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 to New Version(November 20, 2011)




2011年11月版へのメッセージ


OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆秋深し◆

  秋も深まり、風も冷たくなりましたが、皆さまいかがおすごしでしょうか。同志社大学の学園祭「イヴ祭」は11月末からのことになりますので、 これからです。3階建のビルの高さほどもある巨大なクリスマス・ツリーが図書館前で夜空に輝きだすと、賑やかなイヴ祭の始まりです。 イヴ祭はまたクリスマスの始まりでもありますので、いよいよ本格的な冬に向かうことになります(下の写真は長岡京市粟生の浄土宗総本山光明寺の山門、2011年11月12日撮影)。

  京都に観光客が最も多く訪れるのは11月で、桜の4月やサツキの5月よりも、このもみじのシーズンが一番多いといわれています。ことしは震災の影 響で例年に比べるとかなり少ないということですが、それでも電車の混みようはたいへんなもので、阪急も京阪も、始発駅まで行かない と座れない状況になっています。シニアのグループの方には景色よりもグルメが本命らしく、特急電車の中で耳にするのはレストランとか 料理の話ばかりです。車内は賑々しく、とても堅い本など読めたものではありませんが、明るい雰囲気に癒されています。

◆関経連、IFRSsの強制適用の取り止めを提言◆

  会計基準の国際的収斂を実現する動きが急ピッチですすんでいて、日本企業に対して国際会計基準(IFRSs)を適用する問題については、 すでに詰めの段階にさしかかっているといえる。2010年3月期からは、そうしたい会社においてはIFRSsによって会計処理をしてもよいとする 任意適用ルールが日本でも採用されており(注)、すでに数社の日本企業が実際にIFRSsによって決算を行っている。目下の焦点は日本企業に 対してIFRSsを強制的に適用するかどうかであるが、一律に強制適用ということになると、現行の日本の会計基準はすべて廃棄と いうことになるし、アメリカ上場の日本企業だけが使っている米国基準も、その使用が許されなくなってしまう。とすれば、強制適用の場合にも、 一部の会社だけに絞って強制するというのが現実的な考え方になるが、上場会社の連結会計だけにIFRSsを適用するというのもその具体案 の1つである。この方式によるとすれば、非上場会社にはIFRSsが適用されないだけでなく、上場会社でも個別決算には日本基準が適用され ることになるから、従来と同様に、日本企業の会計基準は主として日本基準によるということになる。単連分離方式というのはこのやり方を指してお り、単独(個別)決算と連結決算とを切り離し、さらに上場会社と非上場会社とを区別して、上場会社の連結決算だけにIFRSsを強制適用し ようとするものである。ドイツなど、EU諸国のやり方に似た方式で、最も有力な選択肢とみられている。

(注)2009年に企業会計審議会において「我が国における国際会計基準の取扱いに関する意見書(中間報告)」(以下、「中間報告」)がとりまとめられ、 2010年3月期から連結財務諸表にIFRSの任意適用を認めると同時に、2012年を目途に強制適用の是非を判断するという予定が明示された。

  いつから強制適用に移行するかというタイミングの選択も重要な課題になっていて、このタイミングの選択は2012年までに決定すると、すでに公 約してしまっている。準備のための移行期間が3ー5年必要だとすれば、2015ー17年ごろにIFRSsへの完全転換という筋書きになるのではない か、という見方が支配的である。いずれにしても、2012年というのは来年のことであり、時間は切迫している。またアメリカ上場会社は日本におい ても米国基準によることができるというのも、2016年3月までの時限を切った特例措置であり、期限に到達してしまうと、米国基準も適用できなく なる。

(注)1977年に米国基準による連結財務諸表の提出が特例として認められたが、2009年12月の内閣府令改正により2016年3月期をもって特例の 終了期限が設定された。しかし、IFRSsの強制適用が難しくなってきたこともあって、ことしなって金融庁ではこの特例期限を撤廃し、連結財務諸 表規則等も元に戻している。

  金融庁では、企業会計審議会の審議を経て、この秋にもIFRSsの強制適用について結論を出すものと思われるが、この緊迫した情勢の中で、 関西経済連合会(関経連)はこのほど「わが国の国際会計基 準の取り扱いに関する提言」(2011/11/11)を発表して、日本企業に対してIFRSsを強制的に適用する方針を取り止め、従来の任意適用を 継続すべきだという意見を表明した。次がその提言の一部である。

 

  現行の任意適用の方針を維持するとすれば、日本の上場企業は、日本基準を適用する会社、米国基準を適用する会社、IFRSsを適用する会 社の3群に分かれることになるから、会計情報の利用者側においては多少の混乱が生じることはさけられない。しかし、3つの会計基準は競争関 係におかれ、それぞれが鎬(しのぎ)を削って改良に改良を重ねて行かなければならないとすれば、会計基準はこれからも競争の中で進歩をつづけ、発展を 遂げていく可能性が大きい。IFRSsの独占的支配よりも、競争状態の方が、会計基準の改革には優れた環境になるとみる人が多い。

