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to New Version(July 10, 2011)
2011年07月版へのメッセージ(B版)
OBE Accounting Research Lab
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[1995年10月 ラボ開設のご挨拶][
Webmasterからのメッセージのバックナンバー]
◆デンヴァー、コロラドへの旅◆

コロラド州デンヴァー(Denver)はロッキー山脈の上にあり、海抜1.6KMの高さです。アメリカではいまでもメートル法は使われませんので、1.6KMを1,000マイルと表現し、
デンヴァーのことを「1,000マイル都市」(1,000 mile city)と呼んでいます。サンフランシスコから東に向かい、ネバタ州とウタ州を超えていくことになりますが、窓から下
を見ると砂漠と禿山ばかりです。飛行機で2.5時間も飛びましたので、大阪から札幌くらいの距離でしょうか。ロッキー山脈をひと跨ぎしたことになりますが、さすがは
ロッキー山脈という感じで、烈しい山岳地帯です。ネバタの砂漠というのは、もっと平坦だと思い込んでいましたが、波打っていて、凹凸の連なりにようにみえました。
信じがたいことに、150年前には、西部の新天地を目ざして、幌馬車隊がこの砂漠を通り抜けたというのです。

アメリカ会計学会(AAA)の2011年大会が、デンヴァーの街で開催されましたので、8/6-8/10の間、このロッキー山上の街を訪れ、ゆっくりした夏の日を楽しむことがで
きました。途中でサンフランシスコに降りたち、Stanford Universityに近いMenlo Park Cityで数日をすごしましたが、そこでは日中でも18度Cほどの気温で、ジャケッ
トなしには戸外は歩けなかったのに、ここデンバーにきてみると、日中は木陰を選んで歩くほどの暑さです。さすがに空気は乾いていて、汗が流れるようなことはあり
ませんでしたが・・・
デンヴァーは、アメリカのおへその位置にあり、国内のどこからみても等距離にあるといわれています。このためアメリカ空軍の本拠地にされており、ロッキー山脈の
岩をくり抜いた地下の要塞に、空軍の指令室があるということです。このためもあるのか、搭乗前のセキュリティ・チェックの厳しさはたいへんもので、
国内旅行なのに(国際線のチェックはサンフランシスコで済ませたのに)、1時間以上も並ぶハメになりました。この空港が混むもう1つの理由は、民間航空機の発
着数の多さです。東西南北、どの方向へ乗り換えても、このデンヴァーによるのが最短になりますので、全米の航空会社がデンヴァーを中継基地にしており、乗り
継ぎ客がデンヴァー空港に集中するのです。ハブ空港の「ハブ」というのは、自転車のスポークのことを指すということですが、デンヴァー空港はハブ空港になって
いて、自転車のスポークのように、全米に航路を拡げているのです。

デンヴァーは観光資源が豊かで、夏休みには親子連れで混雑します。デンヴァーは大昔に金鉱、銀鉱で拓けたところですし、現在は牧場、農場がたくさんあり
ます。古くは大陸横断鉄道の要所でもあった関係で、いまでも機関車が走っているはずです。こうした古今の産業に関連する観光事業に加えて、岩山、湖沼、
清流、森林、草原など、大自然の恵みに恵まれていますので、キャンプ、山登り、ハングライダー、ヨット、ハンティング、釣りなど、ワイールドなスポーツは何でもできます。夏に
家族旅行の一団がデンヴァーに多いのは、当然ということになります。今回もこの煽りで、手荷物の機内に持ち込みが途中から急にダメということになって、出発
が1時間以上も遅れてしまいました。子連れの乗客があまりにたくさんの荷物を持ち込むために、荷物が機内に溢れて、搭乗にストップが掛かったというわけです。
機内持ち込み荷物を預け直すことになり、大混乱です。

思ってみれば、デンヴァーでのAAAの年次大会に出席したのは、今回が2度目です。初回はたしか1970年代のことで、1ドルが300円位していたときのことです。
デンヴァーに初めて来たときに驚嘆したのは、バス・ドライバーが女性だいうことと、バス料金がタダということでした。これはぜひとも体験しておかなければと、さっ
そく乗り込んでみると、車内は老人と子供ばかりで、アメリカのバスが車に乗れない弱者の交通手段だということを初めて知りました。30年以上も昔の話ですが、
こんどデンヴァーに来て街中を走っているバスを見ると、そのボディにはやはり「無料バス」と書いてあります。

