくような気がしてならない。

◆第二次大戦の終結と占守島の戦い(再)◆

  占守島(しゅむしゅとう)というのは千島列島のはるか東方の末端において、カムチャッカ半島のすぐ南側に豆粒のようにぽつりと浮かんでいる小島である。 この小島の北側に広がる大海がオホーツク海であり、南側に広がる大海が太平洋である。占守島とカムチャッカ半島とを隔てている狭い海峡が第一クリル海峡で あるが、第二次世界大戦までは、この第一クリル海峡が日本とソ連の国境に定められており、占守島を含む千島列島のすべての島々が日本の領土として、日本政府によって 統治されていた。第二次世界大戦の終結以前では、根室沖の北方4島だけが日本の領土であったのではなく、はるか東の方まで日本の国土は拡がっていたのである。

  江戸時代の末期においては日本とソ連との国境がはっきりと定まっておらず、樺太と千島では(それにカムチャッカ、アリューシャン列島方面でも)、日本人とソ連人との間で紛 争が絶えなかった。このため両国の政府間で国境線の線引作業がすすめられていたが、長期にわたる国境交渉の末に最終的に成立したのが明治8(1875)年の樺 太・千島交換条約である。この条約交渉における日本側の特命全権大使は榎本武揚であり、南樺太領有を主張する国内の一部勢力を抑えて、千島列島を選択した。 この条約の結果は、日本は樺太の全島の権益をすべて放棄するが、その代わりに千島列島のすべての島を日本が領有し、統治するということであった。この国際条約 により、樺太はすべてロシア領とする一方で、千島列島は、東端の占守島に至るまですべて日本領とすることが確定したのである。

  第二次世界大戦の初期には、米国軍は北太平洋のアリューシャン列島からキスカ島、アッツ島を経て、千島列島の島づたいに、北海道に侵攻してくるという想定が有 力視されており、この想定のもとに、日本軍は昭和17(1942)年6月にはアッツ島、キスカ島を占拠し、米国軍の来襲を睨んで北太平洋に防衛線を敷いていた。この想定は必 ずしも的外れなものではなく、米国軍は開戦後すぐに実際に日本の北方領土に向けて作戦を展開し、北太平洋の島づたいに軍隊を西に動かしはじめた。昭和18(1943)年5月には、米 国軍は11、000という圧倒的な将兵を投入してアッツ島攻略に着手し、陸・海・空からの猛攻撃によって17日間でアッツ島を制圧してしまった。山崎保代陸軍大佐が指揮す る日本軍のアッツ島守備隊2,600人は、援軍なしにこの戦いに耐えた末に、ついに全滅してしまったのである。

  米国軍はその後作戦を大転換し、太平洋南方の島づたいに日本列島を攻略することにし、沖縄諸島を新しい攻撃のターゲットに定めた。昭和20(1945)年3月26日にから沖縄戦 がはじまり、沖縄本島を中心に、3か月にわたって両軍の総力を挙げた激戦が展開された。この沖縄戦の最中においても、なおも北太平洋の戦線では脅威が続いていると して、千島列島の占守島には第91師団の精鋭23,000人が配備され、決戦に備えて国境の守備固めがすすめられていた。

  昭和20(1945)年8月になると広島・長崎に原爆が投下され、一気に太平洋戦争は終結に向かった。昭和20(1945)年8月15日、日本はポッダム宣言を受諾し、無条件降 伏をすることを決定し、これを受けて日本領土の隅々にまで昭和天皇の玉音放送が流された。この終戦の詔勅を通じて、日本軍の全軍に停戦命令が下されたのである。千島列 島の占守島を固める日本軍の将兵にも、この停戦命令はとどいていたから、本来であれば、千島列島の占守島でもこの8月15日に、戦争は終結するはずであった。

  8月18日は終戦の詔勅が発せられた3日後になるが、その8月18日の未明に、突如として国籍不明の敵軍が、千島列島の占守島の日本陣地を攻撃しはじめた。当初 は停戦命令が行き渡らない米国軍による誤りの攻撃であろうと推測されていたが、前線の情報を繋ぎ合せてみたところ、敵軍の正体はソ連軍で、それも重装備の陸軍正規兵8,800のが占守島 に本格的に侵攻してきたことが明らかになった。

  占守島の日本軍ではソ連軍を迎え撃たなければ、将兵(および開拓団の民間人)の生命は守られないし、かといってこの戦闘に勝ったところでその勝利に何かの意味があるわけでは ない。苦渋の選択の末に、日本軍の現地指導部は対ソ軍に対する戦闘開始に踏み切った。しかし、敗戦国の日本軍にはこの戦いを正当化する理由がなかったから、8月21日 には停戦交渉を受け入れざるえなくなった。8月23日には日本軍はソ連軍による武装解除を受け、生き残った将兵はシベリアに送られ、抑留されてしまった。

  この占守島の戦いは終戦の後に始まった戦争であり、第2次世界大戦の後に起きた第2次世界大戦の一部である。満州では、終戦の直前にソ連が参戦し、ソ連と日本軍との戦闘 が終戦後にも続いたが、占守島の戦いは終戦の後に起きた戦闘であり、この点で満州の対ソ戦争とも異なっている。人類史上珍しいこの占守島の戦いを興味深く扱っているのが、 浅田次郎、『終わらざる夏(上・中・下)』(集英社文庫、2013年6月)である。

◆国際会計基準(IFRSs)への対応は、もう暫く事態静観(再)◆

  金融庁の企業会計審議会(会長 安藤英義教授)は、2013年6月19日に総会・企画調整部会合同会議を開催し、「当面の方針」を取りまとめた。これまでの 経緯を再検討したうえで、もう暫く事態の推移を見守るということになったもようである。

金融庁・企業会計審議会、「国際会計基準(IFRS)への対応のあり方に関する当面の方針」(平成25年6月20日)

  日本の上場会社には、一定の条件を満たしておれば国際会計基準に準拠する途がすでに開かれているが、国際会計基準に移行済み の会社数は現時点で20社ほどと少なく、今後も急増する見込みはない。またアメリカのSECなども慎重な姿勢を変え ておらず、世界レベルでみても国際会計基準への転換が急激にすすむ状況にはない。こうした四囲の事情を勘案して、日本で もこれまでの慎重な方針を堅持すると判断したものらしい。

◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定(再)◆

  アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう2年間の 開催予定は、次のように発表されています。

□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia

□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois

◆次回の更新◆

  暑い夏のシーズンとなりますが、毎日をお大切に、ご健勝にてお楽しみください。次回の更新は10月を予定しています。ごきげんよう、さようなら。


2014.6.20

OBENET

代表 岡部 孝好