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 to New Version(November 15, 2010)




2010年11月版へのメッセージ


OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆紅葉の銀閣寺◆

   2010年の夏は猛烈に暑く、9月の半ばになってもクーラーなしにはすごせないほどの暑さでした。秋の訪れもスローペースで、5時をすぎると足元が暗く なるようになっても、もみじの枝先には青い葉が繁ったままです。しかし、立冬をすぎると、さすがに陽ざしも弱まってきましたので、そろそろその時期 ではと考え、今出川から百万遍、北白川へ回るバスを捉え、東山の銀閣寺(臨済宗相国寺派の禅寺で、東山慈照寺が正式名。1482 年に室町八代将軍足利義政によって建立された観音殿が銀閣寺と呼ばれている)に立ち寄ってみることにしました。紅葉はまだまだ、という状況 でしたが、平日なのに、庭園は修学旅行生、ガイジン、お年寄りたちでいっぱいで、たいそうな賑わいです(上は銀閣寺の庭園、2010年 11月11日撮影)

  観光都市の京都にはたくさんの観光客がお見えになりますが、とりわけ多くの人が集まるのが五月の葵祭り、真夏の祇園祭り、それに十月の時代祭り だといわれています。事実、こうしたお祭りのころになると、電車、バスだけでなく、レストランが混み合って、昼食を摂るのもたいへんになるほどです。 しかし、地元の関係者のお話によると、京都に観光客が最も多く集まるのは、本当は11月なのだそうです。3大祭りの時よりも、桜のシーズンよりも、紅 葉のシーズンに、たくさんのひとびとが京都に向かってくるということです。その11月の京都の観光客が国宝の銀閣寺を見落とすはずはありませんから、 混んでいたのは当たり前のことといえば、当たり前のことです(左は紅葉の銀閣寺。屋根の頂上には鳳凰の飾りが立っているが、写せ なかった。2010年11月11日撮影)

  11月の京都が特別に人を引きつけるのは、紅葉というよりも、「味」なのではないでしょうか。秋は実りのシーズンですから、格別に美味しいものが、お腹いっぱい食 べられます。京都には山からも、海や湖からも、川からも、里からもいろいろな産物が集まってきますし、地元には豊かな「京野菜」があります。「京料理」がど ういう調理法なのかよくわかりませんが、これもたいした人気です。朝の特急電車では、京都観光に向かう2−3人のご婦人グループとよく乗り合せますが、 どなたも開いているのはグルメ雑誌で、食事の話がとどめなく続いています。いよいよ本格的な観光と食のシーズンになってきましたが、みなさんはいかがお暮 らしでしょうか。

◆新しい収益認識基準案◆

  FASBとIASBとのジョイント・プロジェクトによる新しい収益認識基準の公開草案が、今年2010年6月に発表されたが、この公開草案は予想外に穏当な内容で、あまり強烈なリアクションを引き起こすとは考えられない。事前の段階では、国際会計基準IFRSsにおけるマーク・ツー・マーケットへの強い傾斜から、実現基準の後退、対応原則の消滅が予想されていたが、フタを開けてみると、現行の伝統的な収益認識基準と根本的に食い違うところは少ないようである。最近では国際会計基準IFRSsに対する風当たりが強く、必要もない会計基準を濫発しているとか、現今の金融不況を創出した犯人は国際会計基準だとかいった批判が浴びせられているが、この収益認識基準の公開草案であれば、大きな波風は立たないかもしれない。しかし、問題がないわけではない。収益の定義という基本的なところに、まず問題がある(右の写真は哲学の道、2010年11月11日撮影)

    【日本語版】JASB/IASB、公開草案 ED/2010/6、 「顧客との契約から生じる収益」(2010年6月)

    【英文】 IASB, Exposure Draft ED/2010/6, Revenue from Contracts with Customers, (June 2010).

