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to New Version(February 29, 2012)
2012年02月版へのメッセージ
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]

◆春です◆
京都の北大路の鴨川のほとりにある京都府立植物園では、「春の草花展」が開かれています。
北山ではまだ粉雪が舞っているというのに、ここでは春!、春!、春!で、花いっぱいです。温室
の中のことですのでさすがに蝶の姿は見あたりませんが、強い花の香りがいちめんに立ちこ
めています(右(と下)の春の花々は、京都植物園にて、2012年02月29日撮影)。
園内の梅林にも立ち寄ってみましたが、まだ蕾はかたく、ちらほら咲きというところでしようか。
しかし、小鳥たちは大忙しで、仲間としきりにことばを交わしながら枝から枝へと渡っています。
のどかな京の春の風情です。
京都には大学が37校もあるのだそうで、いつでも、どこでも学生たちで満ち溢れています。し
かし、2月末にもなると、学期末試験も終わっていますので、学生たちはどこかへ消えてしまっ
て、静かなものです。特にこの植物園の中となると、学生の姿はまったく見あたりません。乳母車を
押した親子づれ2〜3組を除けば、シニア・パーソンばかりで、皆さんデジカメをぱちはちやって
います(もちろん、わたしもその1人です))。大きな望遠レンズのついたカメラ
を据えて、じっと小鳥を待っているシニアのバード・ウオッチャーにも、何人か出会いました。
暖かい陽光が本格的射しはじめると、桜の蕾がどんどん膨らんで、花を拡げます。そうなれば、
学生たちもスクールバックしてきて、賑やかな新学期が始まります。京都の春は、これからが本
番です。
◆シンジケート・ローンとリボルビング・クレジット・ファシリティ◆
シンジケート・ローンというのは企業と銀行との間で行われる大口の金融取引のことですが、この金融方式の特徴は、借り手の企業1社に対して貸し手の銀行が集団を
形成する点にあります。貸し手銀行の集団を取り仕切る世話人を「アレンジャー」と呼び、このアレンジアーが借り手企業との間で貸出条件を交渉して、
案件を取りまとめます。アレンジャーは貸出条件が組み上がると、参加金融機関を募集し、「シンジケート団」という貸出銀行の集団を組成します。参加
金融機関に対する金額が割り当てられ、融資が実行されると、アレンジャーはそのままエージェントとなり、参加金融機関の代理人として融資契約の
総合管理にあたり、事務を一括して執行することになります。

シンジケート・ローンではコミットメント・ライン方式によるのがふつうであり、貸し手側では最大の貸出枠を設定しておき、その枠内で借り手企業の資金需要に
柔軟に対応します。リボルビング方式では、特段の臨時的な貸出事由というよりも、日常的な企業の資金需要への対処をターゲットにしているので、この
枠の中であれば、借り手企業では追加借入れ、返済をいつでも行うことが可能になっています。このため借り手企業では、資金需要の季節変動、つなぎ資
金の確保などに機敏に対応することが可能になるとともに、流動性を維持しながら余剰資金の保有を回避して、資金コストの削減を図ることができます。
コミットメント・ライン方式によるシンジケート・ローンでは貸出の最大限度の設定が大きな意味をもちますが、この貸出枠がリボルビング・クレジット・ファシ
リティと呼ばれています。金融機関からすればこのファシリティーの提供そのものが重要な金融サービスの1つになっており、このためファシリティーの供与
に対して対価が設定され、ファシリティー・フィーという料金の受渡しが行われます。

◆DESとDDS◆
会社が資金を調達するルートは2つしかなく、1つは株主の出資、もう1つは債権者からの借入れです。株主に出資を仰ぐと、その資金は会社の資本(純資産とも
株主資本ともいう)となりますし、債権者から借入れをしますと、その資金は会社の負債となります。会社の貸借対照表はこの関係を忠実に描写していますので、貸
借対照表の右側(貸方)を構成するのは、負債と資本の2つということになります。
会社の運営が順調にすすまないと、会社の資本がしだいに減少して、代わりに負債が増加していきます。資本がゼロまで減少すると、会社の貸借対照表の右側
(貸方)
はその100%が負債によって占められてしまいます。さらに状況が悪化すると、会社の資本はマイナスになって、会社の資産よりも負債の方が大きくなります。資本
がマイナスになったこの状況が「債務超過」であり、法律的にはともかく、この段階でその経営は形の上ですでに破綻しているといえます。債務超過であれば、会社の負債は
会社の資産をもってはもはや弁済しきれないからです。

