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2014年03月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆桜のDNA◆
ことしも桜の花見のシーズンを迎えようとしているが、その桜には400以上もの種類があり、そのほとんどが雑種なのだという
ことは最近まで知らなかった話である。山桜、染井吉野のほかに、枝垂れ桜、八重桜があることくらいの知識はもっていたが、
伊豆には河津桜、沖縄には寒緋桜というとても美しい桜が咲くのだということは、ごく最近になってようやくわかってきたことで
ある。そういえば淡路島の花博の折、会場に河津桜のピンクの花びらが散っていたような記憶がある(下の桜
は神戸大学六甲台社会科学系図書館前の桜、2014.03.22に撮影)。
。
桜の苗を育てる最も基本的なやり方は、桜の実を植えて、出てきた芽から苗に育て上げる手法であろう。ところが、樹木の場
合には、成木の枝を土に埋め込んで根を張らせる「取り木」とか、若木の穂先に他の成木の芽を挿し込む「接ぎ木」という手法
が利用できるから、桜の苗も、いろいろな方法で、どんどん殖えていくことになる。興味深いのはこうした多様な桜の殖やし方が古くから
知られていて、大昔から日本の各地で実際に使われてきたという点である。
とある講演会で聞いたところでは、動物だけでなく、植物についてもDNA鑑定が簡単にできるから、植物の個体について親子
関係が追跡可能だということであった。取り木、接ぎ木の場合にはこの追跡が正確にできるから、どこどこの桜の銘木は、どこど
この桜の銘木と親子だという「血縁関係」が突き止められるということらしい。この桜の木と桜の木のマッチングから浮かび上がっ
てくる事実は、2本の桜を結びつけた人間関係である。誰かが桜の苗木を育て、盆栽にせよ幼木にせよ、その苗木を誰
かにプレゼントしたとすると、そのプレゼントの「証拠」が残っているから、当時の人間関係が判明するのである。油断のならない
話である。
◆備中高松城の水攻め◆
黒田官兵衛が編み出した奇作の中でいまも最も広く膾炙されているのは、備中高松城の水攻めの話であろう。高松城は天然の湖沼池の真中に
泥を掻きあげて築いた平城であり、四囲を取り巻く広大な沼が外堀の役割を果たしていた。天正10年(1582年)に、3万の兵によってこの高松城を取り囲
んで兵糧攻めで攻め立てていたのは羽柴秀吉であるが、後背の山地に毛利の大軍が大陣営を敷いていて、その毛利軍から高松城に夜陰に乗じ
て食料など軍需物資が運び込まれるから、城はいつまで待っても落ちる様子がない。湿地帯の中の城だから、城内の井戸では水が涸れる心配もま
ったくなかった(下の写真は備中高松城跡公園、2014.02.26に撮影)。
この戦況の中にあって、「水攻め」という古い中国の戦略を想い出したのは黒田官兵衛だったと伝えられている。高松城の西側には幅もさして広く
ないし、底も浅い「足守川」が北から南へと流れており、この細い川が高松城を囲む湖沼に、北方の山地から集めた山水を注ぎ込んでいた。堤防を築
いてこの足守川の水を湖沼に引き入れると、水位が高くなり、高松城は島の中に取り残された孤城になってしまうのではないか。これが黒田官兵衛が
考案した水攻めの作戦であるが、突貫工事に突貫工事を重ねて堤防を築いてみると、折も折、梅雨末期の大雨が降り、洪水によって高松城は1階部
分は完全に水没してしまった。
(備中高松城付近の見取図、2014.02.26に作成)。
ちょうどその頃、京では本能寺の乱が起こり、秀吉は停戦を急がねばならなかったから、それまでに強硬に主張していた領土の割譲要求を大幅に
削り、高松城主の清水宗治の首さえ差し出せば停戦してもよいと、講和条件を引き下げた。この案は毛利・高松側にすぐに受け容れられたから、
場面は高松城主の清水宗治の切腹という後世に残る名シーンに移った。高松城を囲む夜の湖沼には雨水が満々と湛えられていたが、その湖上に
清水宗治と3人の家来を乗せた一艘の屋形舟が静かに漕ぎだした。秀吉はもとより、両陣営の将兵が見守る中で清水宗治は船上でひと舞してから、
辞世の句を詠み、自害して果てたのである。
浮世(うきよ)をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔(こけ)に残して
JR岡山駅でJR吉備線の総社行きに乗り換え、5駅目の「備中高松」で下車する。線路脇を進行