今回デンヴァーを再訪してみて、この街が生まれ変わっているのを感じました。コンベンション・センターを中心に高層ビルが林立していて、街路は広くて、清潔
です。AAAの会場となったホテルは16番街というダウンタウンの中心地に位置していましたが、周りは賑やかで、楽しそうな雰囲気が溢れています。この市街地
の中を巡回しているのが、例の「無料バス」なのです。
◆実証会計学の須田一幸教授、逝く◆
早稲田大学大学院教授、経営学博士 須田一幸(すだ かずゆき)先生は、2011年5月31日午前8時50分,胃ガンでご逝去になられました。1955年(昭和30年)9月25日のご出生ですから、なんと55歳の若さでした。惜しい研究者を失い、日本の会計界は大打撃を受
けています。
須田先生は秋田県のご出身で、福島大学経済学部をご卒業後、一橋大学大学院商学研究科にご進学になり、修士課程・博士課程
を通じて中村忠教授のゼミで、会計学の修行を積まれました。1984年(昭和59年)4月、一橋大のドクター・コース修了とともに京都産
業大学経営学部に会計学のスタッフとして着任され、京都を舞台に研究活動を展開されはじめました。1990年(平成2年)4
月には関西大学商学部に、さらに1998年(平成10年)4月には神戸大学経済経営研究所に転じられ、その後2004年(平成16年)4月
に早稲田大学大学院ファイナンス研究科の教授に就任されました。
若年のころの須田先生は、会計情報を使う資本市場サイドから、会計情報の働きを分析するというアメリカ型の研究手法に注目され、株価に
与える会計情報のインパクトを日本市場のデータによって解析しておられました。効率的市場仮説という金
融理論によりますと、新しい有益な情報は市場では偏りなく、そして遅滞なく、株価の中へ織り込まれていきますので、新規に公表され
た会計情報と株価の変化との関係が定量的に突き止められますと、「会計情報には有用性がある」という主張に裏付けがえられます。この立証
にはかなり高等な統計学の知識と技術が要求されますが、須田先生は計量経済学の豊富な学識を駆使して、いろい
ろなコンテクストにおいて、投資意思決定に対する会計情報の役立ちを経験的事実によって証拠づけていきました。
1987年(昭和62年)にロチェスター大学に留学されたのが須田先生には大きな転機であったらしく、それ以降では、契約コスト理論(エ
ージェンシー理論)によって、会計情報がもつ利害調整機能(須田先生のいう契約支援機能)を分析する研究の方に軸足を移され
ています。会社の経営者とそのステークホルダーとの間に利害の衝突があることを前提にしますと、利害の対立を緩和するような関係の組み
方、つまり契約のデザインが重要になってきます。この利害調整との関連では、会計情報はステークホルダーの契約関係を支援し、
これによって利害調整を促すという重要な役割を果たしていることが考えられます。この会計情報の契約支援機能を、実際のデータに
よって経験的に証拠づけるという考えから、須田先生は統計的手法によって精密な検証結果を積み上げてこられました。これらの
研究成果を集大成したのが、学位論文となった『財務会計の機能――理論と実証――』(白桃書房、2000年)です。
実際のデータを使って会計情報の機能を証拠だてるというのが実証会計学の特徴ですが、このアプローチによっている研究者は、ア
メリカではマジョリティなのに、日本ではマイノリティです。そういう苦しい日本の学界にあって、須田先生とわたしが同じ大学(関西大
学と神戸大学)で、実証会計学の花火を打ち上げつづけたわけですから、かなり目立ったことは事実のようです。しかし、二人のやり方
がまったく同じであったかというと必ずしもそうではなく、違いもありました。この微妙な差異に気づいた東京の若手研究者からは、
「どこが違うのですか」という質問をよく受けましたが、わたしがいつも指摘していたのは、効率的市場理論の取扱いで
す。岡部実証会計学がエージェンシー理論の一刀流だとすれば、須田実証会計学は効率的市場理論とエージェンシー理論の二刀流
になっているのです。わたしは効率的市場理論とエージェンシー理論は別々で、奥底では折り合いがつかないとみていますが、須田
先生にとっては、2つは仲良く手を取り合う協調的な理論であり、決して矛盾するものではないというお考えのようでした。
須田先生は秋田の呉服屋のせがれとかで、なかなかのダンディ・ボーイであり、ルックスにもこだわるところがありました。10年以上も前の
ことですが、合宿の夜の酒の席で、小学生のお嬢さんから貰った「ことしの父の日のプレゼントは養毛剤だった」とジョークを飛ばして、大
いに受けていたことがあります。須田先生はわたしより13歳も若いわけですから、それはないだろうとまじかの先生の頭に目を向けま
すと、たしかに地肌が透けてきていて、事態は容易ではなさそうです。お嬢さんの痛々しいご心配がジンと伝わってきて、とても笑えたも
のではありませんでした。
今回のご病気の手術のあと、快復は順調という嬉しいメールをいただきましたが、薬の副作用で減った髪の毛をやはり気にされているご
様子で、「もともと少ないのだから」とご家族に慰められているとのことでした。毛の3本や5本、といいたくなるところですが、よく考えてみ
ますと、ルックスにこだわりはじめたとすれば、それは本格的な復調の兆しです。「これはグッド・ニュース」とその夜はひとりで祝杯を上げ
ました。
昨2010年9月の東洋大学での会計学会では、さる会場の司会者席に須田先生がお座りでしたが、最後部の席から遠望してみますと、思
いのほかお元気そうなお姿で、ひと安心です。まったく意外なことに、頭には髪の毛があります。閉会を待って、握手で復帰
を喜びあいましたが、この日は顔色もよかったし、小まるく肥ってきていて、声にも張りがありました。とりわけよかったのが五分刈りの
ごましお頭で、すてきなルックスでした。
須田先生はふつうの会計学者の何倍かのお仕事をされ、学究者として輝かしい業績を残されました。いつも楽しい研究仲間や学生たちに
取り囲まれて、またご家族の深い愛情に支えられながら、55年の人生を濃く、太く生き抜かれたわけですから、羨ましいほどのお幸せなご生
涯ではなかったかと思います。もう少し長生きしていただけたら、もっとよかったのですけれども。いくど思い直しても、あきらめきれませんが、い
まとなってはご生前のご健闘をたたえて、さようならをいうほかはありません。
◆IPPと電力の卸売市場◆
電力の生産と流通が通常の消費財と同じなのであれば、製造業者(M)が生産して、卸業者(W)に販売し、卸業者が小売業者(R)に転売し、さらに小売
業者が消費者(C)に再販売する、ということになるはずです。欧米においては、M−W−R−Cというこの多段階の流通経路が確立されていると聞きます
が、わが国では、その例はほとんどないのが実情です。日本における電力の生産と配給は電力会社によって一元的に行われており、M−W−Rが一社に
よって取り仕切られているのです(下のゆりは篠山市黒岡の「玉水ゆり園」にて、2011年7月11日撮影)。

