
A Message from Webmaster
to New Version(November 22, 2012)
2012年11月修正版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
Back Numbers
[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆賀春◆
あけまして おめでとう ございます。
みなさなまにとって、健やかで、稔り多い歳となりますよう、お祈り申しあげます。
ここ数年の間、日本のビジネスも会計学も国際会計基準(IFRSs)の嵐に振り回されてきましたが、ようやくその風も少し凪いできましたので、
ことしは本来の道に向けた軌道修正の一年になるのではないかと期待しております。1990年代のITバブル以来、経済に占める金融活動の
ウェートが異様なまでに高まって、ひとびとの暮しを支えるのが財・サービスだという最も肝心なことがその影を薄めてしまいました。国際会計
基準でも、財・サービスを造り出す設備や生産プロセスのことは背後に押しやられ、デリバティブ、ブランドなど、財・サービスを中心とした実物
経済から縁遠いものばかりに光が向けられてきました。このため、モノづくりを基軸にした従来の会計ルールは後退して、代わりに金融商品にしか適合し
ない会計ルールが前面に現れてきていたのです。時価会計、公正価値会計、マーク・ツー・マーケット(mark-to-market)といった会計用語
が氾濫しているのも、このことの結果なのです。
しかし、最近になってはっきりしてきたのは、ひとびとが豊かに暮らすには衣食住が必要だということ、そして誰かが造らなければこの衣食
住は賄われないということです。財・サービスが生産されて、はじめて豊かな暮しが成り立つのです。金融商品は二次的なもので、経済の根幹
をなすのは、やはり財・サービスの生産と消費なのです。この基本的な考え方に戻るとすれば、これからのビジネスも会計学も、モノづくりから目
を離さないことが大切になります。
モノづくりを核にする日本のビジネスが甦るかどうか、日本の会計学がそのモノづくりのビジネスをリードできるかどうか。これが今年の最大の関心
事ですが、前途には明るい光が射しているようにみえます。ことしも頑張って、この方向に沿って会計学の議論を展開していきます。どうぞよろしく
お願いいたします。
2013年元旦
◆日ノ丸家電産業の苦戦とサムソン電子の研究陣容の急拡大◆
サムスン電子は韓国に本社を置くIT会社であるが、世界に翼を拡げた地球規模の大会社で、フォーチュン・グローバルの売上高ランキングでは世界20位となっている。コンピュータの
DRAM、フラッシュメモリーの生産では世界のトップを走っているが、最近では携帯電話での躍進がめざましく、この分野でも世界制覇を果たすものとみられている(下の写真は大阪城大手門。2012.11.13撮影)。

半導体の製造技術ではサムスン電子は1980年代より東芝と緊密な関係を結んでいて、東芝がサムスン電子に技術情報を供与していただけでなく、東芝の製造関係者がサムスン電子の工場で
製造や開発を指導していたことがある。ところが、1991年に日本のバブル経済が崩壊すると、こうしたサムスン電子の企業戦略は劇的な進展をみせ、日本のトップレベルのIT会社からの日本人
頭脳輸入策に転化しはじめた。バブル崩壊の後、日本では「失われた10年」が始まり、IT産業は苦境に陥ってしまい、半導体事業では事業の縮小や撤退をする会社が続出した。この
ため1990年代には人材の余剰が生じたが、この隙を突いてサムスン電子は、三洋電機、シャープ、パナソニック、NEC、ソニーなどにターゲットを絞って、超高給を支払って日本人技術者を雇い
入れ、このヘッドハンティングを通じて先端技術を取り込んでいったのである。当時、サムスン電子で技術指導を行っていたトップレベルの日本人技術者は100人を超えるといわれている。
2000年代になると、サムスン電子は半導体だけでなく、薄型テレビ、携帯電話、白物家電、通信・AV事業でも躍進をつづけ、世界最大の総合電機メーカーにのし上がっていった。他方で、サム
スン電子のこの勢いに圧される形で、日本の家電産業はにわかに業績が傾きはじめ、競争力を落としている。まず最初につまずいたのは三洋電機であったが、その輪は拡がり、いまではシャー
プ、パナソニック、NEC、ソニーなど、苦境にあえいでいない日ノ丸家電会社はない。