  なお、現状をこのまま維持するとすれば、日本企業において日本基準、米国基準、IFRSsの3つの会計基準のどれが使われるかは会社の側に おいて選択されることになるが、この選択が可能なのは上場会社に限ってのことであり、非上場会社においてもこの選択が認められるかどうかは、 まだ詰めの議論が残されている。日本企業は単体としては会社法の規定に拘束されているし、また法人税法も単体の個別決算を前提にしてい るから、非上場の個別決算は会社法の計算規定によるのが原則であることはたしかである。しかし、会社法上も連結決算制度があるし、税法上 も連結納税制度が取り入れられているから、IFRSsを選択適用制にしたままでも、「単連分離」として単純に割り切れない部分がなおも残されて いる。この点で、任意選択ルールを維持するとしても、未解決の問題が多いといえよう。

(注)なお、経団連もことしの春に意見を表明している。経団連の見解は「国際会計基準(IFRS)の適用に関する早期検討を求める 」(2011年6月29日)を参照されたい。

◆洞ヶ峠◆

  「洞ヶ峠」(ほらがとうげ)というのは山城の国(いまの京都府)と河内の国(いまの大阪府)の境界にある高野街道の峠です。 この峠を訪ねて、小高い峠の辻から北を望むと、真下にとうとうと西に向けて流れる淀川がみえます。この淀川の北岸が大 山崎で、その背後には天王山がその峰々を連ねています。

  天正10年(1582年)に、「本能寺の変」で明智光秀が織田信長を討った後、豊臣秀吉は高松城から「大返し」で秀吉が山城の国に駆け戻ってきました。 このとき光秀はこの大山崎に陣を敷いて、秀吉を迎え討とうとしました。この「山崎の合戦」では、大和の国の筒井順慶は光秀と秀吉の両方から加勢を 頼まれていましたが、いずれを助勢するかの決断がつかず、この洞ヶ峠まで軍を進めていたのに、合戦には加わらずに、大和の国に撤退してしまったと いわれています。筒井順慶は光秀とは姻戚関係にあったにもかかわらず、光秀の形勢が危ういとみて、光秀への助勢を躊躇したことによるものです。し かし、優柔不断に時間を引き延ばしたことが秀吉に結果的に有利な情勢をもたらしたために、この何もしなかったことが「戦功」と評価され、筒井順慶は その後いろいろな形で報いを受けることができました。この 故事から、決断を避け、成行きまかせにすることによっておいしい結果を待つことを、いまでも「洞ヶ峠を決め込む」といっています。日和見主義に対する戒め、 として残っていることばです。

  京都の山崎から洞ヶ峠を抜けて、南の高野山に向かう道筋は「高野道」といわれ、古くは巡礼の街道として使われていたといわれています。いまは住宅が建て 混んでいるこの洞ヶ峠一帯も、むかしは鬱蒼とした森の中にあり、夜中には幽霊が出ると恐れられたといいます。現在は4車線の国道1号線が横切り、一晩中、 大型トラックが行き交っていますが・・・・・・

  京阪本線で京都から大阪へ向かうと、「樟葉」(くずは)という大きな駅があります。下車すると、駅北側の淀川河川敷にはゴルフ場が 拡がり、南側には高層モールが建ち並んでいます。駅前のバスターミナルから数系統のバスが出ていますが、昔の街道なのだから、洞ヶ峠までは歩けない距離ではありません。曲がりくねっている 道をたどっていけば、30-40分で着きます。峠には、茅葺の茶屋があり、一服できます。

◆「飛ばし」のカラクリ◆

1.有価証券の会計ルール

  保有している有価証券の時価が下落すると、取得価額と期末時価の差額として「有価証券評価損」が発生する。この評価損を認識するルールは強制適用と決められており(時価基準が採用される以前でも「著しい下落」には強制低価法が適用されていた)、会社の経営者に選択の余地はない。しかし、評価損を認識すると純利益が減少する(純損失が拡大する)し、純利益の減少、特に純損失の拡大は株価などに深刻な悪影響を及ぼしがちなので、経営者は評価損の認識を避けたいという思いに駆られることになる。「飛ばし」の動機となるのは、評価損の認識がもたらすと予想される経済的帰結(economic consequences)である。

2.「飛ばし」には協力会社が必要

  A社が「飛ばし」をするとすれば、それに協力する受皿会社のB社が不可欠となるが、B社が上場会社である場合には、B社の決算日がA社と同じであってはならない。2社の決算日が同じであると、A社で隠した有価証券がB社の貸借対照表に載っていまい、「飛ばし」が露見する(*)。この点を具体例で示すために、ここではA社の決算日が3月末で、B社の決算日が5月末だと仮定しよう。 *B社が投資ファンドのような非上場会社であれば、貸借対照表の公開がないから、決算日が同じでも露見しないかもしれない。

3.株価の下落により評価損が発生

  いまA社は買値100億円で取得した株式を保有しているが、2月末(決算1ケ月前)の時点で、その時価が40億円に下がっているとしよう。決算日の3月末までに多少回復するかもしれないし、さらに下落するかもしれない。いずれにしても、取得原価の100億円に戻るとは考えられないので、期末には50ー60億円の評価損を計上することを覚悟しなければならない。この評価損の計上が経営者にとって頭痛の種であり、何とかならないものか思い悩む。