しかし、電力会社以外の会社が電力を生産し、電力会社に卸売りをする個別のケースがだんだんと増加してきています。神戸製鋼、JFEスチールといった
大手の鉄鋼会社が火力発電所を建設し、発電した電気を卸売りするビジネス・モデルを繰り広げています。これが独立系発電事業者、つまりIPP
(Independent Power Producer)です。東日本大震災の原発事故の後、電力不足をカバーする手段の一つとして、このIPPがときどき報道に取り上げられ
るようになりましたが、まだその認知度はかなり低い状況です。
日本の電力産業においては、配送電線を一手に握っているのは電力会社であり、この電力会社の協力がないことには、IPPが電力を生産しても、その電力
は消費者にとどけられないことになります。この点でIPPの交渉力はどうしても弱くなり、公正な価格形成が阻害される要因が残されているといえます。IPPと
電力会社が対等の立場で価格交渉ができる環境を整えることが必要です。

IPPを増やして、電力の卸売市場を活性化するというのは重要な課題ですが、配送電線の一般解放には困難な問題が多数あります。
しかし、ソーラー発電など、電力の生産方法を多様化するという視点からしても、電力の流通市場を早く確立して、その運用のノウハウを育成していくことが重
要です。
◆日本の人口減◆
日本の人口は、江戸に徳川幕府が開かれた1603年には1,227万人であったと推定されています。その後日本の人口は増えつづけましたが、特に江戸
の人口増加率は著しく、江戸の街は世界一の大都市に発展していきました。江戸の人口は18世紀初頭にすでに100万人であったといいますから、当時70万人の
ロンドンより大きかったわけです。
徳川幕府は260年をもって閉じられましたが、明治の文明開化を迎えたときには、日本の人口は江戸開幕時の3倍に膨張していて、3,330万人にな
っていたといわれています。それからさらに時を経て、第二次世界大戦が終結した1945年の人口は7,199万人だったといいますから、明治維新からの
77年間で日本の人口は倍増していた計算になります。そして、最も直近の2004年の人口統計は12,784万人を示しており、過去最高の数字になってい
ます。第二次世界大戦の終結から数えて5,585万人の増加、率にして77.5%増になります。

しかし、2004年はピークの年であり、その後はすこしづつ減ってきています。この下り坂もだんだん激しくなっていくと予想されており、2020年ごろから急
激に減少するものと推定されています。日本では、いま有史以来初めて人口縮小に向かう境目にあるのです。
現時点においても、この縮小の兆候は顕著に現れています。農漁村では過疎が進展しており、老人ばかりの集落に変わってきています。山間部では小中学校
が廃校になって、無人の校舎だけが残っているところが多数あります。田舎の商業施設はどこもかしこもガラガラで、シャッター通りがあちこちにあります。
無医村というのはいまではありふれたことですが、最近よく話題にのぼるのはでは「買い物難民」です。空洞化がすすんで、食品の調達がむつかしくなると、
健康な人々にとっても、日常生活を維持するのが容易でなくなるのです。
1950年代の高度成長期には都市の人口が爆発的に増加し、都市部では住宅、公共施設など、何もか
も供給が追いつかなくなったことがあります。日本列島は不均等に発展し、大都市ばかりが異様に肥大したのです。現在ではこの人口増加傾向が反転し
て、人口減少に向かっていますが、この人口減少もまた均等に進展しそうにありません。全国的に住宅や公共施設は過剰となっていきますが、一部にお
いてその過剰がはなはだしくなる傾向があります。過疎化も不均等にすすみ、一部だけが極端に空洞化するおそれがあるのです。空き家、空き事務所、
空き工場が増加して、都市部においても部分的にゴーストタウン化がすすむ可能性があります。

