A Message from Webmaster

 to New Version(August 10, 2012)




2012年08月版へのメッセージ


OBE Accounting Research Lab



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◆アメリカ、ワシントン州、コロンビア大草原の旅◆

  北アメリカの太平洋岸にはカリフォールニア、オレゴン、ワシントンの3州が並んでいるが、最北のワシントン州の首都はシアトル(Seattle)である。このシアトルのタコマ (Tacoma)空港を旅客機が飛び立つとすぐ、雲海の上ににょきっと突き出ている高山を目にすることになる。ワシントン大学(University of Washington: UW)のローズ ・ガーデンで記念撮影をするとき、だれもが写真の背景に入れたがる、日本の富士山に似たかっこいいあの山がこのレイニヤー山(Mt. Rainier 4,392m)である。真夏に もかかわらず4合目から上は雪化粧であり、上空から見ても、そのしなやかな姿はなるほど美しい。このレイニヤー山の右を大きく回り込んで、真東に向けて1時間半ほ ど飛ぶと、旅客機は下降をはじめ、ワシントン州第二の都市、Spokane(スポケーン)に着陸する。2012年7月25日に、この水の都Spokaneに降り立ち、川沿いのホテル のテラスでまず生ビールCoorsを咽に流し込んで、渇きを癒すことになった。Taipei、Vancouver、Seattleを経由したので、ここSpokaneまで来るのに2日もかかった 計算になる(上の写真はSpokane River。向こう岸左端の片屋根の家が大人気のグリルと聞いたが、2回とも満席で、チャレンジは次回廻しとなった。宿所の Fairfield Inn and Suites Spokane Downtownから2012.07.26に撮影)

  お茶を運ぶ「盆」というのは円い板に浅い縁を付けたようなものだから、日本語で「盆地」というと、丘陵に囲まれただだっ広い原っぱを連想しがちである。しかし、英語 でいう「盆地」は「鉢(basin)」であり、まさにドンブリ鉢のような深い窪地が、険しい高山に囲まれていることを意味する。シアトル東部に拡がる「コロンビア盆地」(Columbia Basin) は2つの峻嶮な大山脈に挟まれているが、西側のカスケード山脈(Cascade Range)にはレイニヤー山など、4,000-5,000m級の峰々が連なっているし、東側にはロッキー山脈 (Rocky Mts.)が屏風のようにそそりたっている。二つ大山脈に挟まれた窪地が「コロンビア大草原(Columbia Plateau)」と呼ばれている平野であるが、直径は600-800kmは ありそうだから、東西に渡るとすれば、東京・大阪間くらいの旅をすることになる。カスケード山脈とロッキー山脈(および北と南の高地)から走り下る雪解け水はコロンビア大 草原で蛇行に蛇行を重ねて、最終的には「コロンビア川(Columbia River)」に束ねられ、オレゴン州のポートランドから太平洋に注ぐことになる。コロンビア川上流の多数の支 流では、真夏でも冷たく澄んだ膨大な量の水がとうとうと流れ下っているが、不思議なことにコロンビア大草原は乾ききった砂漠であり、緑をなしているのは人工的に灌水されてい る牧草地、畑地、果樹園だけである。

  東のロッキー山地から西に流れるSpokane Riverは市街の真中を貫いているが、幅広い川には水が満々とたたえられており、大滝、水車場(製粉工場)跡あたりでは、 遊園地、ローズ・ガーデン、レストランなどが客を集めて、賑わっている。両岸には細い歩行者道・自転車道が延々とつづいていて、川を跨ぐ歩行者専用橋(foot bridge)は 風通しがよく、夕涼みの格好の場所になっている。東部のUniversity Districtには大学、研究所が集積されているというので、いくつかの大学の中を歩いてみたが、夏休み で学生の姿は消えていたものの、キャンパスとか建物はなかなか立派なものという印象でした(左の写真はSpokane River。Spokane のWaterfront Parkにて2012.07.26に撮影)