4.有価証券の売却交渉

  ここで「飛ばし」に手を出すと決断すれば、受皿会社が必要なので、2月末にB社に協力のお願いに参上する。A社の手持ちの株式は時価40億円であるが、B社にはこれを100億円で買い取っていただけないものか、と持ちかける。時価40億円の株式を100億円で買い取れというのだから、これは無理な商談であり、B社は当然に拒絶する。そこでA社では、取引条件を次のように修正する。 「もしこの株式を2月末に100億円で買い取っていただけるなら、その株式を4月末に110億円で買い戻す」と。

   

5.念書と取引の実行

  B社では修正された取引条件を熟考してみると、悪い話ではない。2月末に100億円で株式を購入すると、2カ月後の4月末には110億円で売り抜けられる。たった2ケ月で10億円、率にして10%もの売却益を稼げる。しかし、A社が本当に約束を守るかどうかの不安があるから、たとえA社が優良会社だとしても、「念書」(side letter)を差し入れてほしいと要求する。念書には契約事項が文書化されており、A社の社長印によって買戻しが保証されていなければならない。こうして商談が成り立つと、A社の有価証券は2月末に100億円でB社によって買い取られ、同じ有価証券が4月末に110億円でA社によって買い戻される。代金は、銀行間の振替えによって、2回ともただちに決済される。

6.A社の決算内容

  A社の決算日は3月末である。A社では問題の株式は決算日の1ケ月前に売却済みであり、影も形もない。取得原価100億円の有価証券は、2月末に同じ価額の100億円でB社に売却されており、売却損益ゼロになっている。代金も、銀行口座にまちがいなく振り込まれている。問題の有価証券そのものが不存在なのだから、期末に評価損を計上するといったことはまったく考慮外のことになる。A社の社長印を押した念書はB社側で保管されており、A社の社内を隈なく捜しても、出てくることはない。有価証券はA社から消えてなくなっているが、それに代わって最も信頼性の高い現金100億円がA社の銀行口座に入金されている。

7.B社の決算内容

  他方、B社の決算日は5月末である。B社では2月末にA社より100億円で株式を購入し、同じ株式を4月末にA社に110億円で売却済みである。差額の10億円が有価証券売却益に計上されているが、この取引を裏付ける現金110億円はまちがいなくB社の銀行口座に振り込まれている。B社でも決算日には株式は存在しないから、その時価がいくらであろうと、評価損を計上するようなことにはなりえない。

8.A社のその後

  A社では決算前に取得原価100億円の株式を100億円で売却し、決算が終わった後で110億円で買い戻している。新しい取得原価は110億円で、以前よりも高くなっている。この買戻しの後において、A社にとっての唯一の希望の光は、株価の高騰である。次の決算日までに株価が110億円まで上昇すれば、売却損も評価損も出さずにすむ。10億円だけ損をしているが、巨額の評価損の表面化を回避できたわけだから、ヤレヤレと胸をなで下ろす。

  しかし、40億円前後のいまの株価水準がつづくとすれば、次期にもまた110億円よりも高い価額で、「飛ばし」をやらなければならない。「飛ばし」を繰り返すごとに、取得原価が上昇し、「飛ばし」の条件は厳しくなる。1年で10%だけ取得原価が上昇するという穏やかなケースを考えても、10回繰り返しと(1.0+0.1)の10乗 になるから、260億円まで取得原価は高騰する勘定になる。時価が40億円のままであれば、評価損は210億円に膨らんでくる。

9.「飛ばし」の特徴

  「飛ばし」は実際の市場取引を通じて行う会計不正であり、この点で実体的裁量行動(real discretion)の一種だといえる。山一証券の破綻時に表面化した手口 なのだから、かなり古くから知られてきたものである。それにもかかわらず、その摘発が容易でないのは、その手口が巧妙で、ベテランの会計士でもなかなか発 見できないことによる。次のような点にその特徴がある。

(1) 「飛ばし」は有価証券の所在を一時的に社外に移し替え、これによって決算の対象となるのを避け、監査の網を掻い潜る策略である。「飛ばし」を受けた有価証券はA社の貸借対照表にもB社の貸借対照表にも載せられず、両方から脱漏する。

(2) 「飛ばし」の対象となる有価証券も、また買戻しの念書も、決算日(および監査期間中)には社外に置かれており、したがって社内をいかに捜しても現物を視認することはできない。監査人、会計士は社外に証拠を求めなければならないが、これは、簡単なことではない。

(3) 代金の決済が最も確実なゲンナマによって行われるため、有価証券の売買取引が仮装的なものかもしれないという疑いが湧いてこない。

(4) 売買の取引証拠が揃えられており、取引の形式が十分に整えられている。売買取引に証券ブローカーなどが介在すると、取引の外形はいっそう 強く固められ、客観的な形式に装われている。

 