さて、会社の運営が順調ではない場合には、負債が増えて、資本が減りますが、この傾向が一定限度を超えると、会社の建て直しが図られます。この会社再建に
あたっては負債を削減し、資本を増強することが最優先の課題となりますから、債務免除(債権切り捨て)、資本注入
(第三者割当増資)などの方策がまず検討され
ます。しかし、こうした正面突破の方策はなかなかうまくゆかず、通常は行き詰まります。債務免除というのは、債権者に借金の棒引きを迫ることですし、資本注入は、
破綻しかかっている会社に新たに資金の注ぎ込むことを意味するからです。
そこで、会社再建にあたっては債務免除とか、資本注入に代わる第三の途が模索されることになりますが、その1つがDESです。DESはDebt-Equity Swapの頭文字
で、日本語でいえば「負債と資本の交換」ということになります。このDESにおいては、まず新株を発行して増資を行いますが、この場合の増資では債権者がその引受人
になる点に特徴があります。新株の引受人に指定された債権者は資金の払込みを行う代わりに、手持ちの債権の金額をもって払込みに充当するのです。この変則的な増資が
終了すると、債権者が出資した金額だけ負債が減少し、他方で同額の資本が増加します。DESというのは負債を資本に振り替えるマジックであり、債
務超過に瀕している会社の実態はまったく変わっていないのに、あたかも健全な会社であるかのように装いだけが変えられるのです。
(注)DESの会計問題については、次を参照されたい。岡部 孝好、『最新 会計学のコア(三訂版)』(森山書店、2009年)、245-246ページ。
DESに代わるもう1つの窮余のマジックの方策が、DDSです。DDSはDebt-Debt Swapの頭文字で、日本に訳すと「負債と負債の交換」となります。ここでは同じ負債の
間での交換となっていますが、実際には負債の間に優劣があって、交換される負債の性格が違っています。一方の負債は普通の債権であり、他方の負債は劣後負債とな
るのがふつうですので、正確にいえば「普通負債と劣後負債との交換」ということになります。

負債の優劣としては、まず破綻時の弁済順位の差があります(注)。担保権を設定すれば破綻時の弁済は担保権保有者が優先されますが、担保の設定がない場合
には、通常の債権者への弁済順位はどれもが同列となり、差がないのが原則です。この場合には破綻時において、すべての債権者が平等の請求権をも
ちますので、破綻処理ではすべての債権者が会社の財産から同じ割合で、債務の弁済を受けることになるわけです。しかし、あえて差を設けるために「劣後の
特約」をつけると、この同列の弁済順位という平等の原則が崩れます。劣後特約がついた「劣後負債」では、破綻時の弁済順位が普通の債権よりも後に回りますので、
破綻処理では普通の債権者への弁済が完了し、それでもなお残余がある場合でなければ、劣後負債の債権者は弁済を受けられないことになります。
(注)負債の優劣を決めるものとしては、破綻時の弁済順位のほかに利子の支払条件などがある。劣後負債において利子の支払条件に差を設ける場合には、普通
負債に先に一定%の利子を支払い、なおも余裕がる場合に(たとえば配当可能な剰余金がある場合に)のみ、劣後負債に一定%の利子を支払うと取り決める。
会社の最終リスクの負担者は株主です。破綻時には株主はすべての負債を弁済した後に、なおも会社財産が残っていなければ、株主は残余財産の分配を受ける
ことはできません。ところが、負債に普通負債と劣後負債の2種類の負債が存在する場合には、債権者が2層に分化しています。このため、破綻処理にあたっては、
最初に普通負債の債権者に弁済し、第二段階として劣後負債の債権者に弁済し、第三段階になって株主に残余財産を分配することになります。普通負債の債権
者と株主との間に、劣後負債の債権者が介在するのがDDSの特徴ということになります。
DDSによって普通負債の一部が劣後負債に置き換えられた場合には、破綻処理では普通負債への弁済が優先されますので、劣後負債は弁済をまったく受けられ
ないケースが多くなります。劣後負債が弁済を受けられない場合においては、株主が受け取る残余財産は当然にゼロになります。つまり、破綻時には普通負債しか弁
済を受けられないというのが一般的な状況であるのなら、劣後負債は株式とほとんど同等であり、「負債」といっても「資本」に似たものになってしまいます。リスク・テイ
クという点からすると、劣後負債は株式とほぼ同じといえ、したがってDDSはDESに酷似してくるのです。
震災復興との関連において、最近では「資本性劣後ローン」、「資本的劣後ローン」、「資本性借入金」といった用語が飛び交っています。これらはDDSによって普通
負債の一部を劣後負債に変換し、これによって被災企業の再生を図ろうとするもののようです。DDSによって普通負債の一部を劣後負債に変えると、劣後負債が
資本的性格を帯びて、財務基盤が充実するとの考えによると推定されます。たしかに1つのアイデアではありますが、DESと同様に、窮余の一策になるかどうかはもう
少し成行きを見定める必要があります。
◆竹内街道と石光寺◆
竹内街道(たけのうちかいどう)というのは、堺の港と飛鳥の都を結んでいた古代の街道であり、
河内平野を横切り、奈良盆地に達する東西に拡がる要路です。
現在では国道166号としてひっきりなしに車が走っていますが、4世紀ごろでも人馬が頻繁に行き交っていたといわれ、飛鳥に旅した中国や朝鮮からの使節も、
また西の難波に向かった飛鳥の要人や、さらには難波から大陸に渡った飛鳥の文人も、この竹内街道を旅したというのです。竹内街道がわが国最初の「官道」に格上げさ
れたのは、飛鳥文化が華やかなりし7世紀のことだと記録に残されているといいます。この古道の中程において、北側に望める峰が、
二上山(にじょうさん)です。