これらの日ノ丸家電会社では、この苦境を乗り越えるために、思い切ったリストラに手を着けはじめている。シャープ、パナソニック、NEC、ソニーでは、いくつかの工場を閉鎖する一方で、それぞれ
が万に達する従業員を解雇しようとしていると、メディアは報じている。このリストラの大波を受け、会社を辞める日ノ丸家電会社の従業員はいったいどこで働くのか。これはたしかに大問題である。
しかし、見落としてはならないことは、その新しい職場の1つがサムスン電子だ、ということである(左の写真は大阪城の乾(いぬい)櫓。2012.11.13撮影)。
サムソン電子は、日本において研究所を2つもっている。1つは潟Tムソン横浜研究所(横浜市鶴見区)であり、もう1つは大阪研究所(箕面市箕面船場センタービル)である。そのいずれにおいて
も最近ではスタッフが急増しているといわれているから、研究開発陣容が急肥大していることは間違いないことである。研究開発態勢の整備は次世代の競争優位に直結するから、サムスン電子
はさらに発展の歩みをつづけることになる。これに対して日ノ丸家電会社はどうであろうか。従業員は去り、社内は空洞化するが、問題は会社が縮小することばかりではない。これまで苦労に苦
労を重ねて蓄積してきた日ノ丸家電の技術が、外国企業に渡ってしまうのである。技術で生きる日本企業が外国企業に技術を渡してしまうと、日本企業は再起しようにも、再起できなくなってし
まう。日ノ丸家電が直面しているのは、まさに日本の危機である。
◆会計数値の怪:アノマリー◆
世の中にはヘンテコな現象が多数あるが、会計学とか財務論の世界にも理屈では説明がつかない不可思議な現象がある。「アノマリー」
(anomaly)と呼ばれている怪現象がそれにあたる。"anomaly"を辞書でみると「不可解、異例、不規則」といった日本語が出てくるが、どれもしっくりこないので、カタ
カナを使うのがわが国の慣行になっている。
会社が会計数値を公表すると、投資者がそれを読んで決断(意思決定)を行い、株式の売買をする。投資者が株式を売買すると株価が上下するが、その
株価の動き方は会計数値がよいときには(売り手よりも買い手の方が多いので)高くなり、会計数値がわるいときには(買い手よりも売り手の方が多いので)低く
なるのがふつうである。これは、よい会計数値(グッドニュース)は株価上昇を、わるい会計数値(バッドニュース)は株価下落をもたらすことを意味している。しか
し、実際の株価はなかなかこのような動きをしない。
証券の売買に先だって会計数値を細かく検討することをファンダメンタル分析(fundamental analysis)といっている。このファンダメンタル分析の狙
いは、将来に値上がりする株式(現在は過小に評価されている株式)がどれなのか、将来に値下がりする株式(現在は過大に評価されている株式)がどれなのかを
見分けることにあるから、現在の会計数値と将来の株価との関係がどうなっているか、二つのつながり方を究明することにそのポイントがあるといえる。この
ファンダメンタル分析に関連して、多数のアノマリーがあることが分かっていて、なぜそうしたアノマリーが存在するのかが学者の悩みの種になっている。会計学に関連
する最も歴史の古いアノマリーがpost-earnings-announcement drift :PEADである。

PEADというのは、「利益数値の公表後における株価の漂い(drift)」がその直訳にあたる。利益数値を公表しても株価がすぐに反応せず、フラフラと空中に浮いている
ようにみえることから、この名称が付けられたらしい。理論的には株価がフラフラと漂うことはありえないから、アノマリーだとされているのである
(右の写真は大阪城外堀の石垣。2012.11.13撮影)。
会計数値は四半期ごとに市場に公表されているが、その会計数値に対する株価の反応の仕方を時を追って追跡してみると、株価の反応は会計数値の公表に
即応しておらず、かなり遅行する傾向がはっきりと示されている。グッドニュースの場合でもバッドニュースの場合でも、会計数値の情報内容に対する市場の評価は一般
に控え目(過小)であり、市場がすべての情報内容を株価に織り込んでしまうまでに、(1年決算換算で)90日程度もの日数がかかってしまうことが明らかにされている。
株価が会計数値の公表に即応するのであれば、よい会計数値が公表されたからといって、その株式の買に走っても利得がえられることはない。よい会計数値の公表後
には株価はすでに上昇済みになっているはずであるから、利得をえるためには、よい会計数値の公表に先回りして株式を買っておかなけらればならない。しかし、これは
理論上の空絵事にすぎないとして、公表された会計数値を見てから動く投資者が多い。実際にはPEADが存在するから、利益数値の公表後になってから証券会社に走
って株式を買っても、まだ利得がえられるチャンスが残されているのである。
金融論においては、効率的な市場においては情報は瞬時に、偏りなく伝播し、すぐさますべての情報が株価に織り込まれてしまうと想定されている。この想定にもとづくと、
会計数値が公表された後になって、株価がフラフラと空中を遊泳するといったアノマリーは絶対に発生するはずのない珍現象である。しかし、それにもかかわらず、現実
には間違いなくアノマリーが存在する。そこで、理論と実際との食違いをもっともらしく説明するというツジツマアワセが必要になってくる。アノマリーの説明理論が多数出て
くるわけである。