◆ケイマン諸島◆

  カリブ海に浮かぶケイマン諸島(cayman islands)というのは、島民がわずか4万人しか居住していない小島でしかない。それなのに、このカリブ海の小島は、 2重の意味で地球の楽園である。まず第1は、アメリカ本土から掛け離れた、夢の南の島である。 ケイマン諸島にはスキューバダイビング、フッシング、海水浴などに絶好の磯や長いビーチがあり、一年を通じて、 さんさんと輝く太陽下で浜辺の潮風を満喫することができる。ビーチサイドには高級ホテルと豪華なレストランが立ち並ん でいるし、夜にはカジノ、コンサート、オペラなどが待っている。それだから、フロリダからでも遠く、 航空便も船便も定期便はないのに、リッチな観光客がこの島に絶えることはない。大型のヨットかクルーザーを駆って、あるいは自家 用機を操縦して、この小島にやってくる。

  第二に、ケイマン諸島は新興ビジネスの経営者にとって天国である。ケイマン諸島は英領ということらしいが、どうしたこ とか法人税制がない。そこで、このケイマン諸島で会社を設立しておくと、いかに大金を儲けても税金に追われることは ない。このケイマン諸島は、「タックスヘイブン」、「無税の天国」なのである。そこで、世界中の新興ビジネスの経営者た ちはこの恩恵に浴するために、わざわざケイマン諸島にやってきて、本社の所在地をケイマン諸島と登録する。ビーチサイ ドに群れをなす高層ビルには、銀行、証券などの金融会社、法律事務所、会計事務所、コンサル会社が入居しい て、こうした新興ビジネス・パーソンへのサービスを競っている。

  このケイマン諸島は、スリラー小説によくでてくるが、新聞にもときどき載る。だいたいは脱税とか横領といった経済犯罪に からんでいるが、今回のオリンパス事件のように、会計不正に利用されることもある。幽霊会社をケイマン諸島に設立し、そ の幽霊会社との取引を仕組んで、決算をごまかすわけである(下の写真は京都市西区大原野小塩の善峰寺(よしみねてら)の「遊龍の松」。 樹齢600年の五葉松で、幹の直径は1mほどもある。2011年11月12日撮影。堀川通りの八百屋の娘「お玉」が「玉の輿」に乗って、5代将軍綱吉の生母の 桂昌院になったが、その桂昌院ゆかりの寺がこの善峰寺である。))。

◆アメリカ会計学会(AAA)年次大会の将来の開催予定◆

  アメリカ会計学会(AAA)では、将来の年次大会の開催日程と開催地を公表しています。向こう4年間の 開催予定は、次のように発表されています。

□ August 4-8,2012 Washinton DC

□ August 3-7,2013 Anaheim, California

□ August 2-6,2014 Atlanta, Georgia

□ August 8-12,2015 Chicago, Illinois

 なお、日本会計研究学会における2012年度の開催校は一橋大学と決定されています。

◆神戸高商の初代校長水島銕也と雑誌「會計」の創刊◆

  神戸高商の初代校長となった水島銕也(みずしまてつや)は明治20年(1887年)に高等商業学校(のち東京高商、東京商大、一橋大学)を卒業し、 そのまま高商の嘱託教師を勤めることになりましたが、すぐに府立大阪商業学校(のち大阪高商、大阪商大、大阪市立大学)の教諭兼校長心得を拝命して、 大阪でビジネス教育を展開しはじめました。しかし、大阪でのビジネス教育は思ったようにはうまくいかず、1年半ほどで辞任しています。 すぐに藤田組に入社しましたが、1年ほどすると恐慌のあおりを受けて、この会社も退社しなければならなくなりました。そこで東京に舞 い戻り、横浜正金銀行(のち東京銀行)に入行し、ここで金融・為替業務の実務を身をもって体験することになります。横浜正金銀行入行後2年目 には、ニューヨーク出張所詰という絶好の機会を与えられ、海外勤務に従事することになりました(写真は京都市西区大原野小塩の善峰寺(よしみねてら)にて、2011年11月12日撮影。)。

  しかし、2年後の明治28年(1895年)には病によりニューヨークから帰国し、横浜正金銀行も辞めることになりました。このとき、水島銕也は年齢が33歳 に達していて、高商卒業からすでに10年が経っていました。その水島銕也に母校高等商業への復帰を勧めたのが、同期生の高等商業教授下野直 太郎です。水島銕也は、明治29年(1896年)に下野教授の誘いを受け入れ、高等商業で銀行簿記、外国為替論を教えはじめました。

  明治33(1900)年になると、神戸に第二高等商業学校を創立する話が持ち上がり、水島銕也はその創立準備委員のひとりに任命されました。 この第二高商の校地を大阪にするか神戸にするかで紛糾しましたが、帝国議会の票決では大阪が70票、神戸が71票となり、1票差で神戸に することが決定されました。明治35年3月には「神戸高等商業学校」を「神戸市葺合町筒井村籠池」に開校することが正式に告示され、翌明治36(1903)年に水島銕也がその初代校長に発令され、5月15日より講義が始まりました。水島銕也はこのとき40歳になっていました(写真は六甲台キャンパスの出光佐三記念六甲台講堂前の胸像。神戸高商開校20周年記念式・大学昇格決定祝賀式における寿像で、碑文は渋沢栄一、彫塑は朝倉文夫によっている)