二上山は海抜500Mほどの小山で、河内平野と奈良盆地を分かつ金剛山地の北端にあります。その山頂には雄岳と雌岳の2つの峰があります
が、奈良盆地の飛鳥側からみますと、夕陽は雄岳と雌岳の中間に沈みますので、二上山は聖なる山として飛鳥時代の人々に崇められ、多くの神話にこの山の名が
残されています。高松塚の古墳で使われている石も、聖なるこの二上山の麓にある石切り場で採れたものなのだそうです。
二上山の麓の竹内街道沿いに、花の寺として知られる石光寺(せっこうじ)があります。
葛城市染野と呼ばれている地区には、閑静な田園風景が拡がっていますが、
この山村に点在する古刹の1つが石光寺です。ぼたん、しゃくやく、あやめなどでもこの寺が知られていますが、雪のころの寒ぼたんが特に有名です。訪れたのは2
月中旬になってからのことで、寒ぼたんの旬はとうにすぎていましたが、稲わらの囲いの中にまだ2〜3の可憐な花が待っていてくれました(左の写真
は寒ぼたん、石光寺にて2012年02月20日撮影)。
石光寺には「中将姫」の伝説が伝えられていて、中将姫が織った糸を干した「糸掛け桜」、その糸を染めた「染めの井」が境内にあります。石光寺が「染寺」
という別名をもっているのも、またこの一帯の地名が「染野」と呼ばれるのも、中将姫の伝説によるもののようです。
◆日本の小売業における資産除去債務の計上◆
『資産除去債務』に関する会計基準が適用されはじめたのは、2010年4月1日以降開始する事業年度からであるから、2011年3月期にはすべての日本企業において
その認識が行われたことになる。資産除去債務というは旧来の会計基準ではオフバランスとして会計処理されていたもので、新しい会計基準の適用によって、新規に
「負債」として貸借対照表に登場することになった項目である。負債が増加すればそれに応じて費用が増加するから、資産除去債務の新規認識は利益を圧迫し、公
表利益をそれだけ引き下げることになる。景気が深刻な時期だけに、資産除去債務の導入がどれほど公表利益を押し下げるかが懸念されていたが、
小売業界についてその悪影響がどのほどのものかが、帝国データバンクによって精密にフォローされていることがわかった(下の花はローバイ、石光寺
にて2012年02月20日撮影)。

帝国データバンクでは、定期借地契約や建物の賃貸借契約を多く交わしている小売業の上場会社にターゲットを絞り、資産除去債務の会計基準が適用された影響
額を調査している。日本の小売業の上場会社300 社において、資産除去債務会計の適用による損失額は約1855 億円にのぼっているから、その影響額は決して小
さいものではないことがわかる。セブン&アイ・ホールディングスでは約225億円、イオンでは約178億円、ユニーでは約85億円の資産除去債務損失が計上されている。
そのなかには、ユニー、ローソン、ファミリーマートように、資産除去債務を認識しなければ赤字決算が回避できた会社も含まれているが、このように資産除去会計の適
用にともなって赤字決算になった会社は36社もあったという。