人口分布の偏りといえば、少子高齢化がよく話題にされます。この少子高齢化は年齢別の人口分布の偏りであり、地域分布の偏りではないのです。日本
の人口が減少していきますと、年齢別の分布が偏るだけでなく、地域別の分布もまた偏ってきますので、これらの両方に目を光らせるがことが重要になっ
てきます。
◆会計上の誤謬の過年度遡及修正◆
過去になされていた会計上の誤りが現在になって発見された場合には、従来では、現時点において訂正するという考え方が採用されていた。過去の財務諸表は法律的に「確定」しており、いまさら過去の財務諸表を書き改めると、同一会計期間の財務諸表が何枚も出回ることになり、混乱を招くおそれがあるからである。
企業会計原則注解12の「特別損益項目について」では、「前期損益修正」が掲げられており、過年度について引当金、減価償却、棚卸資産評価の過不足、償却債権取立額が例示されている。これは、過年度に属する誤謬修正額が当期純利益に算入されるのは当然のこととして、損益計算書におけるその記載区分を特別損益に指定しているのである。

これに対して、新会計ルールでは、過年度における会計上の誤謬は、当会計年度ではなく、その発生年度に遡って訂正されることになった。新会計ルールにおける会計上の「誤謬」とは、データの収集又は会計処理上の誤り、事実の見落としや誤解による計上金額の誤り、会計方針の適用方法や表示方法の誤りを指しており、引当金など特定項目にかかわというよりも、すべての事象にわたる誤りである。もし過去において何らかの会計上の誤謬が発見されたなら、それが意図的なものどうかはかかわりがなく、誤謬の発生年度に遡って、あたかも誤謬がなかったかのように、誤りの会計処理が修正されなければならない。この「遡及修正処理」が新しい会計ルールである。
誤謬の修正処理を行うにあたって、誤謬発生の時点にまで遡るとすれば、誤謬発生年度から当期にいたるまで、過去の財務諸表の数値を訂正しなければならない。この過年度の財務諸表の修正にあたっては、財務諸表の開示を1期だけにしている場合と、2期(またはそれ以上)にしている場合の違いが重要になってくる。
財務諸表の開示には当会計期間1期のみについて行われる場合(単年度開示)と、直前の会計期間と当会計期間の2期について行われる場合(複数年度開示)の2つがある(そのほか過去4期と当期の5期について開示するアメリカ方式もある)。誤謬を訂正する場合には、開示する財務諸表の最も古い期間の期首の金額を修正することになっているので、単年度開示の場合には当期首の資産、負債、純資産の金額を、複数年度開示の場合には、前期の期首の資産、負債、純資産の金額を修正し、次にそれ以降における金額にも、順次必要な訂正を加えていくことになる。過去の誤謬によって開示する財務諸表自体を訂正することは「修正再表示」と呼ばれるが、修正再表示の初年度は、単年度開示の場合には当期期首になるし、複数年度開示の場合には前期の期首になる。
修正再表示の初年度以前における誤謬の訂正は、「累積的影響額」を通じて行う。誤謬の発生年度に遡及して修正するとすれば、その修正の影響額をその後の財務諸表に引き継いでいき、修正再表示の初年度まで持ち越さなければならない。損益の関連する誤謬の訂正であれば、累積的影響額だけ繰越利益剰余金を加減することになる。

会計上の誤謬を発生時に遡及して訂正するこの方式には、少なくとも次の2点の検討が必要とされる。
(1) 会計上の誤りがあった場合に、その影響には直接的影響と間接的影響の2つがある。たとえば売掛金に誤りがあった場合には、売掛金の金額だけでなく、貸倒引当金にも訂正が必要であろう。貸倒引当金を訂正すれば、費用に影響が出て納税申告額も当期純利益も違ってくるであろう。こうした間接的な波及効果をどこまで見定め、どこまで修正するかの問題が第1である。
(2) 第2は法律上の問題である。会社の決算は単年度ごとに株主総会の決議を通じて法律的に確定する(確定決算)。遡及修正を通じてこの確定決算の数値が変更可能かどうか。もしいったん確定した決算が変更不能であるとすれば、訂正後の修正再表示の財務諸表は法律的に意味をもたないことになってしまう。
なお、会計上の誤謬の遡及修正に関する新しい会計基準は、平成23 年4月1日以後の会計年度から適用される。
【参考文献】
企業会計基準委員会、企業会計基準第24号、「会計上の変更及び誤謬の訂正に関する会計基準」(平成21年12月4日)
企業会計基準委員会、企業会計基準適用指針第24号、「会計上の変更及び誤謬の訂正に関する会計基準の適用指針」(平成21年12月4日)
◆会計学者Sprouseの生涯と資産・負債アプローチ◆
資産・負債アプローチ(asset-liability approach)といえば、2000年代になってからの会計学の新しい考え方だと誤解されやすい。しかし、実際には
資産・負債アプローチは昔から受け継がれてきた会計思考であり、何度も排斥されながら、何度も頭角を現してきた古典的な考え方なのである。

