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 to New Version(May 10, 2012)




2012年5月版へのメッセージ


OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆野山は萌黄色◆

  卯の花の匂う垣根に ほととぎす早も来鳴きて しのびねもらす 夏は来ぬ

  ほととぎす(不如帰、時鳥)は、野山が萌黄色に染まる初夏に、日本列島を訪れる渡り鳥です。人前には姿を顕わさない用心深い鳥ですが、鳴 き声は凄まじく、山や谷に響き渡っています。「東京特許許可局」と叫ぶのが鳴き声の特徴で、時には夜半でも「ケチョ・ケチョ」と騒ぎ立ててい ます。毛虫が大好きといいますから、人間には好都合な益鳥ではないかと思われますが、このほととぎすを褒める話を聞いたことがありません。 その評判を最も傷つけているのが「托卵」で、これはうぐいすの巣をハイジャックしてしまうことを意味するのだそうです。うぐいすの留守中に、巣 の中のうぐいすの卵を外へ蹴落とし、代わりに自分の卵を巣に残しておきます。かわいそうなうぐいすは、ほととぎすの卵を孵化させ、せっせと餌 を運んで育てるといいます(写真の芝桜は姫路市のヤマサ蒲鉾にて、2012.05.06撮影)

  うぐいすの鳴き声が聞こえなくなったと思ったら、こんどはほととぎすです。両方ともカッコウの仲間らしく、鳴き方も姿もよく似ています。それにしても、 ほととぎすの声とともに、野山はすっかり萌黄色に変わりました。「夏は来ぬ」となりましたが、みなさまいかがおすごしでしょうか 。

       

◆IFRSsの夢は潰えたか――会計基準のコンバーゼンス論の盲点◆

  Wall Street JournalのレポーターのDavid Reilly氏は、2011年1月29日フロリダのタンパで開催されたアメリカ会計学会(AAA)の期央総会で講演し、IFRSsが欧州通貨の 「ユーロ」と同根の欠陥を背負っており、この欠陥によって失敗する可能性が大きいと述べたと報じられています。Accounting Horizons*にその要旨が掲載されているので、 抄訳して紹介することにしましょう。

*David Reilly,"Convergence Flaws,"Accounting Horizons, Vol.25, No.4(2011),pp.873-877.

  2002年1月1日、欧州には新通貨「ユーロ」が流通しはじめました。それから3年後の2005年に、欧州の上場会社は国際会計基準(IFRSs)に準拠して、財務報告を行い はじめました。 こうして2つの新しいシステムがスタートしましたが、だれもが危ういとみていたのは、通貨のユーロではなく、会計基準のIFRSsの方でした。欧州ではいずれはIFRSsの"I"をEuro の"E"に置き換えざるをえなくなって、ローカルなEUの会計基準の"EFRSs"になるものとみられていました。

  ところが皮肉なことに、いま危うくなっているのは、通貨のユーロの方です。IFRSsは、どたんばたんと壁にぶち当りながらも、ともかく生きながらえています。アメリカの証券取 引委員会(SEC)は、アメリカのGAAPを取り下げて、IFRSsを受け入れる準備をすすめており、すでに元に戻れない段階に達しているとさえいわれています。しかし、いまは一歩 退いて、もっと広くものごとを考えてみる絶好機ではなかろうか。これは、IFRSsの技術的な側面とか、特定の会計基準の品質とかに問題があるというわけではないのです。この ことはむしろ、グローバルな一組の会計基準を支える土台そのものについての疑念にかかわりがあります(写真上と下のつつじは姫路市の好古園にて、2012.05.07撮影)

  債務危機を通じて、通貨のユーロがいままさに際立たせていることは、政治的統合を欠いた通貨の統合は行き詰まるという点です。通貨の信用を保証するに必要な手立てを 講じようにも、その手立てを強制する機構がないのです。ギリシャが破綻しかけた数年前でも、すべてのユーロ諸国がやらねばならぬと合意している措置を、フランスの ような国でさえも無視し、何の咎めも受けなかったのです。