小売業における資産除去債務は環境汚染物質の除去によるものではなく、定期借地契約や建物の賃貸借契約によって発生する原状回復義務が大部分を占めると
いわれている。したがって、将来にわたって肥大するものではなく、毎年安定的に推移するものとみられている。この点で、小売業にかんするかぎり、その影響は一過
性のものといえるかもしれない(左の花はみつまた、石光寺にて2012年02月20日撮影)。
◎帝国データバンク、「特別企画 : 第2回小売業の資産除去債務の影響調査」
◆関経連、IFRSsの強制適用の取り止めを提言◆
会計基準の国際的収斂を実現する動きが急ピッチですすんでいて、日本企業に対して国際会計基準(IFRSs)を適用する問題については、
すでに詰めの段階にさしかかっているといえる。2010年3月期からは、そうしたい会社においてはIFRSsによって会計処理をしてもよいとする
任意適用ルールが日本でも採用されており(注)、すでに数社の日本企業が実際にIFRSsによって決算を行っている。目下の焦点は日本企業に
対してIFRSsを強制的に適用するかどうかであるが、一律に強制適用ということになると、現行の日本の会計基準はすべて廃棄と
いうことになるし、アメリカ上場の日本企業だけが使っている米国基準も、その使用が許されなくなってしまう。とすれば、強制適用の場合にも、
一部の会社だけに絞って強制するというのが現実的な考え方になるが、上場会社の連結会計だけにIFRSsを適用するというのもその具体案
の1つである。この方式によるとすれば、非上場会社にはIFRSsが適用されないだけでなく、上場会社でも個別決算には日本基準が適用され
ることになるから、従来と同様に、日本企業の会計基準は主として日本基準によるということになる。単連分離方式というのはこのやり方を指してお
り、単独(個別)決算と連結決算とを切り離し、さらに上場会社と非上場会社とを区別して、上場会社の連結決算だけにIFRSsを強制適用し
ようとするものである。ドイツなど、EU諸国のやり方に似た方式で、最も有力な選択肢とみられている(下のつばきは石光寺にて、2012年02月20日撮影)。

(注)2009年に企業会計審議会において「我が国における国際会計基準の取扱いに関する意見書(中間報告)」(以下、「中間報告」)がとりまとめられ、
2010年3月期から連結財務諸表にIFRSの任意適用を認めると同時に、2012年を目途に強制適用の是非を判断するという予定が明示された。
いつから強制適用に移行するかというタイミングの選択も重要な課題になっていて、このタイミングの選択は2012年までに決定すると、すでに公
約してしまっている。準備のための移行期間が3ー5年必要だとすれば、2015ー17年ごろにIFRSsへの完全転換という筋書きになるのではない
か、という見方が支配的である。いずれにしても、2012年というのは来年のことであり、時間は切迫している。またアメリカ上場会社は日本におい
ても米国基準によることができるというのも、2016年3月までの時限を切った特例措置であり、期限に到達してしまうと、米国基準も適用できなく
なる。
(注)1977年に米国基準による連結財務諸表の提出が特例として認められたが、2009年12月の内閣府令改正により2016年3月期をもって特例の
終了期限が設定された。しかし、IFRSsの強制適用が難しくなってきたこともあって、ことしなって金融庁ではこの特例期限を撤廃し、連結財務諸
表規則等も元に戻している。
金融庁では、企業会計審議会の審議を経て、この秋にもIFRSsの強制適用について結論を出すものと思われるが、この緊迫した情勢の中で、
関西経済連合会(関経連)はこのほど「わが国の国際会計基
準の取り扱いに関する提言」(2011/11/11)を発表して、日本企業に対してIFRSsを強制的に適用する方針を取り止め、従来の任意適用を
継続すべきだという意見を表明した。次がその提言の一部である。

現行の任意適用の方針を維持するとすれば、日本の上場企業は、日本基準を適用する会社、米国基準を適用する会社、IFRSsを適用する会
社の3群に分かれることになるから、会計情報の利用者側においては多少の混乱が生じることはさけられない。しかし、3つの会計基準は競争関
係におかれ、それぞれが鎬(しのぎ)を削って改良に改良を重ねて行かなければならないとすれば、会計基準はこれからも競争の中で進歩をつづけ、発展を
遂げていく可能性が大きい。IFRSsの独占的支配よりも、競争状態の方が、会計基準の改革には優れた環境になるとみる人が多い。
なお、現状をこのまま維持するとすれば、日本企業において日本基準、米国基準、IFRSsの3つの会計基準のどれが使われるかは会社の側に
おいて選択されることになるが、この選択が可能なのは上場会社に限ってのことであり、非上場会社においてもこの選択が認められるかどうかは、
まだ詰めの議論が残されている。日本企業は単体としては会社法の規定に拘束されているし、また法人税法も単体の個別決算を前提にしてい
るから、非上場の個別決算は会社法の計算規定によるのが原則であることはたしかである。しかし、会社法上も連結決算制度があるし、税法上
も連結納税制度が取り入れられているから、IFRSsを選択適用制にしたままでも、「単連分離」として単純に割り切れない部分がなおも残されて
いる。この点で、任意選択ルールを維持するとしても、未解決の問題が多いといえよう。
(注)なお、経団連もことしの春に意見を表明している。経団連の見解は「国際会計基準(IFRS)の適用に関する早期検討を求める
」(2011年6月29日)を参照されたい。
◆洞ヶ峠(再)◆
「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)というのは山城の国(いまの京都府)と河内の国(いまの大阪府)の境界にある高野街道の峠です。
この峠を訪ねて、小高い峠の辻から北を望むと、真下にとうとうと西に向けて流れる淀川がみえます。この淀川の北岸が大
山崎で、その背後には天王山がその峰々を連ねています。