  神戸高商は4年制(予科1年、本科3年)でしたので、明治40年(1907年)には最初の卒業生を実業界に送り出すことができましたし、神戸高商のビジネス教育も内容が固まってきて、高商の運営も軌道に乗ってきていました。そこで、水島銕也は欧米視察旅行へ出かけることにし、先進国の会計制度、会計教育を精力的に調べ、会計監査の実務を詳細に研究してきました。帰国後すぐに「会計士制度」について論文を発表するとともに、同僚の東五郎(ひがしせきごろう)教授を2年間、欧米に派遣して、さらに会計学と会計監査の研究に当たらせました。

  帰国した東五郎は、明治43(1910)年に神戸高商にわが国に初めて開設された「会計学」講座を担当し、欧米式の先端的な会計学教育をはじめました。 東五郎は会計学の学術的研究の重要性に覚醒し、同僚たちとも諮って、大正2年(1913年)にまず「神戸会計学会」を創設し、さらに大正6年(1917年)には 全国規模の「日本会計学会」を創立しました。この「日本会計学会」の機関誌として生まれたのが、雑誌「會計」です。「日本会計学会」は1938年に 「日本会計研究学会」に改組されましたが、雑誌「會計」はそのまま受け継がれ、今日に至っています。

  東京高商において東五郎は水島銕也と同期生であり、開校とともに二人は一緒に神戸高商に来て、その後の会計教育を二人で牽引していきました。 会計の理論研究も、また会計制度の構築も二人の協力のもとに、神戸高商をベースにして展開されていったのです。雑誌「會計」は東五郎 によって創刊されたものですが、その創刊号に水島銕也が「創刊の辞」を執筆しているのは、このような事情によるものです。

《参考文献》

中野常男、「わが国における会計史研究の萌芽――東五郎の簿記史研究を中心として――」、『国民経済雑誌』第204巻3号(2011年9月)、1-20頁。

平井泰太郎、『水島銕也』(日本経済新聞社、1934年)。

水島銕也、「欧米ニ於ケル会計士制度」、『国民経済雑誌』第6巻3号(1909年3月)、91-112頁。

(京都市西区大原野小塩の善峰寺にて、2011年11月12日撮影。

◆収益認識に関する新しい会計基準を巡って◆

  アメリカの財務会計基準審議会(FASB)と国際会計基準審議会(IASB)は収益認識基準に関する共同プロジェクトに取り組んできているが、昨年(2010年6月)、新しい会計基準IFRSの公開草案(Exposure Drat)を取りまとめ、「顧客との契約による収益」(Revenue from Contracts with Customers)として公表している。この公開草案はパブリック・コメントを受けて原案の一部を修正し、2011年中にもFASB・IASBから新基準として公式に提示されることになっている。FASBの現行基準には収益認識に触れているものが多数あるし、国際会計基準(IAS)には第11号「工事契約」(IAS No.11 Construction Contracts)と第18号「収益」(IAS No.18 Revenue)が収益認識に直接にかかわる既存の基準である。収益認識に関する新基準はこれらのFASBとIFRSsの旧基準に置き換えられることになっている。公開草案の要点は次の4つである。

   (1) 収益とは売り手から買い手への財・サービスの移転である。

   (2) 財・サービスの移転により対価の受領と履行義務の充足が生じる。

   (3) 売り手の収益は財・サービスの取引価額であり、販売対価によって測定される。

   (4) 買い手が財・サービスへの支配を獲得した時点に、財・サービスが移転する。

   

  この公開草案では、収益(revenue)は「顧客への財・サービスの移転」(transfers of goods or services to customers)だと定義されている(IN8)が、この 定義の仕方そのものがかなり特異であり、きわめて重要な特徴をなすものといえる。この考え方は、ストックの変化ではなく、ストックの変化を引き起こすフローに着目するものですから、伝統的な収益の定義に近似しているといえる。つまり、その特徴を挙げるとすれば、次の点があります。

   (1) 収益の定義が資産・負債アプローチによっておらず、むしろ収益・費用アプローチにしたがっている。ストック側からではなく、フローの側からの収益を捉えるという見方が優先されている。

   (2) 売り手と買い手の間で交換される財・サービスに直接に目が向けられていて、測定の対象となっているのは、交換の結果として生じる資産の増加(または負債の減少)ではない。

   (3) 収益の金額は交換された財・サービスの「取引価額」(transaction price)だとされている。この取引価額は「財・サービスと交換に企業が受け取る対価(consideration)」とされている。

   (4) 収益認識時点は履行義務(performance obligation)の充足時点とされているが、履行義務の充足は財・サービスの移転時点の認定となるが、それは顧客が財・サービスへの支配(control)を獲得した時とされる。

   

  資産・負債アプローチにしたがうとすれば、貸借対照表側からアプローチして、資産(と負債)の概念を使って収益が定義されなければならないから、収益は資産の流入(増加)または負債の流出(減少)となるはずであり、たとえばFASBの概念ステートメントNo.3(1980)でも、「資産のインフロー・・・または負債の清算」(para.63)と定義されていた。それなのに、公開草案では資産・負債アプローチによっていながらフローの側から収益を定義しているので、論理的にスッキリしない点を残している。この点で、収益の新しい会計基準は問題を将来に残すことになろう。

   