  同じことが会計基準にもいえ、世界共通の会計システムには、共通の執行機関(common enforcement system)が必要です。いかに知的に最もよく組み上げられた会計ルールでも、 もしそのルールを無視しても何の咎めも受けないと思う会社が出てくるのであれば、そのルールには何の意味ももちえないことになります。それなのに、グローバルな執行機関 (grobal enforcement mechanism)はどこにも存在していないのです。世界各国にはいろいろな執行機関が現存することはたしかですが、各国の証券規制当局の能力、質、意図は大幅に異なっています。たとえばロンドンにおけると同じ ように、ロシアにおいてルールが首尾一貫して執行されとは、どうにも考えづらいことです。特に欧州連合の中に証券規制当局が1つもないことは、注意に値することです。

  ありうるこの欠陥に対処する解答には、2つがありえよう。まず第1は、監査法人がグローバルな監視者となって、世界各国に会計基準が首尾一貫して適用されるように 見張ることです。しかし、監査法人は各国それぞれの国内の法律にもとづいており、その品質も国によって大幅にばらついています。第2に、グローバルな証券規制当局を設置す べきだという意見もたしかにあります。しかし、その設置が困難であるばかりでなく、たとえ可能であっても、それは政治的攻撃にさらされ、脆弱なものとなりやすいのです。

  もう1つの問題は、投資家とか市場に対する見方に、国によって大きな食い違いがあることです。アングロ―アメリカンには投資家至上主義、市場至上主義がありますが、 ヨーロッパ大陸では市場は会社を助けるものであり、会社は国家の政治目的を推進する1つの手段にすぎないとみられています。政府の与党を利するかぎりにおいて市場は存続を許されますが、投資家は重要視されていないのです。こういう見解の対立は、会計基準を形成し、執行する基礎を不安定にするものです。各国は国益を追究する一環として会計ルールに政治的に関与しがちになって、国際会計基準を国際貿易交渉の小道具に使うことも考えられないことではありません(写真のおおでまりとこでまりは姫路市の好古園にて、2012.05.07撮影)

  グローバルな会計基準は比較可能性を高め、資本コストを引き下げるから、投資家にとっても会社にとっても、たしかに理論的には望ましいことです。このことは 欧州連合においてはとりわけ明瞭なことでした。2ダース以上もあった国別の会計基準がIFRSsに1本化され、ユーロの資本市場の魅力と流動性は高められたわけですから。 しかし、現行のGAAPを放棄することによって、アメリカの会社にこうしたメリットがもたらされるのかは疑わしいことです。

  現行のGAAPからIFRSsへの切り換えにともなって、会社では多大なコストを負担しなければならない。大きなウンドフォール利益がえられる監査業界を除けは、IFRSs への切り替えによって発生するのは、コスト負担だけです。投資家にも、どういうメリットが生じるのかはっきりしていないのです。

  アメリカでは、IFRSsをどのような形で導入するか、その最終決定が延期されています。"condosement"という造語によって、将来の方向が見定められようとしていますが、 それはIFRSsを採択するにはするが、FASBを残すというものでしょう。アメリカでIFRSsを有効にするには、その前にFASBが裏書きするか、あるいは修正する ことになりますから、このやり方が拡がると、世界には会計基準の「方言」が多数生まれ、アメリカのGAAPはその「方言」の1つになってしまうことになります。

  国際会計基準を創るということは、長年にわたって抱いてきた夢であった。しかし、通貨のユーロの経験が示しているように、そのシステムが確固とした基礎をもたない とすれば、その夢は潰えるかもしれない。

◆植物のクローンとキリシマツツジ◆

  DNA鑑定というのは、犯罪捜査のテクニックとばかり思っていましたが、生物学など学術分野でみ広く使われている一般的な研究手法なのだそうで、 動植物の親子関係などにおいても、DNA鑑定によれば「系図」が正確に突き止められるということです。これはある講演会(*)で聞いたことですが、 盆栽とか庭木なども、DNA鑑定によって分析してみると、新しい知見が次々に湧いてくるということです。

*平成24年3月4日、京都府立植物園・特定非営利法人のとキリシマツツジの郷主催、「のとキリシマツツジ シンンポジウム〜園芸文化の保護と育成〜」、於京都府立植物園。

  ホンキリシマはツツジの一種で、4月中旬から下旬にかけて真っ赤な花をあでやかに咲かせますが、 少し遅れた連休のころに、樹齢170- 180年のホンキリシマが能登半島一帯(石川県輪島市、能登町、珠洲市、穴水町)の民家の裏庭に咲き乱れるということです。霧島というのは 鹿児島の火山の名前ですし、その山麓に野生のキリシマ・ツツジが生い茂っている写真はどこかで眼にした覚えがあります。九州でも関西 でもキリシマ・ツツジは広く親しまれているふつうの庭木ですので、けっして珍しい花ではありませんが、寒冷の北陸の能登半島にホンキリシマが 群生しているというのは、まったく意外な話で、驚きです(左の写真はホンキリシマ、2012.04.24に撮影)