方向に5分ほど歩くと踏切があるので、右に折れてその踏切を渡ると、まっすぐに10分ほど歩いたところに「高松城址」という標識が建っている。何の変哲
もない田圃に囲まれたふつうの公園であるが、ここが備中高松城のあったところである。あれから430年が経っているのだからか、湖沼はすっかり泥で埋
まってしまったらしく、周りを見渡すと向こうの山裾まで田園が拡がっている。遠くの山は春霞に煙っていたが、平和そのもので、小鳥のさえずりが聞こえ
てきそうな感じであった。おそらくはあの山の中に深く踏み込んでみても、昔の戦場の跡はどこにも残っていないにちがいない。
公園のすぐ近くの墓地に宗治首塚・胴塚があり、写真のような立派な墓標が建っている。脇の石碑には清水
宗治の辞世の句が刻まれているし、墓には新しい花が供えられていた。
◆中島 省吾 先生を偲んで◆
中島 省吾(なかじま・せいご)先生が2013年12月24日のクリスマスイブの夜に、急性心筋梗塞により死去されました。
中島先生は1922年のお生まれですので、享年は91歳でした。日本会計学界の巨星がまた1つ墜ちたと、大きな衝撃を
受けています。
中島先生は母校の東京商科大学(現一橋大学)で、古川栄一博士の下で会計学のご研究を始められました。
東京商科大学を卒業してから、ペンシルヴェニア大学商学部に留学し、同大学院修士課程のMBAコースを
修了されています。学位は一橋大学から商学博士を授与されました。
中島先生は最初に明治学院大学の助教授に就任され、その後横浜国立大学助教授を経て、1964年から20年間、
国際基督教大学教授として研究と教育にご活躍になられました。国際基督教大学をご退職された後では、フェリス
女学院の院長・理事長を永くお務めになられていました。横浜国立大学では黒沢清、山辺六郎、沼田嘉穂といった
大先輩の下で研鑽を積まれたとお聞きしましたが、国際基督教大学にお移りになってからも、横浜国立大学のイメー
ジを背負っておられた印象でした。わたしが神戸大学経営学研究科修士課程に入学したのは1967年ですから、中
島先生のお名前に初めて接したのは国際基督教大学時代の先生であったという計算になります。もちろん、当時の
中島先生は雲の上の存在でしたが・・・・・・
中島先生のご研究の主柱はアメリカ会計基準の理論的発展史であり、その成果は『会計基準の理論――AAA会計基準の理論
構造――』(森山書店、1964年)など、多数のご著書・論文にまとめられています。わたしが最もお世話になったのが中島
先生の訳書『ペイトン・リトルトン会社会計基準序説』(森山書店、1933年)ですが、そのほかにも数えきれないほどの多く
の学恩を中島先生に負っています。1960-1980年は日本だけでなく、世界中が会計原則、会計基準の一色に染まって
いましたから、中島先生のご研究成果を頼りにしないことには、会計学の研究が始められないような状況でした。こんにち
どの教科書にも載っている「歴史的原価」、「実現基準」、「対応原則」などはたぶんは中島先生が日本に定着させた会計
学の用語で、当時では中島先生のお考えに沿ってそうした先端用語の含意を正確に理解することが最優先事項になっ
ていました。会計学会の全国大会においてメーン・テーブルに陣取っているのはいつも中島先生という感じでしたが、それ
は当然のことといえます。
中島先生が日本会計学会の会長にご就任のころ、わたしは学会幹事を務めていましたので、何度もお話を拝聴する
機会に恵まれました。中島先生は新潟県のご出身とかで、物静かに、また訥々といろいろ興味深いお話を聞かせていただ
いた覚えがありますが、酒席でのお話も理路整然としていて、中島先生の周りで座が湧き立つようなことはなかったと思います。
最近では巷に公正価値会計の話題が飛び交っていますので、歴史的原価会計のことをいま中島先生がどのように思って
おられるか、いちどお伺いしたいものと考えていた矢先でした。まことに残念なことですが、病気ということであれば仕方のない
ことです。中島先生のお人柄と学術的ご貢献を偲びつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。
◆五畿内と近畿◆
「畿内」というのは、昔には天皇の宮殿の近場という意味で使われており、天皇とその親族の勢力圏の内側を指すことばであったと
想像される。だから、婚姻によって新しい親族が追加された場合には畿内に新屋敷が建造されたし、罪人とか謀反人が身内から出
た場合には畿内の外へ追放されるのが常であったようである。しかし、この用語が使い慣らされると対象の地域が固定化し、地名と