  国際会計基準IFRSsの基本的なスタンスは資産・負債アプローチであるから、このスタンスによって収益を定義するとすれば、「現金または現金等価物のインフロー」、つまり「資産とは資産の増加(または負債の減少)」とするのが自然だと考えられる。この収益の定義は、FASBのSFAC No.3(1980)においてすでに採用されている(注1)から、今回のFASB・IASBの公開草案(2010)でも、このSFAC No.3(1980)の収益の定義がそのまま踏襲されるのではないかとみられていた。ところが、FASB・IASBの公開草案(2010)では、収益とは顧客に向けての「財・サービスの移転」(the transfer of goods or services)と定義されており、「資産とは資産の増加(または負債の減少)」には結びつけられていない。次がその定義である(下の紅葉の写真(3葉)は京都御所、2009年11月撮影)

「本基準案においてコアとなる原則では、企業は、顧客への財又はサービスの移転を描写するように、その財又はサービスと交換に企業が受け取る(又は受け取ると見込まれる)対価を反映する金額により、収益を認識しなければならない。」(para.2)

  「移転」というのは「売り手の企業から出ていくもの」という印象を与えるが、この解釈が可能だとすれば、収益は、インフローというよりもアウトフローだということになりかねない。アウトフローというのでは、資産・負債アプローチとツジツマが合わなくなるであろう。上に引用した文言には、たしかに「財又はサービスと交換に受け取る(又は受け取ると見込まれる)対価」が含まれている。しかし、この対価というのは金額の決定にかかわることで、収益の定義というよりも、その測定の問題である。

  国際会計基準IFRSsが提唱したかつての収益認識に関する試案では、収益の定義において、販売契約上の義務が焦点になっていた。販売契約を締結すると、売り手と買い手の両方にその契約を履行する義務が発生するが、その義務の履行が問題だというのである。売り手においては、財・サービスを引き渡すことが契約上の義務を履行することになるから、この「義務履行の充足」(satisfaction of performance obligations)をもって収益を認識するというのが基本的な考え方であった(注2)。この履行義務の充足という考え方はたしかに草案には組入れられているが、それが収益を「財・サービスの移転」とどう関連するのかは明確ではない。「財・サービスの移転」によって生じる結果が「義務履行の充足」なのか、それとも2つは同じコインの裏表なのだろうか。

(注1)SFAC No.3(1980)では、収益は資産の増加(または負債の減少)とされており、インフローが収益であると考えられている。ここにインフフローとは実際に生じた、あるいは期待されるキャッシュインフローであり、現金同等物を含むことが明記されている(para.64)。

「収益とは、財を引き渡すか財を生産することから、サービスを供与することから、あるいは経済主体の継続中の主要なまたは中心的な事業活動を構成するその他の活動から生じた、期中における経済主体の資産の流入またはその他の増加であるか、それともその経済主体の負債の減少(あるいは両方の結合)である。」(para.63)

Financial Accounting Standards Board, Statement of Financial Accounting Concepts No.3, Elements of Financial Statements of Business Enterprises (December 1980)。

(注2)この点に関しては、次を参照されたい。

辻山栄子、「収益認識と業績報告」、『企業会計』、2008年月。

◆リサイクル◆

  環境問題との関連においては、リサイクルという用語がよく使われるが、それはどういう意味なのだろうか。 リサイクル(recycle)というのは、使用済の製品を破棄せず、新たな製品に再生して、再利用することを指すのがふつうである。 再資源化によって同一資源を循環的に何度も利用し、コストと環境負荷を引き下げるのがリサイクルである。

  使用済みの製品を加工処理によって同一または類似の製品に再生し、再利用するのがリサイクルの本来の意味であり、回収した段ボール紙を再生し、これを原材料にして新しい段ボール箱を作成するのがその例である。実際には、再生加工処理をまったく行わず、旧製品をそのまま転用するケースもリサイクルと呼ばれることも多いが、同一製品をそのまま再利用するのは、正確にいえばリユース(reuse)と呼ぶべきであろう。リユースには資源の再生という物質的な循環プロセスが含まれておらず、せいぜいその所有者が交代しているにすぎない。

  使用済みの製品を分解・溶解することによって原材料を回収して、この回収原材料によって新たに製品(同種の製品とはかぎらない)を製造するのもリサイクルに含まれる。この意味での再生は原初の物質に戻すという点から、マテリアル・リサイクル(material recycle)といわれている。電化製品の解体によってレアメタルを回収するのは、このマテリアル・リサイクルの例になる。

  使用済みの製品を焼却することによって、熱エネルギー、電気エネルギーとして再生させるのもリサイクルの手法の1つであり、これはサーマル・リサイクル(thermal recycle)と呼ばれている。核燃料について、大規模なサーマル・リサイクルが試みられている点は広く知られていることである。