アメリカにおいて資産・負債アプローチが華々しく登場したのは1960年代においてであり、その旗手となったのは、California University, Berkeleyの若手研
究者Sprouseであった。しかし、Sprouseの提唱した資産・負債アプローチはまったく支持されなかったばかりか、過激な発想だという強い非難を浴びて、葬り
去られてしまった。ところが、これは資産・負債アプローチの終りにはならなかった。
アメリカにおいてFASBが創設されたとき、SprouseはStanford Universityの教授職を辞し、FASBの7名の委員のひとりに加わった。この時から資産・負債
アプローチはFASBの中で息を吹き返し、アメリカ会計学の基本思考として再生しはじめるのである。アメリカにおいて最も体系的に資産・負債アプローチ
を提唱したのはSprouseであったが、それをFASBを通じて会計実務のすみずみに浸透させたのもSprouseだったのである。資産・負債アプローチには会
計学者Sprouseの生涯がかかわっているといえるので、やや長いその物語をはじめることにしたい。
会計学者のSprouse,Robert T., は1922年1月11日、カリフォールニア州サンデエゴ郡において、5人兄弟の第4子として誕生した。1938年に高校を卒業
後、サンデエゴ州立カレッジに入学したが、2年で中退し、その後いろいろな職業を転々とした末に、1942年に徴兵により米国軍に入隊した。第二次大戦
後には、ドイツの駐留米軍内で訴訟関係の業務に従事していたが、1949年にカリフォールニアに舞い戻り、郷里のサンデエゴ州立カレッジに再入学した。
その時のサマースクールで受講した会計学の入門コースが、その後のキャリアに決定的な影響を与えることになった。その入門コースを担当したRuel Lund教授
の勧めにより、その後にはミネソタ大学に移って本格的に会計学に取り組みはじめ、同大学で1952年にBMAを、また1956にPh.Dを授与されている。それ以来、
Sprouseは会計学の研究者として頭角を現しはじめ、1955にThe University of Calfornia、 Berkeleyの会計スタッフに加わって、1961には同大学のテニュア
付きの准教授に就任した。

アメリカの会計士協会(AICPA)では1938以来、会計手続委員会(CAP:Committee of Accounting Procedures)を通じて折々に発生する現実の会計問題に
対してケース・バイ・ケースによって対処していた。しかし、1950年代になると体系的にGAAPを組み直さないことには、会計問題が解決できないことが明らか
になってきた。この認識の拡がりを受けてアメリカの会計界に巻き起こったのが、「大括りの会計原則」(broad accounting principles)を明文化する動きである。
(注)"broad accounting principles"における"broad"は、わが国では「幅広い」とか「一般的な」と訳されることが多いが、「基本的」とか「全般にわたる」という意味合いが強いので、ここでは「大括りの」という訳を当てておいた。最近になって、会計ルールは「細則主義」(rule-based)によるべきか「原則主義」
(principle-based)によるべきかが議論を呼んでいるが、アメリカでは最初から「原則主義」、それも「大括りの原則主義」であった点に注意されたい。
会計原則を制定しようとするこの動きの中で急速に浮かび上がってきたのが、会計基準設定主体の必要性である。政府の直接的な規制を嫌うアメリカでは、
民間の会計基準設定主体によることになり、AICPAを母体とする「会計原則審議会」(Accounting Principles Board:APB) が1959年に設立された。APBは
大括りの会計原則に整合的な会計ルールを制定する業務に取り組みはじめ、SECの強力なサポートを受けながら、1960年代には31本もの「APB意見書」
(APB opinions)を公表した。1973年には会計基準を設定する業務はAPBからFASBへ引き継がれたが、1960年代に世界の会計実務をリードしたのはこの
APBであった。

APBの設立当初の一般的な考え方によると、会計基準(accounting standards)というのは会計手続きの適用の仕方を定めた1組の会計ルールあるが、それは
会計原則(accounting principles)を会計処理方法という手順に具体化させたものであり、会計原則なしには会計基準は決められないと考えられていた。また
会計原則は会計公準(accounting postulates)という普遍的な前提から導出されるものであり、会計公準なしに会計原則が決められるようなことはないとされて
いた。会計公準という大前提がまずあって、この会計公準から会計原則が、次に会計原則から会計基準が導かれると考えられていたわけである。したがって、
会計基準を設定するとすれば、それが依拠する会計公準と会計原則をまず明確にしたうえで、会計基準の在り方に議論を落としていかなければならない。こう
してAPBにおいて会計基準を制定する動きは、会計公準と会計原則を研究することへの強い関心を掻き立てる結果になった。
AICPA会長, Alvin R. Jenningsは1957年10月の総会において、会計手続きが拠るべき「会計公準と会計原則」を研究することが最優先の課題だと強調し、2カ月
後に「研究計画特別委員会」(The Special Committee on Research Program)を立ち上げた。この研究計画特別委員会が示したグランド・プランにしたがって、1959年
9月にはAPBが設立されたし、またAPB附置の調査部門として「会計調査研究部」(Accounting Research Division)が開設された。この会計調査研究部の初代の
ディレクターに指名されたのが、University of California、Berkeleyの Maurice Moonitzであった。
UC Berkeleyには1955年にSprouseが着任しており、Moonitzとともに精力的な研究活動を展開していた。MoonitzがAPBの会計調査研究部のデレクターとなるととも
に、二人は会計公準と会計原則について共同研究に取り組み、さっそくその成果を取りまとめた。会計調査研究部から公刊されたモノグラフARS(Accounting Research Studies)No.1 がMoonitzの会計公準論(Moonitz,1961)であり、ARS No. 3がSprouseとMoonitzの共著の会計原則論(Sprouse and Moonitz, 1962)である。