PEADが存在するというのは、統計処理の間違いによるもので、研究者のミスに原因があるというという学説もないわけではない。しかし、理論的にはありえない珍
現象が発生するのは、投資者における会計数値の解釈の仕方に問題があるという見方が最も有力である。投資者が会計数値を知覚するプロセスに異常があって、
投資者の認知異常(misperception)によってアノマリーが引き起こされるというのである。この認知異常説によると、アノマリーの責めは投資者だけに帰せられてしまうが、会計
数値を作成する会社側にも原因があるとか、また会計数値を利用する他の投資者の妨害行動にも原因の可能性があるといった見解もないわけではない。これらの対立する
いくつかの見解を示しておこう(上の写真は大阪城大手門。2012.11.13撮影)。
PEADが発生する原因を投資者における情報解釈に求めるのが、最も一般的な考え方である。投資者における会計情報の認知行動は理論モデルとは異なっていて、この特
異な認知によってアノマリーが発生しているとみるのである。次がその例である。
・会計数値が正しく理解できておらず、たとえば季節変動といった要因を正しく織り込んでいない。
・会計数値を解釈するのに時間がかかっており、何度も読み返さないと、正しい理解には達しえない。
・会計数値を自力では解釈できない投資者がおり、証券アナリストなどの支援を受けてからでないと、その意味が理解できない。
・会計数値の解釈にあたり他の投資者の解釈を参考にする傾向があり、多数の他の投資者の出方を見てからでないと、自己の最終的な判断を決められない(下の写真は造幣局前の大川河畔の桜。2012.11.13撮影)。

PEADが発生するのは、会計数値を作成する会社の経営者が真実の情報を開示しないからだという見方がある。
・公表される会計数値は真実なものとは限られないから、疑いを抱く投資者においては真実のものであるかどうかを見極める必要があり、この見極めに時間がかかる。
・公表される会計数値は「わざと解りにくく」作成されている可能性があるから、投資者が会計数値の真の意味を汲み取るには時間が必要とされる。
投資者は専門知識を備えたエキスパートばかりではない。会計数値を正しく読めない投資者も少なくない。
・市場には会計数値に無知なのに、会計数値に精通しているかのように装い、会計数値の公表後に大騒ぎをする「ノイジィ・トレーダ」(noisy trader)が多数いる。これらの
ノイジィ・トレーダが市場を「掻きまわす」ために、真実の会計数値が伝わらない。
・会計数値の意味を誤解して、誤った二次情報を市場に拡散させる証券アナリストがいる。
参考文献
Lewellen, Jonathan, "Accounting Anomalies and Fundamental Analysis: An Altenative View," Journal of Accounting and Economics, Vol. 50 (2010), pp.455-466.
◆シンジケート・ローンの拡大と財務制限条項の変容◆
シンジケート・ローン(syndicate loan)というのは多数の銀行が集団を形成して、1つの会社に資金を融資する大口の金融取引である。貸し手側の銀行集団はアレンジャーの幹事銀行によって統括
されており、貸付取引の交渉がアレンジャーによって一括して取りまとめられるだけでなく、貸付後の債権管理も貸付資金の回収もすべてアレンジャーの指揮の下で一元的に行われる。窓口が1本化され
るために借り手にとっても貸し手にとっても取引コストが大幅に削減されるが、融資額が多数口に細分されることから貸し手のリスクが分散されという大きなメリットも生じる。