  なぜそういうことになったのかは大きな疑問ですが、この興味ある問題をDNA鑑定によって追跡した研究者がいて、いまでは500年も前からの経緯がほ ぼ完全に突き止められているということです。江戸時代の初期(正保年間というから1644年以後)に薩摩藩のだれかがホンキリシ マを船便で大阪屋敷に持ち込み、取り木によってそれを5本に増やしてから、そのうちの2本を京都御所のだれかに献上したというのがストーリの始まりで す。京都に入った2株のホンマキリシマは何年もかけて取り木で株分けされ、京都で増えていきますが、幾株かはを江戸幕府のだれそれかに献上され、 その後江戸において「エドキリシマ」という別名に改称されて、その株を増やしていきました。その後、江戸幕府のだれかがそのエドキリシマの1株を能登 のだれそれかに譲り渡したのが、いま能登半島に残っているものの親株です。1株のホンキリシマ(エドキリシマ)を譲り受けた能登の人々が、江戸時代を 通じて大事に大事に育て、挿し木と取り木によってその株をどんどん増やしていきました。江戸時代初期から幕末にかけて、こうして能登半島にホンキリ シマが拡がったというのです。

  植木や盆栽を殖やす代表的な手法は「挿し木」と「取り木」ですが、これらの育成技法は江戸時代でも広く知られていました。挿し木では親樹の枝の 先を切り取って、その穂(芽)をそのまま土に埋めるだけで、新しい苗が育ちます。取り木も原理は同じで、親樹の枝を埋めて、苗を取ります。これらの 方法によると、子樹は親機の体の一部をそのまま受け継ぎますから、その個体の成立ちが親樹とまったく同形になって、同じ染色体をもちます。ふつうの栽培 方法では、交配した花からまず種子を採り、この種子を土に播く方法によって新しい苗を育てますが、挿し木や取り木ではこの交配のプロセスがすべて省略 されます。親樹の体の一部がそのまま子樹になりますので、子樹は親樹のクローンになるのです。子樹の枝を使って挿し木や取り木をしますと、その孫 樹もまたクローンになります(上の写真は推定樹齢150年のホンキリシマ、大分県国東市で2012.4月24日撮影)

  現在まで残っているホンキリシマのどれとどれがクローンなのかは、DNA鑑定という最新技術を使うと、正確に突き止めることができます。葉っぱをすり鉢ですり潰し、顕微鏡でDNAのパターンを調べると、クローンどうしのホンキリシマは寸分違わないDNAをもっていますから、同じ祖先をもつことが確認できるのだそうです。この方法に よって、能登半島に群生するホンキリシマは大昔の1株の親から分かれに分かれたクローンの子孫であることがたしかめられれますし、またそのルーツが 薩摩にあって、大阪から京都へ、京都から江戸へ、そして江戸から能登に渡った経路が辿れます。すごいことです。

  鹿児島の民謡「オハラ節」(*)では、「花はキリシマ、たばこは国分、燃えてあがるはおはらが桜島」と歌われていますが、江戸初期からホンキリシマは一番 人気の盆栽で、いまに残っている当時の植物図鑑の冒頭のページに載っているのも、このホンキリシマの絵図だそうです。みなに愛された花だったからこ そ何百年も生き残ることができたのでしょうし、またみなに愛された花だったからこそ、日本の各地に拡がっていったのでしょう。特に鹿児島のお国自慢は、オゴジョ、 桜島、キリシマであるらしく、「オハラ節」にも「むすめ盛りは鹿児島つつじ、挿し木した芽におはらが花が咲く」と、いまも歌い継がれています。

三橋美智也、民謡「鹿児島おはら節」(You Tube)

  なお、日本ではサクラの染井吉野とか、ツツジのホンキリシマは一定の気温に達すると、どこにあってもいっせいに花を咲かせますが、いっせい開花という この賑わいをもたらすのも、挿し木・取り木のクローンのなせる技なのだそうです。挿し木や取り木によるとどれもこれもクローンになるから、同じ条件が揃うと、 すべてのクローンは同時に花を咲かせることになるわけです。