  Spokaneはシアトル―シカゴ―NYを結ぶ大昔のGreat Northern鉄道の中継駅の1つである。いまも同じ軌道の上をAMTRAKの列車が走っているが、客車は夜中にしかSpokaneに 停まらないというので、代替の長距離バスに乗って、SpokaneからWenatchee(ワナチー、「チー」にアクセントがある)への旅をすることになった。東側からコロンビア大草原を 横断し、カスケード山脈を越える計画である。90号線を西に向かってふっ飛ばすこのバス・ドライブは豪快な旅であるが、風景はやや単調で、行けども行けども牧草地とトウモロコシ 畑という感じであった(右の写真は延々とつづくコロンビア大草原の風景の1コマ。AMTRAK(bus)の車窓から2012.07.27に撮影)

  4時間のドライブの末にWenatcheeに着いてみると、眼下に横たわる大河(たぶんはWenatchee Reverで、Columbia Riverの支流)は流れが逆方向であり、 西から東に向けて勢いよく走り下っている。ダムと発電所も見える。向こう岸は大規模な果樹園が緑の帯をなしているが、その上は禿山の上に禿山という感じで、樹木らしいものは見あ たらない。このスペクタクルな光景もまた北米にしかない壮大なもので、しばし見惚れてしまう(下の写真はThe Coast Wenatchee Center HotelからみたWenatchee Riverの対岸。2012.07.27に撮影)

  翌日の旅も西向きのバス・ドライブとなったが、こんどはWenatchee からSeattleへ向けての山越えである。90号線に乗って針葉樹林の間を駆け登ると、カスケードの深い山中に入り 込むが、湖沼、渓流、巨岩、苔山・・・・と、めまぐるしく車窓の外が変化して、とても居眠りどころではない。ヘヤピン・カーブに橋また橋、昇っては下り、昇っては下りという感じで、峰 と峰の間の深い渓谷を猛スピードで抜けていく。樹林の陰になんども雪渓を見たから、峠を越えたあたりでは、海抜3,000mくらいまで登っていたのではないかと思う。こんな難路をこ んな高速で走って大丈夫かなと心配していたところ、案の定、太平洋側の麓まで降りたところで、ガクンとバスが停って、動かなくなった。ドライバーと20人ほどの乗客とがワイワイ騒い でいたが、修復不能なら基地に救援バスを要請するほかはないという結論になって、冷房の切れたバスの中で3時間あまりも待つハメになった。しかし、豪勢な楽しいバス旅行でした。

  アメリカ会計学会(AAA)の2012年の年次大会は、本年は首都ワシントンDCのポトマック川のほとりで8月4日から開催されることになっています。しかし、ことしの東部の夏は異常な暑さ で、日中は華氏100度を越えるとテレビは報じています。そこで、本年はAAAの年次大会への参加を断念して、Seattleでしばらく遊んでから、大阪に引き返すことにしました。Seattleは ちょうどSeafestivalの最中で賑やかでしたし、Pike Market Place近くレストランの魚料理も、また白ワインも、懐かしい昔の味のままでした(左の花はDowntown Seattle のDenny Parkに咲いていたもの。名称は不詳。2012.07.28に撮影)

◆本2012年は神戸高商創立110周年◆

  明治初年における高等教育の柱は法律学であり、帝国大学の法学部などを通じて、法律学教育を通じて立法、行政のエリートが養成されてきました。日本を統治する法律家と官吏が絶対的に不足して いたために、西洋諸国の学問を取り入れながら、日本という近代国家の形を早急に整える必要があったわけです。このため、日本におけるビジネス教育の立上げは遅れ気味となり、 金融、工業、商業、貿易などのビジネス界ではリーダー不在のまま、日本経済の近代化がすすめられていきました。日清戦争のころまで、東京でも大阪でも、江戸時代の「町人ビジネス」がそのままつづけ られていたのです。