◆日本の人口減(再)◆

  日本の人口は、江戸に徳川幕府が開かれた1603年には1,227万人であったと推定されています。その後日本の人口は増えつづけましたが、特に江戸 の人口増加率は著しく、江戸の街は世界一の大都市に発展していきました。江戸の人口は18世紀初頭にすでに100万人であったといいますから、当時70万人の ロンドンより大きかったわけです。

  徳川幕府は260年をもって閉じられましたが、明治の文明開化を迎えたときには、日本の人口は江戸開幕時の3倍に膨張していて、3,330万人にな っていたといわれています。それからさらに時を経て、第二次世界大戦が終結した1945年の人口は7,199万人だったといいますから、明治維新からの 77年間で日本の人口は倍増していた計算になります。そして、最も直近の2004年の人口統計は12,784万人を示しており、過去最高の数字になってい ます。第二次世界大戦の終結から数えて5,585万人の増加、率にして77.5%増になります。

  しかし、2004年はピークの年であり、その後はすこしづつ減ってきています。この下り坂もだんだん激しくなっていくと予想されており、2020年ごろから急 激に減少するものと推定されています。日本では、いま有史以来初めて人口縮小に向かう境目にあるのです。

  現時点においても、この縮小の兆候は顕著に現れています。農漁村では過疎が進展しており、老人ばかりの集落に変わってきています。山間部では小中学校 が廃校になって、無人の校舎だけが残っているところが多数あります。田舎の商業施設はどこもかしこもガラガラで、シャッター通りがあちこちにあります。 無医村というのはいまではありふれたことですが、最近よく話題にのぼるのはでは「買い物難民」です。空洞化がすすんで、食品の調達がむつかしくなると、 健康な人々にとっても、日常生活を維持するのが容易でなくなるのです。

 1950年代の高度成長期には都市の人口が爆発的に増加し、都市部では住宅、公共施設など、何もか も供給が追いつかなくなったことがあります。日本列島は不均等に発展し、大都市ばかりが異様に肥大したのです。現在ではこの人口増加傾向が反転し て、人口減少に向かっていますが、この人口減少もまた均等に進展しそうにありません。全国的に住宅や公共施設は過剰となっていきますが、一部にお いてその過剰がはなはだしくなる傾向があります。過疎化も不均等にすすみ、一部だけが極端に空洞化するおそれがあるのです。空き家、空き事務所、 空き工場が増加して、都市部においても部分的にゴーストタウン化がすすむ可能性があります。

  人口分布の偏りといえば、少子高齢化がよく話題にされます。この少子高齢化は年齢別の人口分布の偏りであり、地域分布の偏りではないのです。日本 の人口が減少していきますと、年齢別の分布が偏るだけでなく、地域別の分布もまた偏ってきますので、これらの両方に目を光らせるがことが重要になっ てきます。

◆会計学者Sprouseの生涯と資産・負債アプローチ(再)◆

  資産・負債アプローチ(asset-liability approach)といえば、2000年代になってからの会計学の新しい考え方だと誤解されやすい。しかし、実際には 資産・負債アプローチは昔から受け継がれてきた会計思考であり、何度も排斥されながら、何度も頭角を現してきた古典的な考え方なのである。

  アメリカにおいて資産・負債アプローチが華々しく登場したのは1960年代においてであり、その旗手となったのは、California University, Berkeleyの若手研 究者Sprouseであった。しかし、Sprouseの提唱した資産・負債アプローチはまったく支持されなかったばかりか、過激な発想だという強い非難を浴びて、葬り 去られてしまった。ところが、これは資産・負債アプローチの終りにはならなかった。

  アメリカにおいてFASBが創設されたとき、SprouseはStanford Universityの教授職を辞し、FASBの7名の委員のひとりに加わった。この時から資産・負債 アプローチはFASBの中で息を吹き返し、アメリカ会計学の基本思考として再生しはじめるのである。アメリカにおいて最も体系的に資産・負債アプローチ を提唱したのはSprouseであったが、それをFASBを通じて会計実務のすみずみに浸透させたのもSprouseだったのである。資産・負債アプローチには会 計学者Sprouseの生涯がかかわっているといえるので、やや長いその物語をはじめることにしたい。

   会計学者のSprouse,Robert T., は1922年1月11日、カリフォールニア州サンデエゴ郡において、5人兄弟の第4子として誕生した。1938年に高校を卒業 後、サンデエゴ州立カレッジに入学したが、2年で中退し、その後いろいろな職業を転々とした末に、1942年に徴兵により米国軍に入隊した。第二次大戦 後には、ドイツの駐留米軍内で訴訟関係の業務に従事していたが、1949年にカリフォールニアに舞い戻り、郷里のサンデエゴ州立カレッジに再入学した。 その時のサマースクールで受講した会計学の入門コースが、その後のキャリアに決定的な影響を与えることになった。その入門コースを担当したRuel Lund教授 の勧めにより、その後にはミネソタ大学に移って本格的に会計学に取り組みはじめ、同大学で1952年にBMAを、また1956にPh.Dを授与されている。それ以来、 Sprouseは会計学の研究者として頭角を現しはじめ、1955にThe University of Calfornia、 Berkeleyの会計スタッフに加わって、1961には同大学のテニュア 付きの准教授に就任した。