◆250%定率法から200%定率法へ――減価償却制度の変更◆

  日本の税制には古くから定率法という減価償却方法を優先的に適用する制度が採用されており、日本企業の国際競争力を高めてきたのはこの減価償却制度だと いう見方が少なくありませんでした。定率法によると固定資産の取得当初における償却費の負担が他の方法によるよりも大きくなり、それだけ投資の回収が早くなる からです。日本の高度成長を支えてきたのはこの加速償却(acceleted depreciation)だったという見方はいまでも多く、海外からもかなり注目されてきた日本的な減価 償却制度です(写真はライラック、2012.04.25撮影)

  平成19年の税制改正により、定率法優先の旧来の減価償却制度に代わって、定額法を優先する新しい減価償却制度が導入されました。IFRSsに 収束する国際的動向に日本の減価償却制度を摺り寄せるという狙いによるものだ、といわれています。この減価償却制度の見直しにあたっては、取得原価の10%を 残存価額とするという旧来の制度も撤廃され、耐用年数全体にわたって償却できる金額の上限(償却限度額)は、取得価額の100%にまで引き上げられました。

  旧来の定率法による場合には、取得価額の90%を耐用年数にわたって償却する必要があったために、耐用年数到来時には帳簿価額(未償却残高)がちょうど取得価 額の10%になるような償却率(定率法の「定率」)を計算することが、不可欠の手順になっていました。しかし、この計算はかなりやっかいであったから、実務上は税務当 局が準備した「定率法償却率の一覧表」を参照し、この償却率の早見表を利用するのがふつうになっていました。

  平成19年の税制改正においては、定額法が優先的方法に指定されただけで、定率法が廃止されてしまったわけではありません。定率法を使いたい場合には、なおも 定率法を選択できることになっていました。しかし、残存価額が撤廃されてしまったために、償却率の計算がいっそう厄介になり、実務上の適用手順が複雑化してしまっ たのです。定率法によるとすれば、耐用年数の終了時までに取得価額の100%を償却することが必要になりますが、そのための「定率」を計算することがきわめてむつ かしくなったのです。そこで新たに導入されたのが、「250%償却法」という新しい減価償却方法です。

  250%償却法というのは定率法の1種であって、定額法ではありません。それなのにまず最初に定額法によるとした場合の償却率を計算します。定額法の償却率をまず 計算し、次にその定額法の償却率を2.5倍して、この定額法の2.5倍の償却率を定率法の「定率」に定めるのです。「250%」とか「2.5倍」という名称は、この倍率に由来しま す(写真はリンゴの花、2012.04.25撮影)

  250%償却法はかなり乱暴な減価償却費の計算法ですが、簡便であり、計算は単純です。たとえば、耐用年数が10年であれば、いまや残存価額はゼロですから、定額法 の償却率は耐用年数の10分の1、つまり0.1になります。250%償却率はその2.5倍ですから、0.25となり、毎年の未償却残高に同じ率の.025を乗じて、減価償却費を算出す ればよいわけです。

  実際の償却率を年を追って計算してみますと、耐用年数が10年の場合、1年目は0.25、2年目は(1-0.25)*0.25=0.1875、3年目は(1.0-0.25-0.1875)*0.25=0.140625と なりますから、かなり急速に逓減していきます。これは、250%償却法によると初期の投資の回収速度が高くなっていて、耐用年数の前半で取得価額の大部分を回収し てしまうことを意味します。耐用年数10年の場合では、3年間の償却累計は0.578125と計算されますので、3年間で半額以上を回収してしまっている勘定になります。

  平成24(2012)年の税制改正では、定率法の償却率を計算する倍率が、250%から200%に引き下げられることになりました(平成24年4月1日より適用)。「250%償却法」では あまりに回収を急ぎすぎるという批判がでてきたのか、それとも税収が足りないのか、理由は不明です。ただ興味深い点は、今回の改正により日本の減価償却制度がアメリ カ方式によく似てきたということです。アメリカの税法には「倍額逓減法」(double declining method)というのがありましたが、それは定額法の償却率を2倍にするというもの でしたから、中身は日本の「200%償却法」とまったく同じです。アメリカではたしか1960年代に、日本の高度成長に対抗するという狙いもあって、加速償却法が取り入れられ ました。その加速償却法というのは、具体的にいえばこの倍額逓減法のことを指しています。当時のアメリカでは定額法が原則になっていましたので、定率法を採用する場合 でも、定額法の償却率から出発し、定額法の償却率を倍額にするのが加速償却だと、苦しい説明をしたものと思われます。