  明治08(1875)年には森有札(もりありのり)が東京尾張町の鯛味噌屋の2階に、東京商法講習所を開設し、これが官立ビジネス教育の1つの核となりました。この東京商法 講習所は明治17(1884)年に東京商業学校と改称されていましたが、明治18(1885)年には東京外国語学校付属高等商業学校と合併し、文部省所管の官立東京商業学校として再 生されることになりました。日本で初めてビジネスのエリート教育を担う「東京高等商業学校」(この名称に正式に改称したのは明治20(1887)年)が誕生したわけです。この東京高等 商業学校はその後発展をつづけ、現在では一橋大学として日本のビジネス教育をリードしています(右の花はDowntown SeattleのDenny Parkに咲いていたもの。2012.07.28に撮影)

  明治20年代の後半になると東京高等商業学校の基礎が固まり、その卒業生たちが実業界で腕を振るいはじめます。これにともない、関西にも高等商業学校を創設しようとする動きが盛り上が ってきました。東京高等商業学校をモデルにして、第二の高等商業学校を関西にも創ろうとしたのです。関西に高等商業学校を創るとすれば、その地は大阪、それも中之島付近でなければ ならない。当時の中之島は米取引をはじめとするモノの売買の中心地であるばかりでなく、資金の貸借、為替など、日本の金融センターだったのです。だれもが考えたのは、第二の高等商業学校は大 阪中之島に設立するというプランでした。

  第二の高等商業学校を関西に設立するという考えには、もうひとつのアイディアがありました。当時の神戸はまだ開発途上でありましたから、人口も疎らな新興都市で、江戸風のビジネス・スタイル、古来の難波の商法も 受け継いでいませんでした。しかし、神戸は四国、中国、九州との交易の要所であり、交通も発達していました。神戸港(和田岬)を母港にする東京・横浜との海上交通も外国との交易も盛隆していましたし、 関西最初の鉄道も神戸―大阪間に敷設されていたのです。こうした事情から、第二の高等商業学校は「新しい街、神戸へ」という声が高まっていたのです。

  第二の高等商業学校を関西に設立するという案はすぐに本決りになりましたが、その開校地を大阪にするか神戸にするかは紛糾しつづけ、結局のところ、地元では決着できないという状況になってしまいました。 第二の高等商業学校は官立で、文部省の所管になりますので、最終決定は帝国議会の判断に委ねるほかはありません。こうして帝国議会で票決された結果は大阪が70票、神戸が71票であり、1票差で神戸に開校 することが決定されました。これを受け、明治35(1902)年3月には「神戸高等商業学校」を「神戸市葺合町筒井村籠池」に開校すると正式に告示され、翌明治36(1903)年に水島銕也がその初代校長に発令さ れ、5月15日より講義が始まりました。

  本年2012年は、神戸高商創立110周年にあたります。開校記念日(神戸大学創立記念日)の5月15には、その記念式典が神戸ポートアイランドで開催されました。現在の神戸大学には工学部、医学部など 理科系の学部が多数含まれており、その起源が不明確になっていますが、神戸大学のルーツは神戸高商なのです。

  神戸高商はその後全力疾走を始め、日本のビジネス教育を代表する高等教育機関として発展していきます。その110年の発展がいかに輝かしいものであったかに、ここで立ち入る余裕はありませんが、 第二次世界大戦前において、神戸高商がビジネス教育のモデルになっていたことだけはまちがいのない事実です。東京高商を第1高商、神戸高商を第2高商として、その後日本全国に次々と官立の高商 と私立の高商が開校されていくことになりましたが、そのカリキュラムのモデルを提供したのは神戸高商だったのです。高商の設立経過は次のようです(このほか外地にも高商が開校されており、京城、大連、台北にあったといわれています)。