会計調査研究部はAPBに付属する部門であったから、その研究成果のモノグラフは当然にAPBが制定する会計基準をサポートする内容のものになると、だれもが信
じていた。ARS No.1 のムーニッツの公準論(Moonitz,1961)は、抽象的に、また一般的に会計公準を論じていて、会計の具体的な問題には立ち入っていなかったから、
ほぼこの期待に添うものとみなされた。しかし、MoonitzとSprouseが共同で執筆したARS No. 3 はそうではなかった。ARS No. 3 には過激な内容が盛られているとして、
多方面から強烈な反対論が巻き起こり、公刊そのものが危うくなった。会計調査研究部の助言委員会の委員の12名のうち9名までもがコメントを寄せたが、ARS No. 3
に肯定的なコメントはわずかに1つしかなかった(訳185-215ページ)。しかし、APBでは公刊そのものは差し止められないとして、最終的には1ページにまとめたAPBの
文書(訳221ページ)を追加的に挿入したうえで、ARS No. 3 を公刊することを認めた。APBが挿入した文書には「これらの研究を現時点で受け入れるには、現在のGAAP
からあまりにもラジカルに違いすぎている、と当審議会は考えている」というAPBの意見が明記されている。
APBが「あまりにもラジカルに違いすぎる」という意見をつけたのは、ARS No. 3 では実現概念への依存が大幅に後退しているだけでなく、時価(current value)の利用
が拡大しすぎているという判断によるものである(Swieringa,2011, p.210)。しかし、ARS No. 3 では資産・負債アプローチが採用されていたから、収益・費用アプローチ
によっていたAPBと最も根本的なレベルにおいて、考え方が食い違っていたといえる。ARS No. 3 は、次のような特徴をもっていた。

ARB No.3 によって展開された資産・負債アプローチと将来志向の会計公準論・会計原則論は、1960年代初頭においてはたしかに斬新であり、十分に注目に値する理
論的内容のものであった。しかし、当時の主流は収益・費用アプローチであり、APBはこの支配的な考え方によってGAAPを成文化しようとしていたのである。ARS No. 3 は
歴史的原価会計からは隔絶していて、APBが設定しようとする会計基準とは真正面から対立する内容になっていた。このため、APBの委員たちはARS No. 3 を現実的意
味をもたない空論として論難したばかりでなく、会計公準論・会計原則論そのものに失望して、その研究を放棄してしまった。ARS No. 3 を契機にしてAPBは歴史的原価
会計に対する固執をいっそう強め、旧来のケース・バイ・ケース・アプローチに舞い戻る結果になったのである。ある論者は、次のように述べている。
「APBによる公準論・原則論研究の拒絶は、時代を画するできごとであった。APBのある委員と会計専門職の他のリーダーたちは、即座に公準・原則アプローチに幻滅を
感じてしまった。彼らは会計の根本的な変革のための基礎を開発するとか、あるいは財務諸表の情報内容を改善するといったことによりも、現状を正当化することの方に
大きな関心を抱いた。SECは歴史的原価会計への動きを前にすすめ、それからの離脱を黙認しないことによって歴史的原価会計への締付けをさらに強めた。強く織り込
まれた歴史的原価会計のモデルと思考法を、こうした努力はいっそう強めることになった。公準論・原則論研究を拒絶したことの実際的な結果は、CAPで用いられていた
ケース・バイ・ケース・アプローチをAPBが採用したということである。」(Swieringa,2011, p.211)
こうしてSprouseは、彼の主張した資産・負債アプローチとともに影を潜めてしまった。しかし、それは一時のまぼろしでしかなかった。会計学者としてのSprouseには、10年
後に、華々しい再デビュウーが待っていたし、それとともに資産・負債アプローチが蘇生し、会計実務に拡がっていくのである。
Sprouseは1962年にHarvard Business Schoolに、そして1965年Stanford Business Schoolに移籍していた。ところがSprouseは1972年に突然にStanford Universityを
辞し、初代の7名のボード・メンバーの一人としてFASBに加わった。テニュアが付いた大学教授の職を捨て、有期契約の審議会委員へ就任したわけであるから、かなりの
思を込めた決断であったとみられている。このFASBにおいてSprouseが最初に取り組んだのが概念フレームワーク・プロジェクトであり、その後約10年の間に刊行された
「概念ステートメント」No.1−No.6に深く関与することになった(下のあじさいは篠山市黒岡の「玉水ゆり園」にて、2011年7月11日撮影)。