シンジケート・ローンは規模の大きい金融取引であるから、借り手の会社側においては、借入資金は社債の償還、設備投資など、長期目的で計画されるケースが多い。貸付期間が短期になっている
場合でも、数年ごとのロール・オーバー(借り継ぎ)が予定されていて、実質的には長期の融資となっているのふつうである。このため、融資先の選別、融資後の債権管理は貸し手の銀行にとってき
わめて重要な課題であり、最先端の金融ノウハウが活用される(右の写真は神戸大学六甲台図書館前の銀杏。2012.11.20撮影)。
社債は公開市場に向けて発行されるから、その貸付契約の内容は画一的で、ばらつきが少ない。これに対してシンジケート・ローンは非公開市場(私的市場)における貸付取引であるから、市場原理
が働くとはいえ、貸付契約の内容はまちまちとなりやすい。貸出条件は借り手の会社と貸し手の銀行集団(アレンジャーが代表する)との間の対面交渉によって決められれるから、案件ごとに契約の内容が異なっ
てくるのである。
貸出条件が案件ごとに異なってくる主因は、借り手の返済能力が会社ごとに違うからである。融資を求める借り手において、潤沢な資金が金庫に眠っているようなことはありえない。融資を受けようとするのは
資金不足があるからであり、資金が足りない借り手においてその返済能力が100%確実だということは考えられない。借り手の会社には多かれ少なかれリスク――デフォルト・リスク――が存在する。そこで、貸し
手の銀行は貸付前にこのデフォルト・リスクを正確に見積り、そのリスクの大きさを貸付条件に反映させようとする。リスクの高い借り手には高い金利を要求し、リスクの低い借り手には金利の引下げを
試みるわけである。そのほか、リスクの高い借り手には、融資の金額を抑えたり、担保の提供を求めたりしなければならない(万一の焦げ付きの場合に、融資の金額を小さくしておくと被害が少なくなるし、
担保を付けておくと担保の競売によって債権の一部を回収できる)。
貸し手が借り手に融資した後、成行き任せにしておくと焦げ付きが発生する。そこで、貸し手は融資の後、借り手の経営を見張っておいて、借り手が目に余る経営をしている場合には経営
に口出しをするのがふつうである。借り手を見張ることはモニタリング(monitoring)といわれるし、借り手の経営への口出しは一種の経営介入であり、極端な場合には経営権の取り上げ――コントロール権
の委譲(control transfer)――となることもある。
貸し手が借り手の経営を見張るにしても、貸し手が借り手の経営に口出しをするにしても、借り手の経営が揺らぎだしてから慌てて手を着けるようでは、間に合わない。そこで一般には貸付契約を締結する時に、
これらの段取りも契約条項に書き込んでおいて、将来に争いが生じないように事前に対策を講じておく。定期的に会計報告をするように借り手に求めるだけでなく、会計数値を一定の制限値より悪くしないといっ
た誓約事項を書き抜き、サインと印鑑によってその義務の履行を確約させるのである。借り手の行動を縛るこの誓約文書を財務制限条項(covenant)と呼んでいる。