しての意味をもつようになった。7-8世紀ごろには畿内は五カ所あるとされ、山城国、大和国、河内国、和泉国、摂津国の国名が挙げ
られるようになった。これが「五畿内」であるが、律令制のもとでは、税制もこの地域区分によっていたと思われる。
これら五畿内の中で広大な面積をもつのは摂津国であり、神戸市須磨区の一の谷から京都市乙訓郡大山崎までに、東西に長く拡
がっている。摂津国の真中には西宮から京都を結ぶ西国街道が走っており、交通通信の上で大きな戦略的意味をもっていた。河内
国も面積は広大であるが、淀川の堤防が整備される秀吉の治世まで、台風ごとに洪水で溢れる湿地帯ばかりで、農業生産の拠点と
いう意味ではあまり重要な役割を果たしていなかったと考えられる。
いまでは「畿内」よりも「近畿」の方が馴染み深いが、「近畿」というのは五畿内に隣接する国を指しており、五畿内に加えて三重、和歌
山、滋賀が含まれる。しかし、岐阜、愛知を含んでいない点では地域は限定されており、こんにちの「関西」に近い意味をもっていると
いえよう。
ちなみに、「上方」は江戸時代に使われていたころには、「昔の都」という意味をもっていた。したがって本来は「京都」を指していた
ものであるが、意味がぼやけて、いまでは「大阪」も「上方」の一部らしい。大阪の難波あたりで演じられている落語も、「上
方落語」といわれているから、むしろ「上方」の本場は「大阪」なのかもしれない。
◆ファーマにノーベル経済学賞◆
Eugene Francis Fama (1939.2.14-)がついに2013年のノーベル経済学賞に輝いた。共同受賞者として Robert ShillerとLars Peter Hansenが挙げられているが、これら共同
受賞者とFamaとの学術的な関係はよくわからない。ともかく、ノーベル経済学賞というのは最高の賞なのだから、これ以上に目出たいことはない。
Famaはイタリア系の三世としてMassachusetts州のBostonに生まれ、1960年にTufts Universityという無名の大学を卒業している。学部時代にはスポーツに興じており、
アスリートとしてかなりの名をなしていたらしい。その後にUniversity of Chicagoの大学院に進学したのがFamaの素晴らしいキャリアの始まりで、
University of ChicagoのM.B.AとPh.Dを取得してからたちまち金融論の若手研究者として大躍進の途を辿りはじめた。
これまで一度もUniversity of Chicagoを離れたことはないというから、University of Chicagoに根を生やした、University of Chicago生粋の金融学者である (Famaの写真はUniversity of Chicagoのホームページから借用)。
University of ChicagoにおけるPh.D論文はランダム・ウォークにしたがう株価に関するものであったが、この論文はすぐさま"The Behavior of Stock Market Prices"というタ
イトルでJournal of Business(January 1965)に掲載され、学界と実務界の両方に大きな衝撃を与えた。Famaはつづけて1969年に"The Adjustment of Stock Prices to New Information"という画期的な論文をInternational Economic Reviewに発表したが、この研究は当時最新のCRSPというデータベースを使った株価の実証分析
であり、今日でいうところの"event study"の先駆けをなすものであった。FamaはEMH(efficient-market hypothesis)の「元祖」とされているが、その理論的な基礎になっているの
はこれらの初期の数本の研究成果であり、その大綱は"Efficient Capital Markets: A Review of Theory and Empirical Work,"Journal of Finance(May 1970)にまとめられている。
Famaが提唱したEMHでは、市場の効率性のタイプに(1)strong form、(2)semi-strong form、(3)week formの3つがあるとされたが、この区別が情報の種類の違いによるのか、
市場における情報分布の違いを指すのか、市場均衡の成立ちの違いを意味するのかがよくわからず、ずいぶんと苦労をさせられたものである。市場がstrong formであれ