FASBの概念フレームワーク・プロジェクトにおいて収益・費用アプローチと資産・負債アプローチという2つの見解が根本的に対立していた。激しい議論が繰り返された末に、
FASBの立場が次第に資産・負債アプローチに傾斜していったことは広く知られているところである。「Sprouseは資産・負債の見解の知的リーダであった」(Swieringa,2011, p.215)といわれているから、Sprouseの基本的な考え方は1962年のARS No. 3 とまったく変わっていなかったことになる。しかし、会計基準と会計実務に対する彼の影響は、
以前とはまったく異なっている。ARS No. 3 においてSprouseが主張した資産・負債アプローチはAPBに無視されて、当時の会計基準には少しの影響をも与えなかったば
かりか、ARS No.3 は収益・費用アプローチへの固執をかえって強めただけであった。これに対して、FASBのボード・メンバーとしてSprouseが主張した資産・負債アプロー
チは「概念ステートメント」のバックボーンとなり、すべての会計基準に織り込まれていった。Sprouseは「概念ステートメント」はもとよりとして、SFAS第2号のR&D会計など、
88本の会計基準の制定に、資産・負債アプローチの立場から積極的に関与していったのである。
Sprouseは1985年にFASBを辞めるまで、12年9月もの長期にわたりFASBのボード・メンバーとして活躍し、そのうち11年は、FASBの副会長として職務に尽した。FASBを
退職後にはカリフォールニアのChula Vistaに移住して、執筆活動を続けていたが、2007年12月23日に前立腺ガンにより、85歳で逝去されたという。
【参考文献】
Maurise Moonitz, Basic Postulates of Accounting(AICPA, 1961).
佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、昭和37年)所収。
Sprouse, Robert T., and Maurise Moonitz, A Tentative Set of Broad Accounting Principles for Business Enterprises (AICPA,1962).
佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、昭和37年)所収。
Swieringa, Robert J., "Robert T. Sprouse and Fandamental Concepts of Financial Accounting," Accounting Horizons, Vol.25, No.1
(March 2011), pp.207-220.
◆金科玉条の概念フレームワーク(再)◆
会計学の世界では「概念フレームワーク」(conceptual framewark)という言葉が大はやりになっており、このことばを背表紙に打った著書が何冊も、
書店の棚に並んでいるほどです。ことの起こりはアメリカのFASBが出したStatement of Financial Accounting Concepts No.1, Objectives of Financial
Reporting by Business Enterprises (Nevember 1978)であり、それ以降7冊のSFACが公刊されています。国際会計基準の方でも同様のプロジェクト
をスタートさせ、よく似ているが、内容の異なる概念フレームワークの冊子を公表しています。

会計基準が次々に制定されているのに、それぞれの会計基準の制定にあたって議論が噛み合わず、時間ばかりを空費するというのが、
概念フレームワークを作ろうということの発端です。具体的な会計処理のルールを作るのに、そもそも会計の目的が何なのか、資産
とか負債をどう定義するかなど、根本的なことから議論をし始めては間に合わない。議論の出発点となる共通の理解を明文化しておこうと
いう考えから、会計目的、基礎概念などについて文書化がすすめられ、その結果として生まれたのが概念フレームワークです
。
最近の会計基準はどれもこの概念フレームワークを基礎にして制定されていますから、会計基準の重要な論点は概念フレームワークを参照しないと
解釈できないことが多い。会計基準の制定根拠の文書にも、これこれの考え方は、概念フレームワークのどこそこによっていると明記されている。
とすれば、会計基準のことについては概念フレームワークがオオモトということになって、何もかもそれに依存してしまう。概念フレームワークがいまや
金科玉条となっているです。

この状況に批判的な見解も多い。会計基準の制定では金科玉条として概念フレームワークが引き合いに出されるが、その概念フレームワー
クを作ったのはいったい誰なのか。それはFASBの委員が寄り合いで作った「作文」にすぎず、著名な学者の関与したものではない。概念フレー
ムワークに書かれていることは、議会などフォーマルな手順によって承認されたものではなく、単なる私的意見の寄せ集めにすぎない。こうした
批判は延々とつづいている。
最近では国際会計基準IFRSsの影響力が強まってきているが、このIFRSsも独自の概念フレームワークをもっていて、アメリカのFASBのそれと同じ
ような使い方をしている。IFRSsでも金科玉条として、概念フレームワークを振りまわしているのである。しかし、IFRSsのものはFASBのものと内容的に
一致しているわけではないから、現実には金科玉条が2つあって、どっちをとるかという困った問題に遭遇する。
アメリカのFASBと国際会計基準のIASBはこれではまずいということになって、ジョイントで概念フレームワークの再検討をすることになった。その結果
として2010年9月に公表されたのが、FSAC No.8である。これはFSAC No.2 と No.3を部分的に修正する内容になっている。
Statement of Financial Accounting Concepts No.8 (September/2010).
FASB Concepts Statements No. 1 and No. 2 の一部修正
Chapter 1, The Objective of General Purpose Financial Reporting,
Chapter 3, Qualitative Characteristics of Useful Financial Information.