天正10年(1582年)に、「本能寺の変」で明智光秀が織田信長を討った後、豊臣秀吉は高松城から「大返し」で秀吉が山城の国に駆け戻ってきました。
このとき光秀はこの大山崎に陣を敷いて、秀吉を迎え討とうとしました。この「山崎の合戦」では、大和の国の筒井順慶は光秀と秀吉の両方から加勢を
頼まれていましたが、いずれを助勢するかの決断がつかず、この洞ヶ峠まで軍を進めていたのに、合戦には加わらずに、大和の国に撤退してしまったと
いわれています。筒井順慶は光秀とは姻戚関係にあったにもかかわらず、光秀の形勢が危ういとみて、光秀への助勢を躊躇したことによるものです。し
かし、優柔不断に時間を引き延ばしたことが秀吉に結果的に有利な情勢をもたらしたために、この何もしなかったことが「戦功」と評価され、筒井順慶は
その後いろいろな形で報いを受けることができました。この
故事から、決断を避け、成行きまかせにすることによっておいしい結果を待つことを、いまでも「洞ヶ峠を決め込む」といっています。日和見主義に対する戒め、
として残っていることばです。

京都の山崎から洞ヶ峠を抜けて、南の高野山に向かう道筋は「高野道」といわれ、古くは巡礼の街道として使われていたといわれています。いまは住宅が建て
混んでいるこの洞ヶ峠一帯も、むかしは鬱蒼とした森の中にあり、夜中には幽霊が出ると恐れられたといいます。現在は4車線の国道1号線が横切り、一晩中、
大型トラックが行き交っていますが・・・・・・
京阪本線で京都から大阪へ向かうと、「樟葉」(くずは)という大きな駅があります。下車すると、駅北側の淀川河川敷にはゴルフ場が
拡がり、南側には高層モールが建ち並んでいます。駅前のバスターミナルから数系統のバスが出ていますが、昔の街道なのだから、洞ヶ峠までは歩けない距離ではありません。曲がりくねっている
道をたどっていけば、30-40分で着きます。峠には、茅葺の茶屋があり、一服できます。
◆「飛ばし」のカラクリ(再)◆
1.有価証券の会計ルール
保有している有価証券の時価が下落すると、取得価額と期末時価の差額として「有価証券評価損」が発生する。この評価損を認識するルールは強制適用と決められており(時価基準が採用される以前でも「著しい下落」には強制低価法が適用されていた)、会社の経営者に選択の余地はない。しかし、評価損を認識すると純利益が減少する(純損失が拡大する)し、純利益の減少、特に純損失の拡大は株価などに深刻な悪影響を及ぼしがちなので、経営者は評価損の認識を避けたいという思いに駆られることになる。「飛ばし」の動機となるのは、評価損の認識がもたらすと予想される経済的帰結(economic consequences)である。
2.「飛ばし」には協力会社が必要
A社が「飛ばし」をするとすれば、それに協力する受皿会社のB社が不可欠となるが、B社が上場会社である場合には、B社の決算日がA社と同じであってはならない。2社の決算日が同じであると、A社で隠した有価証券がB社の貸借対照表に載っていまい、「飛ばし」が露見する(*)。この点を具体例で示すために、ここではA社の決算日が3月末で、B社の決算日が5月末だと仮定しよう。
*B社が投資ファンドのような非上場会社であれば、貸借対照表の公開がないから、決算日が同じでも露見しないかもしれない。