ば、すべての情報が市場の隅々にまで完全に行き渡っているから、だれにも利得獲得のチャンスがなくなるという点はよく理解できるとしても、それとは違う状況では、どこが、
どう違ってくるのか判然としない。"semi-strong"、"week"というのは、単なる「程度の違い」では片づかないらしいが、かといって何か本質的な違いを指しているとも考えにく
い。いまでもこの難解なパズルによく遭遇するが、そのたびに泣きたい思いがしてくる (下の写真は東福寺、2013.11.12に撮影)。
FamaのEMHにおけるもう1つのやっかいな問題は、EMHにおける「効率性」には市場均衡モデル、つまり市場価格形成のメカニズムがくっついていて、切り離せないということ
である。これは"joint hypothesis problem"と呼ばれているから、どちらか一方だけに軸足を移すようなことは、やってはいけないらしい。実際の株式リターンと理論上の期待
リターンが食い違っているいるケースがでてきているが、その場合でも、「市場が不効率だからだ」と簡単に片づけてしまったり、「価格形成モデルがダメなのだ」と断定してし
まったりすると、一方を切り捨てたことになって、それは
やってはいけないのだという。「効率性」も「価格形成モデル」も単独ではテストできないという理屈だから、2つをジョイントさせてテストするほかはないということになる。しかし、両
方を同時にテストして、どっちがわるいということになるのか、両方ともわるいということになるのか、どうにもよくわからない。
Famaがいう"anomaly"は理論的に説明不能な奇怪な価格現象を指しているが、その"anomaly"も市場の効率性に原因があるのか価格形成モデルに欠陥があるのか、どうも
はっきりしない。"joint hypothesis"の下ではどちらが原因なのか、両方に原因があるのかが判然としないから、気分がすっきりしない。まったくこまったことである。
EMHによる会計学の実証研究は1968年のBall and Brownにはじまるわけであるが、こうしてFamaのキャリアに並べてみると、会計学の研究がFamaの研究にそれほど遅れを
とっていなかったことがわかる。Famaにキャッチアップする形で会計学の研究が進展してきたのであるから、Famaのノーベル経済学賞の受賞は、会計学の見地からしても、
エポックメイキングなできごとであることはまちがいない。しかし、会計学研究者からすると、EMHも"anomaly"も、ずいぶんと体力をすり減らされた厄介なアイデアであったといえ
よう。
金融論の世界においては、FamaのEMHと同じくらいに揺るぎない地位を確保しているもう1つの理論にCapital Asset Pricing Model (CAPM)がある。このCAPMにおいて
広く受け入れられている考え方の1つは、個別銘柄の株価は市場平均株価(日経ダウ平均など)と密接な関係をもっており、2つの関連を示すベータ値(β)によって
個別銘柄の株価はかなりうまく説明できるというものである。1993年にFenchと共同執筆した論文"Common Risk Factors in the Returns on Stocks and Bonds,"
Journal of Financial Economics Vol.33 (1993)において、Famaはこの一般的な考え方を覆した。市場平均のほかに2変数を追加して、3変数によって個別銘柄の
株価を説明すれば、理論が大幅に改善されるという新しい主張を展開しはじめたのである。いわゆる"Fama=French three-factor model"である。
この"Fama=French three-factor model"によれば、"anomaly"のいくつかも、変則的な現象ではなく、当たり前の正常な現象に変わるというから、FamaにおいてはEM
HとCAPMとがどこかで融合しているのかもしれない。しかし、EMHとCAPMの壁を取り払うだけでなく、"joint hypothesis"もなおも有効だというのだから、ストーリーは
簡単ではない。Famaが仕事をすればするほど、わたしにとっては未知の世界がどんどん拡がっていくような気がしてならない。
◆まぼろしの大湖、「巨椋池」◆
京都市の南の方に「巨椋池(おぐらいけ)」という大きな淡水湖があったといっても、「信じられない!」というひとが多いかもしれない。高速道路を車でよく乗り降りするひ
とは、そういう名称のインターが京都南にあるから、名前だけは思い当たるにちがいない。「巨椋池」という大きな湖は、京都盆地の中央にあって、ついこの前まで水上