◆関経連、IFRSsの強制適用の取り止めを提言(再)◆

  会計基準の国際的収斂を実現する動きが急ピッチですすんでいて、日本企業に対して国際会計基準(IFRSs)を適用する問題については、 すでに詰めの段階にさしかかっているといえる。2010年3月期からは、そうしたい会社においてはIFRSsによって会計処理をしてもよいとする 任意適用ルールが日本でも採用されており(注)、すでに数社の日本企業が実際にIFRSsによって決算を行っている。目下の焦点は日本企業に 対してIFRSsを強制的に適用するかどうかであるが、一律に強制適用ということになると、現行の日本の会計基準はすべて廃棄と いうことになるし、アメリカ上場の日本企業だけが使っている米国基準も、その使用が許されなくなってしまう。とすれば、強制適用の場合にも、 一部の会社だけに絞って強制するというのが現実的な考え方になるが、上場会社の連結会計だけにIFRSsを適用するというのもその具体案 の1つである。この方式によるとすれば、非上場会社にはIFRSsが適用されないだけでなく、上場会社でも個別決算には日本基準が適用され ることになるから、従来と同様に、日本企業の会計基準は主として日本基準によるということになる。単連分離方式というのはこのやり方を指してお り、単独(個別)決算と連結決算とを切り離し、さらに上場会社と非上場会社とを区別して、上場会社の連結決算だけにIFRSsを強制適用し ようとするものである。ドイツなど、EU諸国のやり方に似た方式で、最も有力な選択肢とみられている(下のつばきは石光寺にて、2012年02月20日撮影)

(注)2009年に企業会計審議会において「我が国における国際会計基準の取扱いに関する意見書(中間報告)」(以下、「中間報告」)がとりまとめられ、 2010年3月期から連結財務諸表にIFRSの任意適用を認めると同時に、2012年を目途に強制適用の是非を判断するという予定が明示された。

  いつから強制適用に移行するかというタイミングの選択も重要な課題になっていて、このタイミングの選択は2012年までに決定すると、すでに公 約してしまっている。準備のための移行期間が3ー5年必要だとすれば、2015ー17年ごろにIFRSsへの完全転換という筋書きになるのではない か、という見方が支配的である。いずれにしても、2012年というのは来年のことであり、時間は切迫している。またアメリカ上場会社は日本におい ても米国基準によることができるというのも、2016年3月までの時限を切った特例措置であり、期限に到達してしまうと、米国基準も適用できなく なる。

(注)1977年に米国基準による連結財務諸表の提出が特例として認められたが、2009年12月の内閣府令改正により2016年3月期をもって特例の 終了期限が設定された。しかし、IFRSsの強制適用が難しくなってきたこともあって、ことしなって金融庁ではこの特例期限を撤廃し、連結財務諸 表規則等も元に戻している。

  金融庁では、企業会計審議会の審議を経て、この秋にもIFRSsの強制適用について結論を出すものと思われるが、この緊迫した情勢の中で、 関西経済連合会(関経連)はこのほど「わが国の国際会計基 準の取り扱いに関する提言」(2011/11/11)を発表して、日本企業に対してIFRSsを強制的に適用する方針を取り止め、従来の任意適用を 継続すべきだという意見を表明した。次がその提言の一部である。

 

  現行の任意適用の方針を維持するとすれば、日本の上場企業は、日本基準を適用する会社、米国基準を適用する会社、IFRSsを適用する会 社の3群に分かれることになるから、会計情報の利用者側においては多少の混乱が生じることはさけられない。しかし、3つの会計基準は競争関 係におかれ、それぞれが鎬(しのぎ)を削って改良に改良を重ねて行かなければならないとすれば、会計基準はこれからも競争の中で進歩をつづけ、発展を 遂げていく可能性が大きい。IFRSsの独占的支配よりも、競争状態の方が、会計基準の改革には優れた環境になるとみる人が多い。