シンジケート・ローンではアレンジャーが財務制限条項をデザインし、融資後にその遵守状況を監視するが、背後には口うるさいシンジケート団の銀行群が控えているのだから、財務制限条項のデザインも遵守
状況の監視も手の込んだものになりがちである。知恵を絞りに絞って契約内容に工夫が凝らされるし、時代の変化に即応して改良が加えられる。特に最近では、変化が激しい
(左の写真は神戸大学六甲台キャンパス、図書館下の車道のもみじ。2012.11.20撮影)。
財務制限条項にはいろいろなタイプのものがあるので、実際には多数のものを組み合わせて、「財務制限条項パッケージ」(covenant packeage)として約定される。この財務制限条項パッケージを構成する
個々の財務制限条項は、そのタイプによって次のように分類されるのがふつうである。
●借り手の行動に対する束縛の仕方による分類
肯定的財務制限条項(affirmative covenant):借り手に対して「ああしてほしい」、「こうしてほしい」と、特定行動に選択を積極的に指示する条項をいう。
否定的財務制限条項(negative covenant):借り手に対して「ああしないでほしい」、「こうしないでほしい」と、特定行動の選択を消極的に抑止する条項をいう。
●使用する会計数値の違いによる分類
資本的財務制限条項(capital covenat):貸借対照表の数値にもとづいて、資本の源泉と使途について制約を設ける条項をいう。
業績水準財務制限条項(performance covenant):損益計算書の数値にもとづいて、一定水準以上の業績の達成を求める条項をいう。
これらのいろいろのタイプの財務制限条項の中で、最近になって顕著に増加してきているのが業績水準財務制限条項だといわれている。会計利益(利益率)によって達成目標水準を定めておき、
それを下回ることがないように、借り手の会社の経営者を鼓舞するのである。この傾向は、貸付取引において、借り手の業績に連動させて金利を変動させる契約方式――業績連動型貸付取引(performace
pricing)――の興隆と軌を一にするものであり、注目に値することといえよう。
最近におけるもうひとつの重要な変化は、業績水準財務制限条項の使い方である。従来においては業績水準財務制限条項は、資本的財務制限条項と同様に、一定水準の会計数値を基準値に指定
し、それを上回ったり下回ったりすることのないように、財務制限条項で縛り付けるだけというのが主流であった。そして、この制限条項の縛りに違反すると、すぐに再交渉(renigotiation)のステップにす
すみ、あたかも経営破綻が生じたかのように、債務免除などの再建策を協議することになっていたのである。ところが最近では、財務制限条項へ抵触した場合の処理に、微妙な変化が観察されるという。
業績水準財務制限条項を締結している場合において、もし条項違反が発生するすると、その条項違反の内容に即応して事前に定めた貸し手の対応策が発動される。その場合の貸し手の対応策という
のはそのほとんどが借り手の経営に介入することを意味するから、コントロール権の委譲(control transfer)になるというのである。この点で、業績水準財務制限条項はコントロール権の委譲に結び付けら
れて運用されており、業績水準財務制限条項はコントロール権の委譲の「仕掛け縄」(strip wire)になっていると指摘されている。
《参考文献》
Christensen, Hans B., and Valei V. Nikolaev,"Capital Versus Performance Covenants in Debt Contracts," Journal of Accounting Research, Vol.50 No.1 (March 2012), pp.75-116.
◆銃と免疫力◆
コロンブスの船隊が大西洋を横断し、西インド諸島に到達してから、ヨーロッパの船隊はくりかえしアメリカ大陸を蹂躙し、莫大な富をヨーロッパに持ち帰った。
その代わりとして西洋から大陸側に持ち込まれたものも多数あったが、アメリカ大陸の原住民に特に「恐ろしい」とされたのが鉄砲であった。当時のアメリカ・
インデアンは鉄器を知らない民族であったから、農業、漁業、狩猟などの営みではすべて木材、石材などで造られた簡素な用具が利用されていた。その素朴な社会に突如と
して銃が持ち込まれたのだから、アメリカ大陸の原住民はその生活を根底から覆されてしまった。略奪目的に銃が利用されただけではなく、原住民の統治にも銃が使われたため
に、原住民の生活は壊滅的な打撃を受け、絶滅の危機に瀕した部族も少なくなかった。金銀などの奢侈品ならともかく、土地や備蓄食料まで奪われた結果として、
生活の基礎が崩れてしまったのである(下の写真は神戸大学六甲台、本館前の庭園で。2012.11.20撮影)。

日本の種子島に鉄砲が伝来したのは1543年のことであるが、アメリカ大陸には鉄砲が持ち込まれたのはそれより半世紀も前のことであり、日本のケースとは比
較にならないほど悲惨なやり方で銃の惨禍が拡がっていた。当時の日本でも銃は戦争の武器としてすぐに普及したが、他民族によって日本の住民が銃で
虐殺されたり、その居住地を追い払われるようなことはなかった。ところがアメリカ大陸の原住民は、白人が持ち込んだ銃によって部族が撃滅され、その生活の地
を追い出されたのである。
西部劇の映画には馬上で銃を巧みに操るインデアンの勇士がよく出てくるが、もしそいう情景が本当にあったとすれば、それはコロンブスのアメリカ大陸発見の
100年も200年も後のことである。アメリカ・インデアンはもともと銃も馬も持っていなかったから、侵略者と戦うには弓矢や棒切れを頼りにするほかはなかったので
ある。銃がなかったというのはアメリカ・インデアンにとって決定的な弱点であったが、もう1つの弱みは細菌にたいする抵抗力が欠けていたことである。
当時のアメリカ大陸の原住民には伝染性の疫病を患った経験がなく、病原菌に対してまったくクリーンであった。そのアメリカ大陸に上陸してきたヨーロッパの船隊
の乗組員たちは、その多くが病原菌に汚染されており、ダーティなひとびとが多かった。ヨーロッパから持ち込まれた病原菌は免疫力をもたない原住民にたちまちのう
ちに感染し、重篤な病気を次々に発症させていった。病気は原住民の間に急速に伝染し、民族の存続を危うくするまでに拡大した。外国人の入植地において新種の感染症の伝染に
よって壊滅的打撃を受けた部族は少なくなく、インカ帝国のように、王国そのものが壊滅してしまった例さえある。それなのに、アメリカ大陸を侵略した外国人は免疫
力をもっていたから、自分たちは伝染病に耐え抜いて、その居住地域を拡大しつづけたのである。
当時のアメリカ大陸の原住民に疫病を患った経験があったなら、免疫力が培われていたであろうから、病原菌をもった外国人が侵入してきても、これほどの壊滅的
な打撃は受けずにすんだにちがいない。しかし、アメリカ大陸は太平洋と大西洋に隔てられた「孤島」であり、コロンブスの船隊が来るまで、免疫力を養うチャンスは
まったくなかった。病原菌のないアメリカ大陸はあまりにも清潔すぎたために、未曾有の悲惨な体験をすることになったのである。