     《官立の高商》

     3.明治38(1905)年 山口高等商業学校

     4.明治38(1905)年 長崎高等商業学校

     5.明治43(1910)年 小樽高等商業学校

     6.大正09(1920)年 名古屋高等商業学校

     7.大正10(1921)年 福島高等商業学校

     8.大正10(1921)年 大分高等商業学校

     9.大正11(1922)年 彦根高等商業学校

     10.大正11(1922)年 和歌山高等商業学校

     11.大正12(1923)年 横浜高等商業学校

     12.大正12(1923)年 高松高等商業学校

     13.大正13(1924)年 高岡高等商業学校

     

     《私立の高商》

     大正03(1914)年 高千穂高等商業学校

     大正08(1919)年 大倉高等商業学校

     大正12(1923)年 松山高等商業学校

     昭和06(1931)年 同志社高等商業学校

     昭和07(1932)年 鹿児島高等商業学校

     昭和09(1934)年 福岡高等商業学校

     

◆日本企業の技術防護策に大穴◆

  「モノづくり」で世界を制覇してきた日本企業が、その拠り所にしてきたのは「技術」です。追随を許さないハイレベルの技術力を保ってきたからこそ、 日本企業はグローバルな競争で勝ち抜いてこれたのです。それなのに、最近では韓国、中国などの外国企業に、技術で追い上げられ、技術で追い抜か れて、日本企業は負け組に回ろうとしています。その惨めな例が弱電気産業で、なかでも薄型テレビの生産では、ソニー、 日立、東芝、三菱をはじめとして、パナソニック、シャープも大苦戦に立ち至っており、いまや青息吐息です。ほんの数年前にパナソニックは尼 崎工場に、シャープは堺工場に巨額の資金を注ぎ込み、大々的に薄型テレビの生産を開始したところなのに、いまや製品が市場に溢れかえっていて、小売店の 店頭では「叩き売り」の状態に陥っているといいます。2012年3月末(2011年3月期)にはパナソニックは7,700億円、シャープは3,700億円 というとんでもない金額の赤字決算を発表していますが、その原因は、その大部分が薄型テレビの製造設備における減損処理によるものです。製造設 備はいまでも最新鋭で、ピカピカなままなのですが、薄型テレビを造るのはゴミを吐き出すような事業になっていて、製造設備は無価値になったと判断されたことの 哀れな結果です。

  日本の第一級のメーカーがこうして競争力を失ってしまったのは、いったいなぜなのでしょうか。その最も大きな理由としては、日本企業が培ってきた 大切な技術が韓国企業や中国企業に奪われたことがあげられます。韓国や中国のテレビメーカーは、日本の製造技術によって、日本の製造装置を使って、 超ローコストで薄型テレビを量産しているのです。日本人の苦労で創出された設備と技術が外国企業に取り込まれ、それを使って外国で造られた製品が日本に大量に 流れ込み、日本企業が打ちのめされているのです。

  韓国や中国の電気メーカーが最新鋭の製造装置を入手するのは、「モノ」を買う問題ですから、それほどむつかしいことではないと思われます。 汎用性のある組み立てラインはどこにでも売っているモノですから、ふつうのショッピングと同じで、どこからでも簡単に調達できます。組み立てロボットのような高度に専門的 な装置でも、その調達はさして困難なことではないのです。スペックを決めて、プラントメーカーやロボットメーカーに発注すれば、仕様に会った装置を設計してくれます ので、資金さえ準備できれば調達問題は簡単に片づきます。しかし、これらの高度の装置・機械を使って、何をどう造るかというノウハウになると、特に高品質の製品を、 安く、迅速に製造するノウハウとなると、優れた技術と経験を備えた「ヒト」が必要となります。