交通でも大きな役割を果たしていたのだが、いまはどこかに消えて、まぼろしになっている(下の地図は天保年間の古地図を参考にして筆者が作成)。
京都の大山崎の辺りは、桂川、鴨川、宇治川、木津川という4つの大河川が寄り集まっているから、梅雨時になるとここで一挙に水嵩が膨れ上がる。明治になるまでには
4つのどの大河の上流にもダムはなかったから、上流で降った大雨は両岸の崖を洗いながら激しく駆け下り、この大山崎に至って出口に迷って、澱んだ。4河川の合流点は、そ
のためか、大昔から「淀」という名前が付けられていたが、この淀では溢れた洪水が氾濫するのは毎年のことであった。淀君がお住まいになった淀城は現在の場所より少し南
の競馬場の辺りだと聞いたが、いずれにしても淀城は毎年洪水の中にそそり立っていたにちがいない。大阪湾に注ぐ淀川はここからはじまっており、江戸時代まで大阪・京都
を結ぶ水運の基地であった (下の写真は現在の伏見港公園、2013.12.10撮影)。
淀で澱んだ洪水は宇治川を逆流して漂い、大きな湖をなしていたが、それが巨椋池である。水深は浅く、人が立てるほどの深さしかなかったが、面積が広く、どこまでも拡が
る浅瀬にはヨシが生い茂っていた。ところどころに無人の小島があったが、そのいくつかは「中書島」、「槇島」、「向島」などという私鉄の駅名でいまでも残っている。
巨椋池周辺は古くより「水の都」、「水鳥の郷」として歌に詠まれてきたが、湿気が強烈で、夏を凌ぐのはたいへんな場所だったらしい。夏に蚊の大群が民家に押し寄せるのは
毎年のことであったが、風が凪ぐと辺り一面に悪臭が漂って、息苦しくなる夜もあったという。昔の京都には下水設備がなかったから、生活排水もまた巨椋池に集まって、
夏になるとメタンガスがブスブスと泡を立てていたのかもしれない。巨椋池は京都盆地の中央に位置する景勝地で、水上交通の要所でもあったのに、地元での評判はも
うひとつであった。特に水害の悩みは深刻であった。
巨椋池の堤防工事は何度も何度も試みられたが、特に有名なのは、土木工事の天才であった秀吉による「伏見港」の開港である。1590年代に秀吉は伏見城を築城し
はじめたが、その当初の構想は天下の宇治川を外堀にして南の防衛を固めるということであったらしい。しかし、このアイデアは京の都に輸送網を建設するという大掛
かりな都市計画に発展し、伏見港を開削することを通じて、京都と大阪との間に水運の動線を確立するという壮大なプランに変わっていった。
宇治川の北岸に伏見港の船着場が開設され、宇治川の南側に堤防が構築されたのはこのプランによるものである。これによって巨椋池は宇治川と堤防で仕切られた形
なったが、洪水時に2つが一体となって、巨大な遊水地になることは、その後もいっこうに変わらなかった (下の写真は現在の伏見港公園、2013.12.10撮影)。
1614年、角倉了以が高瀬川の開削に成功し、伏見港から京都市内への水運の輪が大きく拡がった。大阪から三十石船で淀川を遡上し、伏見港で荷揚げされたコメ、木
炭、薪、塩などの生活物資が、あの高瀬舟によって京都の市街地へと大量に、安く運びこまれることになったのである。伏見港に隣接する「伏見伝馬所」には、つねに
馬100頭が繋がれていて、日夜を問わず御用におうじたというから、江戸時代を通じて伏見港は交通・通信の要所として大活躍をつづけたのである。秀吉の目論見が
いかにすぐれたものであったかが、歴史的事実によって見事に実証される結果になったわけである。
しかし、巨椋池の周辺で洪水がおきるのはあいかわらず年中行事になっていたし、夏になると蚊の大群と悪臭が周辺住民を苦しめるという状況はその後もまったく変
わらなかった。このため、淀川上流の改修計画が何度ももちあがったが、決定的となったのは大正6年の大水害であり、この洪水を機にして巨椋池を潰す大国家プロ
ジェクトがついに動きだした。昭和8(1933)年に干拓工事がはじめられ、かつての巨椋池は地図上から姿を消してしまった。いまではポンプで干上がった湖底が競馬
場、下水処理場、ゴミ処理場、公園、農地、工場などに姿を変えている。京都市伏見区、宇治市、久御山市に跨る広大な一帯の話である。
◆第二次大戦の終結と占守島の戦い(再)◆
占守島(しゅむしゅとう)というのは千島列島のはるか東方の末端において、カムチャッカ半島のすぐ南側に豆粒のようにぽつりと浮かんでいる小島である。
この小島の北側に広がる大海がオホーツク海であり、南側に広がる大海が太平洋である。占守島とカムチャッカ半島とを隔てている狭い海峡が第一クリル海峡で