   アメリカの会計士協会(AICPA)では1938以来、会計手続委員会(CAP:Committee of Accounting Procedures)を通じて折々に発生する現実の会計問題に 対してケース・バイ・ケースによって対処していた。しかし、1950年代になると体系的にGAAPを組み直さないことには、会計問題が解決できないことが明らか になってきた。この認識の拡がりを受けてアメリカの会計界に巻き起こったのが、「大括りの会計原則」(broad accounting principles)を明文化する動きである。

(注)"broad accounting principles"における"broad"は、わが国では「幅広い」とか「一般的な」と訳されることが多いが、「基本的」とか「全般にわたる」という意味合いが強いので、ここでは「大括りの」という訳を当てておいた。最近になって、会計ルールは「細則主義」(rule-based)によるべきか「原則主義」 (principle-based)によるべきかが議論を呼んでいるが、アメリカでは最初から「原則主義」、それも「大括りの原則主義」であった点に注意されたい。

   会計原則を制定しようとするこの動きの中で急速に浮かび上がってきたのが、会計基準設定主体の必要性である。政府の直接的な規制を嫌うアメリカでは、 民間の会計基準設定主体によることになり、AICPAを母体とする「会計原則審議会」(Accounting Principles Board:APB) が1959年に設立された。APBは 大括りの会計原則に整合的な会計ルールを制定する業務に取り組みはじめ、SECの強力なサポートを受けながら、1960年代には31本もの「APB意見書」 (APB opinions)を公表した。1973年には会計基準を設定する業務はAPBからFASBへ引き継がれたが、1960年代に世界の会計実務をリードしたのはこの APBであった。

   APBの設立当初の一般的な考え方によると、会計基準(accounting standards)というのは会計手続きの適用の仕方を定めた1組の会計ルールあるが、それは 会計原則(accounting principles)を会計処理方法という手順に具体化させたものであり、会計原則なしには会計基準は決められないと考えられていた。また 会計原則は会計公準(accounting postulates)という普遍的な前提から導出されるものであり、会計公準なしに会計原則が決められるようなことはないとされて いた。会計公準という大前提がまずあって、この会計公準から会計原則が、次に会計原則から会計基準が導かれると考えられていたわけである。したがって、 会計基準を設定するとすれば、それが依拠する会計公準と会計原則をまず明確にしたうえで、会計基準の在り方に議論を落としていかなければならない。こう してAPBにおいて会計基準を制定する動きは、会計公準と会計原則を研究することへの強い関心を掻き立てる結果になった。

   AICPA会長, Alvin R. Jenningsは1957年10月の総会において、会計手続きが拠るべき「会計公準と会計原則」を研究することが最優先の課題だと強調し、2カ月 後に「研究計画特別委員会」(The Special Committee on Research Program)を立ち上げた。この研究計画特別委員会が示したグランド・プランにしたがって、1959年 9月にはAPBが設立されたし、またAPB附置の調査部門として「会計調査研究部」(Accounting Research Division)が開設された。この会計調査研究部の初代の ディレクターに指名されたのが、University of California、Berkeleyの Maurice Moonitzであった。

   UC Berkeleyには1955年にSprouseが着任しており、Moonitzとともに精力的な研究活動を展開していた。MoonitzがAPBの会計調査研究部のデレクターとなるととも に、二人は会計公準と会計原則について共同研究に取り組み、さっそくその成果を取りまとめた。会計調査研究部から公刊されたモノグラフARS(Accounting Research Studies)No.1 がMoonitzの会計公準論(Moonitz,1961)であり、ARS No. 3がSprouseとMoonitzの共著の会計原則論(Sprouse and Moonitz, 1962)である。

   会計調査研究部はAPBに付属する部門であったから、その研究成果のモノグラフは当然にAPBが制定する会計基準をサポートする内容のものになると、だれもが信 じていた。ARS No.1 のムーニッツの公準論(Moonitz,1961)は、抽象的に、また一般的に会計公準を論じていて、会計の具体的な問題には立ち入っていなかったから、 ほぼこの期待に添うものとみなされた。しかし、MoonitzとSprouseが共同で執筆したARS No. 3 はそうではなかった。ARS No. 3 には過激な内容が盛られているとして、 多方面から強烈な反対論が巻き起こり、公刊そのものが危うくなった。会計調査研究部の助言委員会の委員の12名のうち9名までもがコメントを寄せたが、ARS No. 3 に肯定的なコメントはわずかに1つしかなかった(訳185-215ページ)。しかし、APBでは公刊そのものは差し止められないとして、最終的には1ページにまとめたAPBの 文書(訳221ページ)を追加的に挿入したうえで、ARS No. 3 を公刊することを認めた。APBが挿入した文書には「これらの研究を現時点で受け入れるには、現在のGAAP からあまりにもラジカルに違いすぎている、と当審議会は考えている」というAPBの意見が明記されている。

   APBが「あまりにもラジカルに違いすぎる」という意見をつけたのは、ARS No. 3 では実現概念への依存が大幅に後退しているだけでなく、時価(current value)の利用 が拡大しすぎているという判断によるものである(Swieringa,2011, p.210)。しかし、ARS No. 3 では資産・負債アプローチが採用されていたから、収益・費用アプローチ によっていたAPBと最も根本的なレベルにおいて、考え方が食い違っていたといえる。ARS No. 3 は、次のような特徴をもっていた。