  この問題の解決にあたって韓国企業や中国企業が用いている戦略が、日本のメーカーからの人材の「引き抜き」です。韓国企業や中国企業において日本企業の定年退職者 とか中途退職者を登用して、その高度な技能を活用しながら、日本企業の技術にキャッチアップするというのは、かなり前から韓国企業や中国企業で使われてきた「手」です。最近ではこの戦略がエスカレ ートされていて、日本企業に在籍中の現職の技術者を争って引き抜いているといいます。数千万円の高報酬で釣って、韓国企業や中国企業の中へ直接に「ヒト」を取り込んでいるのです。 日本人の技術の担い手を、そっくりそのまま日本企業から奪い取っているのですから、これでは、日本のメーカーが競争上立ちゆかなくなるのは当然の結果といえます。

  日本企業においては法務部のスタッフを充実して、法律的に対処するという対策をとってきました。特許申請などによって法的権利をまず確立して、その侵犯がないか どうかを監視し、もし侵犯の疑いがあれば裁判所に提訴し、知的財産権を法律的に守るというやり方です。しかし、法廷闘争を通じてたとえ法的権利を擁護できたとしても、それは 宴のあとのことで、日本の技術は使われてしまった後の処理です。たとえ賠償金を勝ち取ったとしても、それでは損害の一部が償われているだけのことで、製造技術そのものは防衛されていないのです。 これでは問題の後追いになっているだけでなく、技術の漏洩そのものが守れていないことになります。日本企業の競争力を回復するには、技術の防護を徹底して、それが洩れない仕組 みづくりをすることが急務です。

◆「経営者による予測利益情報開示」の弾力化◆

  決算短信における経営者の利益予測情報が強制開示から任意開示に変更された。

  証券取引所に株式を上場している会社は、有価証券報告書を公開することが金融商品取引法によって強制されている。この法定開示はフォーマルのもので、内容も詳細であるが、 大掛かりにすぎて適時性に欠けるきらいがある。このため、わが国では証券取引所の適時開示ルールにもとづいて、「決算短信」という補助的で概略的な開示制度が設けられおり、 決算短信では、概略的な決算速報値が公表される。

  決算短信は上場会社が最も早く公開する速報の財務データであることから、証券市場関係者やマスメディアでは投資判断上最も有益な情報だとして重宝されているが、次期の経営業 績の予測値が公表される点からしても、その重要性はきわめて高いと評価されきたものである。アメリカなど外国においては過去の実績の報告と将来の業績の予測とは明確に切り分けられており、 過去の経営業績を公表するのは経営者の仕事、その会社の次期の経営業績を予測するのは証券アナリストの仕事だとされている。日本ではこれらの2つの仕事が1本に束ねられ、過去 の業績報告と将来の業績予測がその会社の経営者の手に委ねられてきたわけである。

  上場会社では決算発表をする際に、過去の実績に加えて、次期の利益数値についても予測値を発表するが、将来について予想通りに事態が進展するのは稀なことだから、予測値は 途中で狂ってくる。この予想のハズレは微細であれば放置してもよいことになっているが、当初の予測値から大幅に乖離した場合には、「業績予想の修正」を行うことが要求される。売上高は 10%以上、営業利益・経常利益・当期純利益は30%以上の狂いが生じた場合には、取引所に届け出るほかに、記者会見を開いて予測値を訂正しなければならないというのが、その修正ル ールの基本である。

  当初の予測値を上方に修正するのであれば、市場からは歓迎されるから、経営者にとって「業績予想の修正」は苦になることではない。しかし、下方修正の発表は市場に負のインパクトを与 え、株価も押し下げることになるから、経営者にとって下方修正の発表は苦痛の種となる。現在のように景気がわるいと、下方修正を1期に何回もしなければならないから、経営者は重い気持ちで 兜町のプレスルームに何度も足を運ぶことになる。決算短信の業績予想公表制度は、経営者の間では評判がよくない。

  アメリカなど外国においては次期予測利益の公表は経営者の担当事項ではなく、証券アナリストの担当事項になっているが、これには相応の理由がないわけではない。経営者の予測利益数値を 信じて株式を買った投資家が、予測利益の狂いによって損害をこうむった場合には、経営者に損害賠償を要求してくる可能性があるからである。特に訴訟社会のアメリカではこの傾向が顕著で あり、経営者に予測利益を公表させることは経営者に大きなリスク負担を強いることになる。