  なお、現状をこのまま維持するとすれば、日本企業において日本基準、米国基準、IFRSsの3つの会計基準のどれが使われるかは会社の側に おいて選択されることになるが、この選択が可能なのは上場会社に限ってのことであり、非上場会社においてもこの選択が認められるかどうかは、 まだ詰めの議論が残されている。日本企業は単体としては会社法の規定に拘束されているし、また法人税法も単体の個別決算を前提にしてい るから、非上場の個別決算は会社法の計算規定によるのが原則であることはたしかである。しかし、会社法上も連結決算制度があるし、税法上 も連結納税制度が取り入れられているから、IFRSsを選択適用制にしたままでも、「単連分離」として単純に割り切れない部分がなおも残されて いる。この点で、任意選択ルールを維持するとしても、未解決の問題が多いといえよう。

(注)なお、経団連もことしの春に意見を表明している。経団連の見解は「国際会計基準(IFRS)の適用に関する早期検討を求める 」(2011年6月29日)を参照されたい。

◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定◆

  アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう4年間の 開催予定は、次のように発表されています。

□ August 4-8,2012 Washinton DC

□ August 3-7,2013 Anaheim, California

□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia

□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois

 なお、日本会計研究学会における2012年度の開催校は一橋大学と決定されています。

◆神戸高商の初代校長水島銕也と雑誌「會計」の創刊(再)◆

  神戸高商の初代校長となった水島銕也(みずしまてつや)は明治20年(1887年)に高等商業学校(のち東京高商、東京商大、一橋大学)を卒業し、 そのまま高商の嘱託教師を勤めることになりましたが、すぐに府立大阪商業学校(のち大阪高商、大阪商大、大阪市立大学)の教諭兼校長心得を拝命して、 大阪でビジネス教育を展開しはじめました。しかし、大阪でのビジネス教育は思ったようにはうまくいかず、1年半ほどで辞任しています。 すぐに藤田組に入社しましたが、1年ほどすると恐慌のあおりを受けて、この会社も退社しなければならなくなりました。そこで東京に舞 い戻り、横浜正金銀行(のち東京銀行)に入行し、ここで金融・為替業務の実務を身をもって体験することになります。横浜正金銀行入行後2年目 には、ニューヨーク出張所詰という絶好の機会を与えられ、海外勤務に従事することになりました。

  しかし、2年後の明治28年(1895年)には病によりニューヨークから帰国し、横浜正金銀行も辞めることになりました。このとき、水島銕也は年齢が33歳 に達していて、高商卒業からすでに10年が経っていました。その水島銕也に母校高等商業への復帰を勧めたのが、同期生の高等商業教授下野直 太郎です。水島銕也は、明治29年(1896年)に下野教授の誘いを受け入れ、高等商業で銀行簿記、外国為替論を教えはじめました。

  明治33(1900)年になると、神戸に第二高等商業学校を創立する話が持ち上がり、水島銕也はその創立準備委員のひとりに任命されました。 この第二高商の校地を大阪にするか神戸にするかで紛糾しましたが、帝国議会の票決では大阪が70票、神戸が71票となり、1票差で神戸に することが決定されました。明治35年3月には「神戸高等商業学校」を「神戸市葺合町筒井村籠池」に開校することが正式に告示され、翌明治36(1903)年に水島銕也がその初代校長に発令され、5月15日より講義が始まりました。水島銕也はこのとき40歳になっていました(写真は六甲台キャンパスの出光佐三記念六甲台講堂前の胸像。神戸高商開校20周年記念式・大学昇格決定祝賀式における寿像で、碑文は渋沢栄一、彫塑は朝倉文夫によっている)

  神戸高商は4年制(予科1年、本科3年)でしたので、明治40年(1907年)には最初の卒業生を実業界に送り出すことができましたし、神戸高商のビジネス教育も内容が固まってきて、高商の運営も軌道に乗ってきていました。そこで、水島銕也は欧米視察旅行へ出かけることにし、先進国の会計制度、会計教育を精力的に調べ、会計監査の実務を詳細に研究してきました。帰国後すぐに「会計士制度」について論文を発表するとともに、同僚の東五郎(ひがしせきごろう)教授を2年間、欧米に派遣して、さらに会計学と会計監査の研究に当たらせました。