日本はアジアの東端にあって、日本海、黄海によって大陸から切り離されているが、1日で黄砂が飛び渡れるほどの至近距離にあるし、古来より大陸との人的交流も
決して少なかったわけではない。このためもあって、日本では病原菌に対する免疫力は多少は養われていたのではなかったかと思う。江戸末期にコレラの大流行の
例はあるが、民族が撃滅の危機に瀕するほどの感染症の大流行はなかったように思われる。ヨーロッパの銃と免疫力の攻撃にさらされた点ではアメリカ大陸も日本列島も
同じであるが、そのインパクトの受け方には大きな違いがあったのである(右の写真は六甲台出光講堂前にて。2012.11.20撮影)。
《参考文献》
Shared Diamond, Guns, Germs, and Steel: The Fate of Human Societies(Norton & Company,1997),シャレドダイアモンド著・倉骨彰訳、『銃・病原菌・鉄(上・下)』(草思社文庫,2012年).
◆多重代表訴訟制度◆
会社の役員(取締役、監査役など)が会社の利害に沿ってその業務執行を忠実に行わず、会社に財産上の損害を与えた場合には、その役員は会社に対して
損害を賠償する責任を負っている。しかし、会社の役員は会社を代表者になっていることが多く、会社が役員の賠償責任を追及し、損害賠償を請求するようなこと
は期待できない。そこで、株主代表訴訟制度では、役員に対する損害賠償請求訴訟を提起する権利を株主に認め、株主が会社に成り代わって、役員に損害
填補を求める(いわゆる代位請求する)ことができるとしている(会社法第847条1項)。

代表訴訟制度において、株主が填補を請求できるのは会社の損害であって、株主個人の損害ではない。このため、裁判によって役員の損害賠償責任が確定した場
合には、賠償金の支払いは損害を発生させた役員から(株主に対してではなく)会社に対して行われる。
さて、親会社と子会社とで企業集団を形成している場合において、子会社の役員が子会社に損害を発生させたとすれば、その損害は持分関係を通じて親会社に移
転し、さらには親会社の株主に影響が波及することになる。この情況において代表訴訟制度を通じて子会社の役員の責任を追及するとしても、親会社の株主は
子会社の役員と直接の関係をもっていない。そこで、親会社の役員をターゲットに定め、その責任追及を行うほかはない。現行の代表訴訟制度を通じて子会社役員
が引き起こした損害の賠償を求めるとすれば、株主は親会社の役員に対して責任追及の訴えを起こし、親会社の役員が子会社の役員の監督を怠ったために子会社
に損害が発生し、このために親会社が損害を被ったことを立証しなければならない。この立証は多段階であり、かなり困難な作業だといわれている。