あるが、第二次世界大戦までは、この第一クリル海峡が日本とソ連の国境に定められており、占守島を含む千島列島のすべての島々が日本の領土として、日本政府によって
統治されていた。第二次世界大戦の終結以前では、根室沖の北方4島だけが日本の領土であったのではなく、はるか東の方まで日本の国土は拡がっていたのである。
江戸時代の末期においては日本とソ連との国境がはっきりと定まっておらず、樺太と千島では(それにカムチャッカ、アリューシャン列島方面でも)、日本人とソ連人との間で紛
争が絶えなかった。このため両国の政府間で国境線の線引作業がすすめられていたが、長期にわたる国境交渉の末に最終的に成立したのが明治8(1875)年の樺
太・千島交換条約である。この条約交渉における日本側の特命全権大使は榎本武揚であり、南樺太領有を主張する国内の一部勢力を抑えて、千島列島を選択した。
この条約の結果は、日本は樺太の全島の権益をすべて放棄するが、その代わりに千島列島のすべての島を日本が領有し、統治するということであった。この国際条約
により、樺太はすべてロシア領とする一方で、千島列島は、東端の占守島に至るまですべて日本領とすることが確定したのである。
第二次世界大戦の初期には、米国軍は北太平洋のアリューシャン列島からキスカ島、アッツ島を経て、千島列島の島づたいに、北海道に侵攻してくるという想定が有
力視されており、この想定のもとに、日本軍は昭和17(1942)年6月にはアッツ島、キスカ島を占拠し、米国軍の来襲を睨んで北太平洋に防衛線を敷いていた。この想定は必
ずしも的外れなものではなく、米国軍は開戦後すぐに実際に日本の北方領土に向けて作戦を展開し、北太平洋の島づたいに軍隊を西に動かしはじめた。昭和18(1943)年5月には、米
国軍は11、000という圧倒的な将兵を投入してアッツ島攻略に着手し、陸・海・空からの猛攻撃によって17日間でアッツ島を制圧してしまった。山崎保代陸軍大佐が指揮す
る日本軍のアッツ島守備隊2,600人は、援軍なしにこの戦いに耐えた末に、ついに全滅してしまったのである。
米国軍はその後作戦を大転換し、太平洋南方の島づたいに日本列島を攻略することにし、沖縄諸島を新しい攻撃のターゲットに定めた。昭和20(1945)年3月26日にから沖縄戦
がはじまり、沖縄本島を中心に、3か月にわたって両軍の総力を挙げた激戦が展開された。この沖縄戦の最中においても、なおも北太平洋の戦線では脅威が続いていると
して、千島列島の占守島には第91師団の精鋭23,000人が配備され、決戦に備えて国境の守備固めがすすめられていた。
昭和20(1945)年8月になると広島・長崎に原爆が投下され、一気に太平洋戦争は終結に向かった。昭和20(1945)年8月15日、日本はポッダム宣言を受諾し、無条件降
伏をすることを決定し、これを受けて日本領土の隅々にまで昭和天皇の玉音放送が流された。この終戦の詔勅を通じて、日本軍の全軍に停戦命令が下されたのである。千島列
島の占守島を固める日本軍の将兵にも、この停戦命令はとどいていたから、本来であれば、千島列島の占守島でもこの8月15日に、戦争は終結するはずであった。
8月18日は終戦の詔勅が発せられた3日後になるが、その8月18日の未明に、突如として国籍不明の敵軍が、千島列島の占守島の日本陣地を攻撃しはじめた。当初
は停戦命令が行き渡らない米国軍による誤りの攻撃であろうと推測されていたが、前線の情報を繋ぎ合せてみたところ、敵軍の正体はソ連軍で、それも重装備の陸軍正規兵8,800のが占守島
に本格的に侵攻してきたことが明らかになった。
占守島の日本軍ではソ連軍を迎え撃たなければ、将兵(および開拓団の民間人)の生命は守られないし、かといってこの戦闘に勝ったところでその勝利に何かの意味があるわけでは
ない。苦渋の選択の末に、日本軍の現地指導部は対ソ軍に対する戦闘開始に踏み切った。しかし、敗戦国の日本軍にはこの戦いを正当化する理由がなかったから、8月21日
には停戦交渉を受け入れざるえなくなった。8月23日には日本軍はソ連軍による武装解除を受け、生き残った将兵はシベリアに送られ、抑留されてしまった。
この占守島の戦いは終戦の後に始まった戦争であり、第2次世界大戦の後に起きた第2次世界大戦の一部である。満州では、終戦の直前にソ連が参戦し、ソ連と日本軍との戦闘
が終戦後にも続いたが、占守島の戦いは終戦の後に起きた戦闘であり、この点で満州の対ソ戦争とも異なっている。人類史上珍しいこの占守島の戦いを興味深く扱っているのが、