   ARB No.3 によって展開された資産・負債アプローチと将来志向の会計公準論・会計原則論は、1960年代初頭においてはたしかに斬新であり、十分に注目に値する理 論的内容のものであった。しかし、当時の主流は収益・費用アプローチであり、APBはこの支配的な考え方によってGAAPを成文化しようとしていたのである。ARS No. 3 は 歴史的原価会計からは隔絶していて、APBが設定しようとする会計基準とは真正面から対立する内容になっていた。このため、APBの委員たちはARS No. 3 を現実的意 味をもたない空論として論難したばかりでなく、会計公準論・会計原則論そのものに失望して、その研究を放棄してしまった。ARS No. 3 を契機にしてAPBは歴史的原価 会計に対する固執をいっそう強め、旧来のケース・バイ・ケース・アプローチに舞い戻る結果になったのである。ある論者は、次のように述べている。

   「APBによる公準論・原則論研究の拒絶は、時代を画するできごとであった。APBのある委員と会計専門職の他のリーダーたちは、即座に公準・原則アプローチに幻滅を 感じてしまった。彼らは会計の根本的な変革のための基礎を開発するとか、あるいは財務諸表の情報内容を改善するといったことによりも、現状を正当化することの方に 大きな関心を抱いた。SECは歴史的原価会計への動きを前にすすめ、それからの離脱を黙認しないことによって歴史的原価会計への締付けをさらに強めた。強く織り込 まれた歴史的原価会計のモデルと思考法を、こうした努力はいっそう強めることになった。公準論・原則論研究を拒絶したことの実際的な結果は、CAPで用いられていた ケース・バイ・ケース・アプローチをAPBが採用したということである。」(Swieringa,2011, p.211)

   こうしてSprouseは、彼の主張した資産・負債アプローチとともに影を潜めてしまった。しかし、それは一時のまぼろしでしかなかった。会計学者としてのSprouseには、10年 後に、華々しい再デビュウーが待っていたし、それとともに資産・負債アプローチが蘇生し、会計実務に拡がっていくのである。

   Sprouseは1962年にHarvard Business Schoolに、そして1965年Stanford Business Schoolに移籍していた。ところがSprouseは1972年に突然にStanford Universityを 辞し、初代の7名のボード・メンバーの一人としてFASBに加わった。テニュアが付いた大学教授の職を捨て、有期契約の審議会委員へ就任したわけであるから、かなりの 思を込めた決断であったとみられている。このFASBにおいてSprouseが最初に取り組んだのが概念フレームワーク・プロジェクトであり、その後約10年の間に刊行された 「概念ステートメント」No.1−No.6に深く関与することになった(下のあじさいは篠山市黒岡の「玉水ゆり園」にて、2011年7月11日撮影)

   FASBの概念フレームワーク・プロジェクトにおいて収益・費用アプローチと資産・負債アプローチという2つの見解が根本的に対立していた。激しい議論が繰り返された末に、 FASBの立場が次第に資産・負債アプローチに傾斜していったことは広く知られているところである。「Sprouseは資産・負債の見解の知的リーダであった」(Swieringa,2011, p.215)といわれているから、Sprouseの基本的な考え方は1962年のARS No. 3 とまったく変わっていなかったことになる。しかし、会計基準と会計実務に対する彼の影響は、 以前とはまったく異なっている。ARS No. 3 においてSprouseが主張した資産・負債アプローチはAPBに無視されて、当時の会計基準には少しの影響をも与えなかったば かりか、ARS No.3 は収益・費用アプローチへの固執をかえって強めただけであった。これに対して、FASBのボード・メンバーとしてSprouseが主張した資産・負債アプロー チは「概念ステートメント」のバックボーンとなり、すべての会計基準に織り込まれていった。Sprouseは「概念ステートメント」はもとよりとして、SFAS第2号のR&D会計など、 88本の会計基準の制定に、資産・負債アプローチの立場から積極的に関与していったのである。

   Sprouseは1985年にFASBを辞めるまで、12年9月もの長期にわたりFASBのボード・メンバーとして活躍し、そのうち11年は、FASBの副会長として職務に尽した。FASBを 退職後にはカリフォールニアのChula Vistaに移住して、執筆活動を続けていたが、2007年12月23日に前立腺ガンにより、85歳で逝去されたという。 【参考文献】

Maurise Moonitz, Basic Postulates of Accounting(AICPA, 1961). 佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、昭和37年)所収。

Sprouse, Robert T., and Maurise Moonitz, A Tentative Set of Broad Accounting Principles for Business Enterprises (AICPA,1962). 佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、昭和37年)所収。

Swieringa, Robert J., "Robert T. Sprouse and Fandamental Concepts of Financial Accounting," Accounting Horizons, Vol.25, No.1 (March 2011), pp.207-220.

◆次回の更新◆

  もうすぐお正月です。ことしの冬は例年よりも寒いという予報です。みなさん、風邪などにご留意のうえ、冬の日々を存分に楽しみください。 次回の更新は02月を予定しています。ごきげんよう、さようなら。


2011.11.20

OBENET

代表 岡部 孝好