◆「でんさいネット」と電子債権(再)◆
売掛金などの営業債権を電子化して、ネットワークを通じて売買したり、決済する仕組みが日本市場に実現する。
2012年5月から運用される全国銀行協会の「全銀電子債権ネットワーク」がそれで、「でんさいネット」という略称も決まっている。
「でんさいネット」によって売掛金を電子化するには、債務者の承認と取引銀行経由という条件を満たすことが必要とされるが、
この条件さえ整えれば、売掛金は電子債権としてネットワークの上を走ることになる。売掛金の回収は銀行口座を使って自動的
に取り立てられるから、「ごとうび」(五十日)に集金に回るテマはなくなってしまう(左の深紅のシャクナゲは同志社大学
今出川キャンパスの正門付近で2011年5月30日に撮影)。
電子債権は期日前に、債権譲渡によって売却することが可能である。この電子債権の売却価額は額面より低くなるから、手形の
割り引きと同じ結果になるが、期日前に簡単に現金を入手できる点で、大いにメリットがあることになる。しかもこの電子債権の売却では
、1本の売掛金を何口にでも細分化することができるという。
電子債権には収入印紙を貼る必要がないし、管理や取り立てのコストは大幅に安くなるものと思われる。このため、手形の利用は劇的に
減るであろうと予測されている。従来では売掛金を手形で取り立て、その手形を銀行で割り引くケースが多かったが、こうしたケースが
日本のビジネスから消えてしまうかもしれないのである(下の花はとべら。同志社大学今出川キャンパスの正門付近で2011年5月30日に撮影)。

◆国際会計基準の新しい財務諸表のフォーマット案(再)◆
国際会計基準IFRSsにおいては財務報告の様式を改めることになっていて、アメリカの財務会計審議会(FASB)と国際会計基準審議会(IASB)が共同プロジェクトを組んで、
その原案作りの作業をすすめている。既存の財務諸表を見慣れた目からすると、その新様式はとほうもなく「奇態なもの」になりそうで、これが各国ですんなり受け入れられ
るとはとても思えない。斬新は斬新でも、「改良」だとする点が見当たらないのである。
財務報告の新様式としては、FASB/IASBから2008年に「予備的見解」(preliminary view)として原案が提示されている。その財務諸表は、財政状態計算書、包括利益計算書、キャッシュフロー計算書、キャッシュフローと包括利益計算書の調整表(reconciliation schedule)の4つによって構成されている。それぞれの様式案は次のようなものである。
@財政状態計算書のフォーム
A包括利益計算書のフォーム
Bキャッシュフロー計算書のフォーム
Cキャッシュフローと包括利益計算書の調整表のフォーム

特徴は次のような点にある。
(1)3つの財務諸表が骨格をなしており、最後の調整表は補助的な明細書であろう。
(2)4つの財務諸表はパラレルな形式となっており、いずれも次の5つのカテゴリーに区分されている。@事業活動(business activities)、A財務活動(financing activities)、B所得税(income taxes)、C非継続事業(discontinues operations)、D持分(equity)。
(3)5つのカテゴリーの区分は「マネジメント・アプローチ」(management approach)によることにし、経営者の知識にもとづいて取引がどのカテゴリーに属するかの分類を行う。
(4)従来の貸借対照表項目を5つのカテゴリーに分類し直したのが財政状態計算書であるが、その欄外に短期資産合計、長期資産合計、資産合計、短期負債合計、長期負債合計、負債合計を付記する。
(5)従来の損益計算書とその他の包括利益(other comprehensive income)とを一本化し、包括利益計算書に集約する。その他の包括利益を加減する前の利益は「純利益」(Net Profit)と呼ぶ。
(6)キャッシュフロー計算書は間接法の使用を認めない。直接法だけによるが、純利益(包括利益)とキャッシュフローとの差異は、調整表を通じてその細部を明らかにする。
参考文献
Financial Accounting Standard Board and International Accounting Standard Board, Preliminary Views on Financial Statement Presentation(October 16, 2008).
The Financial Reporting Policy Committee of the Financial Accounting and Reporting Section of the American Accounting Association, “ The American Accounting Association’s Response to the Preliminary Views on Financial Statement Presentation,” Accounting Horizons, Vol.24, No.2 (June 2010), pp. 279-296.
◆次回の更新◆
これから本格的な夏に向かいます。みなさん、ご健康にご留意のうえ、夏の日々を存分に楽しみください。次回の更新は11月を予定しています。ごきげんよう、さようなら。
2011.07.10
OBENET
代表 岡部 孝好

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