仮に子会社の役員の賠償責任が裁判で確定したとしても、この場合における賠償金の支払いは、賠償責任を負った親会社の役員から親会社に対して行われること
になるであろうから、子会社の役員の賠償責任と子会社の損害がどうなるかははっきりしない。
いま会社法の改正で問題とされている多重代表訴訟制度では、これらのあいまいな点が法制度で固められるという。多重代表訴訟制度では、親会社の株主が子会
社の役員に対して直接に損害賠償の責任を追及することができる。このため、もし子会社役員の損害賠償責任が確定すると、子会社の役員は子会社に対
して賠償金を支払う。この賠償金の支払いは持分関係を通じて親会社の財政状態に反映されるから、最終的には親会社の株主も、その恩恵に浴することにな
る。
◆本2012年は神戸高商創立110周年(再)◆
明治初年における高等教育の柱は法律学であり、帝国大学の法学部などを通じて、法律学教育を通じて立法、行政のエリートが養成されてきました。日本を統治する法律家と官吏が絶対的に不足して
いたために、西洋諸国の学問を取り入れながら、日本という近代国家の形を早急に整える必要があったわけです。このため、日本におけるビジネス教育の立上げは遅れ気味となり、
金融、工業、商業、貿易などのビジネス界ではリーダー不在のまま、日本経済の近代化がすすめられていきました。日清戦争のころまで、東京でも大阪でも、江戸時代の「町人ビジネス」がそのままつづけ
られていたのです。
明治08(1875)年には森有札(もりありのり)が東京尾張町の鯛味噌屋の2階に、東京商法講習所を開設し、これが官立ビジネス教育の1つの核となりました。この東京商法
講習所は明治17(1884)年に東京商業学校と改称されていましたが、明治18(1885)年には東京外国語学校付属高等商業学校と合併し、文部省所管の官立東京商業学校として再
生されることになりました。日本で初めてビジネスのエリート教育を担う「東京高等商業学校」(この名称に正式に改称したのは明治20(1887)年)が誕生したわけです。この東京高等
商業学校はその後発展をつづけ、現在では一橋大学として日本のビジネス教育をリードしています(右の花はDowntown SeattleのDenny Parkに咲いていたもの。2012.07.28に撮影)。

明治20年代の後半になると東京高等商業学校の基礎が固まり、その卒業生たちが実業界で腕を振るいはじめます。これにともない、関西にも高等商業学校を創設しようとする動きが盛り上が
ってきました。東京高等商業学校をモデルにして、第二の高等商業学校を関西にも創ろうとしたのです。関西に高等商業学校を創るとすれば、その地は大阪、それも中之島付近でなければ
ならない。当時の中之島は米取引をはじめとするモノの売買の中心地であるばかりでなく、資金の貸借、為替など、日本の金融センターだったのです。だれもが考えたのは、第二の高等商業学校は大
阪中之島に設立するというプランでした。
第二の高等商業学校を関西に設立するという考えには、もうひとつのアイディアがありました。当時の神戸はまだ開発途上でありましたから、人口も疎らな新興都市で、江戸風のビジネス・スタイル、古来の難波の商法も
受け継いでいませんでした。しかし、神戸は四国、中国、九州との交易の要所であり、交通も発達していました。神戸港(和田岬)を母港にする東京・横浜との海上交通も外国との交易も盛隆していましたし、
関西最初の鉄道も神戸―大阪間に敷設されていたのです。こうした事情から、第二の高等商業学校は「新しい街、神戸へ」という声が高まっていたのです。
第二の高等商業学校を関西に設立するという案はすぐに本決りになりましたが、その開校地を大阪にするか神戸にするかは紛糾しつづけ、結局のところ、地元では決着できないという状況になってしまいました。
第二の高等商業学校は官立で、文部省の所管になりますので、最終決定は帝国議会の判断に委ねるほかはありません。こうして帝国議会で票決された結果は大阪が70票、神戸が71票であり、1票差で神戸に開校
することが決定されました。これを受け、明治35(1902)年3月には「神戸高等商業学校」を「神戸市葺合町筒井村籠池」に開校すると正式に告示され、翌明治36(1903)年に水島銕也がその初代校長に発令さ
れ、5月15日より講義が始まりました。
本年2012年は、神戸高商創立110周年にあたります。開校記念日(神戸大学創立記念日)の5月15には、その記念式典が神戸ポートアイランドで開催されました。現在の神戸大学には工学部、医学部など
理科系の学部が多数含まれており、その起源が不明確になっていますが、神戸大学のルーツは神戸高商なのです。