  これらの事情を考慮して、今般日本においても業績予想の公表は非強制となり、やりたい経営者はやってもよいが、やりたくない経営者はやらなくてもよいというルールに変わった。なお、この制度変更の うわべの理由は、経営者がいやがるとということでははい。複雑になりすぎたディスクロージャー制度を簡素化するというのが表向きの説明であり、会社側の過大な負担を軽減するという点が強調されている。

◆苦戦のガソリンスタンド◆

  最近ではガソリンスタンドの閉鎖が目立ちます。あちこちでガソリンスタンドに「営業停止」の張り紙が出されており、ときには重機によって地中からタンクを掘り出している のを目にすることがあります。これはいったいなぜなのでしょうか。

  ガソリン価格は乱高下しますので、その小売りが忙しいビジネスであることはたしかのようです。わたしの生活圏の中でも、ごく近くに2軒のガソリンスタンドがありまづが、一方が1円上げると、すぐに他 方も追随して1円上げますし、1円下げるときでも互いに先を争っています。これは1円の差が大きく、1円でも高いと、顧客が隣りの小売りに獲られてしまうからだろうと思われます。しかし、価格競争 はどの業界でも甘くないわけですので、これはガソリンスタンドに限られたこととはいえません。がんがん儲かっているのなら、いかに価格競争が激しくとも、撤退することはないのです。

  ガソリンスタンドは家内事業が多く、ほとんどの店で、家族の労働力を頼りに営業をしています。高齢化がすすむと家族労働を当てにするこうした事業スタイルはだんだん苦しくなくなりますし、 また次世代に事業を譲ろうとしても、後継者問題が控えていて、これも簡単なことでないようです。がんがん儲かるビジネスなら、こどもたちもよろこんで事業を受け継いでくれますが、1日10時間 あまりも店を開いて、サラリーマンの平均的給与ほども稼げないとしたら、なかなか事業を受け継いでくれないのです。

  こうした一般的な厳しいビジネス環境に加えて、ガソリンスタンドには特別な事情があります。わが国は1960(昭和35)年ごろより自家用車が普及しはじめ、「車社会」が急速に拡がりました。車はガソリン なしには走れませんの、ガソリンの需要が急増し、雨後のタケノコのように日本中にガソリンスタンドが建設されました。ところが、当時に建設されたガソリンスタンドの設備は40年以上も使われつ づけてきており、いま耐用年数の終わりを迎えようとしています。

  現在、日本中のガソリンスタンドはその設備の更新期に達しています。設備の更新は新規投資と同じことですから、多額の資金が必要になります。この設備投資資金をどう賄うか、これがガソリン スタンドがいま直面している大問題です。

  この設備の更新には、規制強化というもう1つの問題がかぶさっています。ガソリンスタンドの設置にかすんする規制は過去40年間で大きく変わってきており、現在の規制は40年前とは比べものに ならないくらい強化されています。防火対策、地震対策だけでも大変なもので、大災害が発生しても、ガソリンスタンドが巻き込まれないようにする、強烈な対応策が要求されるのです。 この規制強化は設備更新支出を大幅に増やしますので、ガソリンスタンドの採算をますます悪くしてしまいます。設備を更新するならもうやっていけない、 これがガソリンスタンドが消えていく理由です。

 

◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定◆

  アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう4年間の 開催予定は、次のように発表されています。

□ August 3-7,2013 Anaheim, California

□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia

□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois

◆次回の更新◆

  次回の更新は11月を予定しています。ことしは格別の暑さですが、もうすぐ秋の涼しい風が吹きはじめるでしょう。青空の下で夏の日々を、そして初秋の日々を存分にお楽しみください。 ごきげんよう、さようなら。


2012.08.10

OBENET

代表 岡部 孝好