3.株価の下落により評価損が発生
いまA社は買値100億円で取得した株式を保有しているが、2月末(決算1ケ月前)の時点で、その時価が40億円に下がっているとしよう。決算日の3月末までに多少回復するかもしれないし、さらに下落するかもしれない。いずれにしても、取得原価の100億円に戻るとは考えられないので、期末には50ー60億円の評価損を計上することを覚悟しなければならない。この評価損の計上が経営者にとって頭痛の種であり、何とかならないものか思い悩む。
4.有価証券の売却交渉
ここで「飛ばし」に手を出すと決断すれば、受皿会社が必要なので、2月末にB社に協力のお願いに参上する。A社の手持ちの株式は時価40億円であるが、B社にはこれを100億円で買い取っていただけないものか、と持ちかける。時価40億円の株式を100億円で買い取れというのだから、これは無理な商談であり、B社は当然に拒絶する。そこでA社では、取引条件を次のように修正する。 「もしこの株式を2月末に100億円で買い取っていただけるなら、その株式を4月末に110億円で買い戻す」と。
5.念書と取引の実行
B社では修正された取引条件を熟考してみると、悪い話ではない。2月末に100億円で株式を購入すると、2カ月後の4月末には110億円で売り抜けられる。たった2ケ月で10億円、率にして10%もの売却益を稼げる。しかし、A社が本当に約束を守るかどうかの不安があるから、たとえA社が優良会社だとしても、「念書」(side letter)を差し入れてほしいと要求する。念書には契約事項が文書化されており、A社の社長印によって買戻しが保証されていなければならない。こうして商談が成り立つと、A社の有価証券は2月末に100億円でB社によって買い取られ、同じ有価証券が4月末に110億円でA社によって買い戻される。代金は、銀行間の振替えによって、2回ともただちに決済される。
6.A社の決算内容
A社の決算日は3月末である。A社では問題の株式は決算日の1ケ月前に売却済みであり、影も形もない。取得原価100億円の有価証券は、2月末に同じ価額の100億円でB社に売却されており、売却損益ゼロになっている。代金も、銀行口座にまちがいなく振り込まれている。問題の有価証券そのものが不存在なのだから、期末に評価損を計上するといったことはまったく考慮外のことになる。A社の社長印を押した念書はB社側で保管されており、A社の社内を隈なく捜しても、出てくることはない。有価証券はA社から消えてなくなっているが、それに代わって最も信頼性の高い現金100億円がA社の銀行口座に入金されている。
7.B社の決算内容
他方、B社の決算日は5月末である。B社では2月末にA社より100億円で株式を購入し、同じ株式を4月末にA社に110億円で売却済みである。差額の10億円が有価証券売却益に計上されているが、この取引を裏付ける現金110億円はまちがいなくB社の銀行口座に振り込まれている。B社でも決算日には株式は存在しないから、その時価がいくらであろうと、評価損を計上するようなことにはなりえない。
8.A社のその後
A社では決算前に取得原価100億円の株式を100億円で売却し、決算が終わった後で110億円で買い戻している。新しい取得原価は110億円で、以前よりも高くなっている。この買戻しの後において、A社にとっての唯一の希望の光は、株価の高騰である。次の決算日までに株価が110億円まで上昇すれば、売却損も評価損も出さずにすむ。10億円だけ損をしているが、巨額の評価損の表面化を回避できたわけだから、ヤレヤレと胸をなで下ろす。

しかし、40億円前後のいまの株価水準がつづくとすれば、次期にもまた110億円よりも高い価額で、「飛ばし」をやらなければならない。「飛ばし」を繰り返すごとに、取得原価が上昇し、「飛ばし」の条件は厳しくなる。1年で10%だけ取得原価が上昇するという穏やかなケースを考えても、10回繰り返しと(1.0+0.1)の10乗
になるから、260億円まで取得原価は高騰する勘定になる。時価が40億円のままであれば、評価損は210億円に膨らんでくる。
9.「飛ばし」の特徴
「飛ばし」は実際の市場取引を通じて行う会計不正であり、この点で実体的裁量行動(real discretion)の一種だといえる。山一証券の破綻時に表面化した手口
なのだから、かなり古くから知られてきたものである。それにもかかわらず、その摘発が容易でないのは、その手口が巧妙で、ベテランの会計士でもなかなか発
見できないことによる。次のような点にその特徴がある。
(1) 「飛ばし」は有価証券の所在を一時的に社外に移し替え、これによって決算の対象となるのを避け、監査の網を掻い潜る策略である。「飛ばし」を受けた有価証券はA社の貸借対照表にもB社の貸借対照表にも載せられず、両方から脱漏する。
(2) 「飛ばし」の対象となる有価証券も、また買戻しの念書も、決算日(および監査期間中)には社外に置かれており、したがって社内をいかに捜しても現物を視認することはできない。監査人、会計士は社外に証拠を求めなければならないが、これは、簡単なことではない。
(3) 代金の決済が最も確実なゲンナマによって行われるため、有価証券の売買取引が仮装的なものかもしれないという疑いが湧いてこない。
(4) 売買の取引証拠が揃えられており、取引の形式が十分に整えられている。売買取引に証券ブローカーなどが介在すると、取引の外形はいっそう
強く固められ、客観的な形式に装われている。
◆ケイマン諸島(再)◆
カリブ海に浮かぶケイマン諸島(cayman islands)というのは、島民がわずか4万人しか居住していない小島でしかない。それなのに、このカリブ海の小島は、
2重の意味で地球の楽園である。まず第1は、アメリカ本土から掛け離れた、夢の南の島である。
ケイマン諸島にはスキューバダイビング、フッシング、海水浴などに絶好の磯や長いビーチがあり、一年を通じて、
さんさんと輝く太陽下で浜辺の潮風を満喫することができる。ビーチサイドには高級ホテルと豪華なレストランが立ち並ん
でいるし、夜にはカジノ、コンサート、オペラなどが待っている。それだから、フロリダからでも遠く、
航空便も船便も定期便はないのに、リッチな観光客がこの島に絶えることはない。大型のヨットかクルーザーを駆って、あるいは自家
用機を操縦して、この小島にやってくる。