浅田次郎、『終わらざる夏(上・中・下)』(集英社文庫、2013年6月)である。
◆国際会計基準(IFRSs)への対応は、もう暫く事態静観(再)◆
金融庁の企業会計審議会(会長 安藤英義教授)は、6月19日に総会・企画調整部会合同会議を開催し、「当面の方針」を取りまとめた。これまでの
経緯を再検討したうえで、もう暫く事態の推移を見守るということになったもようである。
金融庁・企業会計審議会、「国際会計基準(IFRS)への対応のあり方に関する当面の方針」(平成25年6月20日)
日本の上場会社には、一定の条件を満たしておれば国際会計基準に準拠する途がすでに開かれているが、国際会計基準に移行済み
の会社数は現時点で20社ほどと少なく、今後も急増する見込みはない。またアメリカのSECなども慎重な姿勢を変え
ておらず、世界レベルでみても国際会計基準への転換が急激にすすむ状況にはない。こうした四囲の事情を勘案して、日本で
もこれまでの慎重な方針を堅持すると判断したものらしい。
◆一般財団法人における理事の責任(再)◆
旧来の制度においては、財団法人は公益目的で創設される特別な法人であり(民法34条)、主務官庁(普通は知事)の許可がなければ設立できないものとされていた。ところが、平成18(2006)年に制度改革が行われてからは、「一般財団法人」という名のもとに誰でも設立できる通常の法人になった。認可主義から準則主義に設立原則が変更されたために、法定の要件を揃えて登記の手続きを完了すれば、一般財団法人が設立可能になったのである。
新法による一般財団法人の理事は1人以上何人でもよく、特に理事会を構成する必要はない(理事会を設けると理事会設置一般財団法人と呼ばれる)から、その運営面でもかなり簡素化されたといえる。しかし、理事に賦課される責任は以前に比べて格段に重くなっている。
(1) 理事の忠実義務が明記される(83条)とともに、競業及び利益相反取引が明文をもって制限されている(84条)。
(2) 理事がその任務を怠って、一般財団法人に損害を与えた時には、一般財団法人に対して損害賠償の責任を負う(111条)。
(3) 理事がその職務執行において悪意又は重大な過失により第三者に損害を与えた時は、第三者に発生した損害を賠償する責任を負う。
(4) 理事が計算書類(貸借対照表、損益計算書など)の重要事項について虚偽記載を行った場合には、第三者に対し悪意又は重大な過失により損害を与えたとみなして、損害賠償の責任を負う(117条)。
定款で理事の「最低責任限度額」を設定したり(113条)、外部理事とは「責任限定契約」を締結したりして(115条)、理事の賠償額を抑えることは可能である。しかし、責任そのものは減免させないから、一般財団法人の理事の責任は、株式会社の取締役並みに引き上げられており、きわめて厳しいものになったといえよう。特に計算書類の虚偽記載に賠償責任を負わせたことは重要な意味をもち、これまでにとかくありがちで
あった粉飾決算を防止するのに大いに寄与することが期待される。
「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」(平成十八年六月二日法律第四十八号)
「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律施行規則」(平成十九年四月二十日法務省令第二十八号)
◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定(再)◆
アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう2年間の
開催予定は、次のように発表されています。
□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia
□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois
◆次回の更新◆
2014年の新学期を迎えようとしていますが、みなさん、いかがおすごしでしょうか。花のシーズンとなりますので、
ピクニックとか旅行にお忙しいのかもしれません。毎日をお大事に、ご健勝にてお楽しみください。次回の更新は
6月を予定しています。ごきげんよう、さようなら。
2014.3.20
OBENET
代表 岡部 孝好

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