  帰国した東五郎は、明治43(1910)年に神戸高商にわが国に初めて開設された「会計学」講座を担当し、欧米式の先端的な会計学教育をはじめました。 東五郎は会計学の学術的研究の重要性に覚醒し、同僚たちとも諮って、大正2年(1913年)にまず「神戸会計学会」を創設し、さらに大正6年(1917年)には 全国規模の「日本会計学会」を創立しました。この「日本会計学会」の機関誌として生まれたのが、雑誌「會計」です。「日本会計学会」は1938年に 「日本会計研究学会」に改組されましたが、雑誌「會計」はそのまま受け継がれ、今日に至っています。

  東京高商において東五郎は水島銕也と同期生であり、開校とともに二人は一緒に神戸高商に来て、その後の会計教育を二人で牽引していきました。 会計の理論研究も、また会計制度の構築も二人の協力のもとに、神戸高商をベースにして展開されていったのです。雑誌「會計」は東五郎 によって創刊されたものですが、その創刊号に水島銕也が「創刊の辞」を執筆しているのは、このような事情によるものです。

《参考文献》

中野常男、「わが国における会計史研究の萌芽――東五郎の簿記史研究を中心として――」、『国民経済雑誌』第204巻3号(2011年9月)、1-20頁。

平井泰太郎、『水島銕也』(日本経済新聞社、1934年)。

水島銕也、「欧米ニ於ケル会計士制度」、『国民経済雑誌』第6巻3号(1909年3月)、91-112頁。

◆日本の人口減(再)◆

  日本の人口は、江戸に徳川幕府が開かれた1603年には1,227万人であったと推定されています。その後日本の人口は増えつづけましたが、特に江戸 の人口増加率は著しく、江戸の街は世界一の大都市に発展していきました。江戸の人口は18世紀初頭にすでに100万人であったといいますから、当時70万人の ロンドンより大きかったわけです。

  徳川幕府は260年をもって閉じられましたが、明治の文明開化を迎えたときには、日本の人口は江戸開幕時の3倍に膨張していて、3,330万人にな っていたといわれています。それからさらに時を経て、第二次世界大戦が終結した1945年の人口は7,199万人だったといいますから、明治維新からの 77年間で日本の人口は倍増していた計算になります。そして、最も直近の2004年の人口統計は12,784万人を示しており、過去最高の数字になってい ます。第二次世界大戦の終結から数えて5,585万人の増加、率にして77.5%増になります。

  しかし、2004年はピークの年であり、その後はすこしづつ減ってきています。この下り坂もだんだん激しくなっていくと予想されており、2020年ごろから急 激に減少するものと推定されています。日本では、いま有史以来初めて人口縮小に向かう境目にあるのです。

  現時点においても、この縮小の兆候は顕著に現れています。農漁村では過疎が進展しており、老人ばかりの集落に変わってきています。山間部では小中学校 が廃校になって、無人の校舎だけが残っているところが多数あります。田舎の商業施設はどこもかしこもガラガラで、シャッター通りがあちこちにあります。 無医村というのはいまではありふれたことですが、最近よく話題にのぼるのはでは「買い物難民」です。空洞化がすすんで、食品の調達がむつかしくなると、 健康な人々にとっても、日常生活を維持するのが容易でなくなるのです。

 1950年代の高度成長期には都市の人口が爆発的に増加し、都市部では住宅、公共施設など、何もか も供給が追いつかなくなったことがあります。日本列島は不均等に発展し、大都市ばかりが異様に肥大したのです。現在ではこの人口増加傾向が反転し て、人口減少に向かっていますが、この人口減少もまた均等に進展しそうにありません。全国的に住宅や公共施設は過剰となっていきますが、一部にお いてその過剰がはなはだしくなる傾向があります。過疎化も不均等にすすみ、一部だけが極端に空洞化するおそれがあるのです。空き家、空き事務所、 空き工場が増加して、都市部においても部分的にゴーストタウン化がすすむ可能性があります。

  人口分布の偏りといえば、少子高齢化がよく話題にされます。この少子高齢化は年齢別の人口分布の偏りであり、地域分布の偏りではないのです。日本 の人口が減少していきますと、年齢別の分布が偏るだけでなく、地域別の分布もまた偏ってきますので、これらの両方に目を光らせるがことが重要になっ てきます。

◆次回の更新◆

  次回の更新は08月を予定しています。初夏の日々を、お元気にておすごしください。 ごきげんよう、さようなら。


2012.05.10

OBENET

代表 岡部 孝好