第二に、ケイマン諸島は新興ビジネスの経営者にとって天国である。ケイマン諸島は英領ということらしいが、どうしたこ
とか法人税制がない。そこで、このケイマン諸島で会社を設立しておくと、いかに大金を儲けても税金に追われることは
ない。このケイマン諸島は、「タックスヘイブン」、「無税の天国」なのである。そこで、世界中の新興ビジネスの経営者た
ちはこの恩恵に浴するために、わざわざケイマン諸島にやってきて、本社の所在地をケイマン諸島と登録する。ビーチサイ
ドに群れをなす高層ビルには、銀行、証券などの金融会社、法律事務所、会計事務所、コンサル会社が入居しい
て、こうした新興ビジネス・パーソンへのサービスを競っている。
このケイマン諸島は、スリラー小説によくでてくるが、新聞にもときどき載る。だいたいは脱税とか横領といった経済犯罪に
からんでいるが、今回のオリンパス事件のように、会計不正に利用されることもある。幽霊会社をケイマン諸島に設立し、そ
の幽霊会社との取引を仕組んで、決算をごまかすわけである。
◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定◆
アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう4年間の
開催予定は、次のように発表されています。
□ August 4-8,2012 Washinton DC
□ August 3-7,2013 Anaheim, California
□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia
□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois
なお、日本会計研究学会における2012年度の開催校は一橋大学と決定されています。
◆神戸高商の初代校長水島銕也と雑誌「會計」の創刊(再)◆
神戸高商の初代校長となった水島銕也(みずしまてつや)は明治20年(1887年)に高等商業学校(のち東京高商、東京商大、一橋大学)を卒業し、
そのまま高商の嘱託教師を勤めることになりましたが、すぐに府立大阪商業学校(のち大阪高商、大阪商大、大阪市立大学)の教諭兼校長心得を拝命して、
大阪でビジネス教育を展開しはじめました。しかし、大阪でのビジネス教育は思ったようにはうまくいかず、1年半ほどで辞任しています。
すぐに藤田組に入社しましたが、1年ほどすると恐慌のあおりを受けて、この会社も退社しなければならなくなりました。そこで東京に舞
い戻り、横浜正金銀行(のち東京銀行)に入行し、ここで金融・為替業務の実務を身をもって体験することになります。横浜正金銀行入行後2年目
には、ニューヨーク出張所詰という絶好の機会を与えられ、海外勤務に従事することになりました。

しかし、2年後の明治28年(1895年)には病によりニューヨークから帰国し、横浜正金銀行も辞めることになりました。このとき、水島銕也は年齢が33歳
に達していて、高商卒業からすでに10年が経っていました。その水島銕也に母校高等商業への復帰を勧めたのが、同期生の高等商業教授下野直
太郎です。水島銕也は、明治29年(1896年)に下野教授の誘いを受け入れ、高等商業で銀行簿記、外国為替論を教えはじめました。
明治33(1900)年になると、神戸に第二高等商業学校を創立する話が持ち上がり、水島銕也はその創立準備委員のひとりに任命されました。
この第二高商の校地を大阪にするか神戸にするかで紛糾しましたが、帝国議会の票決では大阪が70票、神戸が71票となり、1票差で神戸に
することが決定されました。明治35年3月には「神戸高等商業学校」を「神戸市葺合町筒井村籠池」に開校することが正式に告示され、翌明治36(1903)年に水島銕也がその初代校長に発令され、5月15日より講義が始まりました。水島銕也はこのとき40歳になっていました(写真は六甲台キャンパスの出光佐三記念六甲台講堂前の胸像。神戸高商開校20周年記念式・大学昇格決定祝賀式における寿像で、碑文は渋沢栄一、彫塑は朝倉文夫によっている)。
神戸高商は4年制(予科1年、本科3年)でしたので、明治40年(1907年)には最初の卒業生を実業界に送り出すことができましたし、神戸高商のビジネス教育も内容が固まってきて、高商の運営も軌道に乗ってきていました。そこで、水島銕也は欧米視察旅行へ出かけることにし、先進国の会計制度、会計教育を精力的に調べ、会計監査の実務を詳細に研究してきました。帰国後すぐに「会計士制度」について論文を発表するとともに、同僚の東 五郎(ひがしせきごろう)教授を2年間、欧米に派遣して、さらに会計学と会計監査の研究に当たらせました。