神戸高商はその後全力疾走を始め、日本のビジネス教育を代表する高等教育機関として発展していきます。その110年の発展がいかに輝かしいものであったかに、ここで立ち入る余裕はありませんが、
第二次世界大戦前において、神戸高商がビジネス教育のモデルになっていたことだけはまちがいのない事実です。東京高商を第1高商、神戸高商を第2高商として、その後日本全国に次々と官立の高商
と私立の高商が開校されていくことになりましたが、そのカリキュラムのモデルを提供したのは神戸高商だったのです。高商の設立経過は次のようです(このほか外地にも高商が開校されており、京城、大連、台北にあったといわれています)。
《官立の高商》
3.明治38(1905)年 山口高等商業学校
4.明治38(1905)年 長崎高等商業学校
5.明治43(1910)年 小樽高等商業学校
6.大正09(1920)年 名古屋高等商業学校
7.大正10(1921)年 福島高等商業学校
8.大正10(1921)年 大分高等商業学校
9.大正11(1922)年 彦根高等商業学校
10.大正11(1922)年 和歌山高等商業学校
11.大正12(1923)年 横浜高等商業学校
12.大正12(1923)年 高松高等商業学校
13.大正13(1924)年 高岡高等商業学校
《私立の高商》
大正03(1914)年 高千穂高等商業学校
大正08(1919)年 大倉高等商業学校
大正12(1923)年 松山高等商業学校
昭和06(1931)年 同志社高等商業学校
昭和07(1932)年 鹿児島高等商業学校
昭和09(1934)年 福岡高等商業学校
◆「経営者による予測利益情報開示」の弾力化(再)◆
決算短信における経営者の利益予測情報が強制開示から任意開示に変更された。
証券取引所に株式を上場している会社は、有価証券報告書を公開することが金融商品取引法によって強制されている。この法定開示はフォーマルのもので、内容も詳細であるが、
大掛かりにすぎて適時性に欠けるきらいがある。このため、わが国では証券取引所の適時開示ルールにもとづいて、「決算短信」という補助的で概略的な開示制度が設けられおり、
決算短信では、概略的な決算速報値が公表される。

決算短信は上場会社が最も早く公開する速報の財務データであることから、証券市場関係者やマスメディアでは投資判断上最も有益な情報だとして重宝されているが、次期の経営業
績の予測値が公表される点からしても、その重要性はきわめて高いと評価されきたものである。アメリカなど外国においては過去の実績の報告と将来の業績の予測とは明確に切り分けられており、
過去の経営業績を公表するのは経営者の仕事、その会社の次期の経営業績を予測するのは証券アナリストの仕事だとされている。日本ではこれらの2つの仕事が1本に束ねられ、過去
の業績報告と将来の業績予測がその会社の経営者の手に委ねられてきたわけである。
上場会社では決算発表をする際に、過去の実績に加えて、次期の利益数値についても予測値を発表するが、将来について予想通りに事態が進展するのは稀なことだから、予測値は
途中で狂ってくる。この予想のハズレは微細であれば放置してもよいことになっているが、当初の予測値から大幅に乖離した場合には、「業績予想の修正」を行うことが要求される。売上高は
10%以上、営業利益・経常利益・当期純利益は30%以上の狂いが生じた場合には、取引所に届け出るほかに、記者会見を開いて予測値を訂正しなければならないというのが、その修正ル
ールの基本である。
当初の予測値を上方に修正するのであれば、市場からは歓迎されるから、経営者にとって「業績予想の修正」は苦になることではない。しかし、下方修正の発表は市場に負のインパクトを与
え、株価も押し下げることになるから、経営者にとって下方修正の発表は苦痛の種となる。現在のように景気がわるいと、下方修正を1期に何回もしなければならないから、経営者は重い気持ちで
兜町のプレスルームに何度も足を運ぶことになる。決算短信の業績予想公表制度は、経営者の間では評判がよくない。

アメリカなど外国においては次期予測利益の公表は経営者の担当事項ではなく、証券アナリストの担当事項になっているが、これには相応の理由がないわけではない。経営者の予測利益数値を
信じて株式を買った投資家が、予測利益の狂いによって損害をこうむった場合には、経営者に損害賠償を要求してくる可能性があるからである。特に訴訟社会のアメリカではこの傾向が顕著で
あり、経営者に予測利益を公表させることは経営者に大きなリスク負担を強いることになる。
これらの事情を考慮して、今般日本においても業績予想の公表は非強制となり、やりたい経営者はやってもよいが、やりたくない経営者はやらなくてもよいというルールに変わった。なお、この制度変更の
うわべの理由は、経営者がいやがるとということでははい。複雑になりすぎたディスクロージャー制度を簡素化するというのが表向きの説明であり、会社側の過大な負担を軽減するという点が強調されている。
◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定◆
アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう4年間の
開催予定は、次のように発表されています。
□ August 3-7,2013 Anaheim, California
□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia
□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois
◆次回の更新◆
次回の更新は2013年2月を予定しています。もうすぐ慌ただしい暮れを迎えることになりますが、その先にはすがすがしい新春が待っています。この冬は荒れ模様の天気が多いと
予測されており、温度が下がる日が多いのではないかと思われます。晩秋から早春の日々をご壮健にて、お暮らしください。ごきげんよう、さようなら。
2012.11.22
OBENET
代表 岡部 孝好

|