帰国した東 五郎は、明治43(1910)年に神戸高商にわが国に初めて開設された「会計学」講座を担当し、欧米式の先端的な会計学教育をはじめました。
東 五郎は会計学の学術的研究の重要性に覚醒し、同僚たちとも諮って、大正2年(1913年)にまず「神戸会計学会」を創設し、さらに大正6年(1917年)には
全国規模の「日本会計学会」を創立しました。この「日本会計学会」の機関誌として生まれたのが、雑誌「會計」です。「日本会計学会」は1938年に
「日本会計研究学会」に改組されましたが、雑誌「會計」はそのまま受け継がれ、今日に至っています。
東京高商において東 五郎は水島銕也と同期生であり、開校とともに二人は一緒に神戸高商に来て、その後の会計教育を二人で牽引していきました。
会計の理論研究も、また会計制度の構築も二人の協力のもとに、神戸高商をベースにして展開されていったのです。雑誌「會計」は東 五郎
によって創刊されたものですが、その創刊号に水島銕也が「創刊の辞」を執筆しているのは、このような事情によるものです。
《参考文献》
中野常男、「わが国における会計史研究の萌芽――東 五郎の簿記史研究を中心として――」、『国民経済雑誌』第204巻3号(2011年9月)、1-20頁。
平井泰太郎、『水島銕也』(日本経済新聞社、1934年)。
水島銕也、「欧米ニ於ケル会計士制度」、『国民経済雑誌』第6巻3号(1909年3月)、91-112頁。
◆日本の人口減(再)◆
日本の人口は、江戸に徳川幕府が開かれた1603年には1,227万人であったと推定されています。その後日本の人口は増えつづけましたが、特に江戸
の人口増加率は著しく、江戸の街は世界一の大都市に発展していきました。江戸の人口は18世紀初頭にすでに100万人であったといいますから、当時70万人の
ロンドンより大きかったわけです。
徳川幕府は260年をもって閉じられましたが、明治の文明開化を迎えたときには、日本の人口は江戸開幕時の3倍に膨張していて、3,330万人にな
っていたといわれています。それからさらに時を経て、第二次世界大戦が終結した1945年の人口は7,199万人だったといいますから、明治維新からの
77年間で日本の人口は倍増していた計算になります。そして、最も直近の2004年の人口統計は12,784万人を示しており、過去最高の数字になってい
ます。第二次世界大戦の終結から数えて5,585万人の増加、率にして77.5%増になります。

しかし、2004年はピークの年であり、その後はすこしづつ減ってきています。この下り坂もだんだん激しくなっていくと予想されており、2020年ごろから急
激に減少するものと推定されています。日本では、いま有史以来初めて人口縮小に向かう境目にあるのです。
現時点においても、この縮小の兆候は顕著に現れています。農漁村では過疎が進展しており、老人ばかりの集落に変わってきています。山間部では小中学校
が廃校になって、無人の校舎だけが残っているところが多数あります。田舎の商業施設はどこもかしこもガラガラで、シャッター通りがあちこちにあります。
無医村というのはいまではありふれたことですが、最近よく話題にのぼるのはでは「買い物難民」です。空洞化がすすんで、食品の調達がむつかしくなると、
健康な人々にとっても、日常生活を維持するのが容易でなくなるのです。

1950年代の高度成長期には都市の人口が爆発的に増加し、都市部では住宅、公共施設など、何もか
も供給が追いつかなくなったことがあります。日本列島は不均等に発展し、大都市ばかりが異様に肥大したのです。現在ではこの人口増加傾向が反転し
て、人口減少に向かっていますが、この人口減少もまた均等に進展しそうにありません。全国的に住宅や公共施設は過剰となっていきますが、一部にお
いてその過剰がはなはだしくなる傾向があります。過疎化も不均等にすすみ、一部だけが極端に空洞化するおそれがあるのです。空き家、空き事務所、
空き工場が増加して、都市部においても部分的にゴーストタウン化がすすむ可能性があります。
人口分布の偏りといえば、少子高齢化がよく話題にされます。この少子高齢化は年齢別の人口分布の偏りであり、地域分布の偏りではないのです。日本
の人口が減少していきますと、年齢別の分布が偏るだけでなく、地域別の分布もまた偏ってきますので、これらの両方に目を光らせるがことが重要になっ
てきます。
◆次回の更新◆
もうすぐ花の盛りを迎えます。次回の更新は05月を予定しています。早春の日々を、お元気にて楽しみください。
ごきげんよう、さようなら。
2012.02.29
OBENET
代表 岡部 孝好

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