◆パナマ地峡とインカの悲劇◆

  クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus, 1451 - 1506) )が西インド諸島を発見して、Bahamas諸島のSan Salvador付近(正確な上陸地点には諸説が あるらしい)に上陸したのは、1492年10月12日ことであった。原住民のインディオ(コロンブスはインド人だとかたく信じていた)は温和で、純朴 な民族であり、コロンブスの乗組員にも親愛をこめて友好的に接した。コロンブスはこの第一次探検において、キューバ島の北岸、エスパニョーラ島(現在のハイチ・ドミニカ島) の沿岸を巡航し、西インド諸島の沿岸各地の上陸地でインディオと親しく交流したが、交戦はもとより、諍いが起きるようなことはまったくなかった。この意味で、新大陸の発見という画期的な できごとは、万民に幸せをもたらす平和な新時代の幕開けとなるはずであった。しかし、スペイン王室の支配下に組み入れられた「新世界」は、強欲、非情な侵略者に よる征服と圧政がつづき、血なまぐさい戦場に変わっていった。穀物と果実に恵まれた豊かな大地は、略奪と殺戮によってすさんだ荒野になってしまったのである (下の地図はメキシコ湾とカリブ海の間に浮かぶ西インド諸島)

  コロンブスが数次の航海を終えた後でも、カリブ海の奥にパナマ地峡が存在するということは、ヨーロッパの人びとにはまったく知られていなかった。 メキシコ湾とカリブ海の沿岸が地球の西の涯(ハテ)であり、そこが海の終わりにあるインドという国だと、かたく信じられていた。しかし、現地のインディ オたちには、大西洋側のカリブ海からパナマ地峡を突き抜けたその先には、もうひとつの大きな海が拡がっていることが知られていた。

  スペインの探検家、バルボア(Vasco de Balboa,1475-1519)は、カリブ海に面した植民都市(アンティグア)で都市建設にあたっていたとき、イン ディオの酋長からパナマの南には大きな海があり、その途上には黄金が出る所があるという耳よりの話を聞きこんだ。そこで、1513年、原住民を 案内に立て、黄金を求めてパナマ地峡を南に縦断してみたところ、巨大な海に到達した。バルボアはインディオの呼び名をそのまま採用して、それを 「南の海」と名づけた。これが、いまから500年前におきた「太平洋の発見」という大事件である。バルボアは黄金を手にする幸運には恵まれなか ったが、太平洋というとほもなく大きな宝物をモノにしたわけである。なお、このパナマ地峡の探検において、その隊員の一人として参加していたのが、 後年にインカの侵略者となるフランシスコ・ピサロである(右の地図は現在のパナマ海峡。上がカリブ海で下が太平洋)

  バルボアによるこの「南の海」の発見を契機にして、パナマ地峡から太平洋を南下して、南アメリカ大陸西岸を探検するという、新しいチャレンジの 機会が拓けた。この幸運をさっそくものにしたのがフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1470-1541)であり、1524年には、スペイン王室の勅許を えてペルーに向けて第一次遠征航海に乗り出した。その後、ピサロのペルー遠征航海は1526年に第二次隊が、1530年に第三次隊が、太平 洋西岸沿いに南下していったが、これらのピサロの数次の遠征隊によって、豊かなインカ帝国は完璧に破壊しつくされることになった。

  1530年にピサロ軍がトゥンベス(Pulaのすぐ北)において最初にインカ帝国に侵入したとき、インカは内紛のさ中にあり、王宮は南部のクスコ(cusco) と北部のキト(quito)の2か所で営まれていた。しかし、2つの王宮は2000kmも離れていたうえに、二人の皇帝は血を分けた兄弟であったから、ピサロのス ペイン軍の蹂躙がなければ、豊かなインカ帝国はそのまま繁栄をしつづけていたことであろう。険しい山岳地帯が領土だったとはいえ、肥沃な谷間では 豊富に穀物と果物が収穫できたし、奥深く静寂な森は多種の動物たちにとって格好の棲みかになっていた(左は南アメリカ大陸の西 海岸の地図。ピサロの艦隊はパナマから南アメリカ大陸の西海岸沿いに南下して、ペルーの山岳地帯のインカ帝国を侵略した)

  太陽を崇めるインディオは、質素な草葺きの小屋に住んで、平穏な暮らしを続けていた。金、銀などの黄金は豊富であったが、鉄器はまったく使われておらず、 農具も狩猟用具も、さらには武器も、石や材木によって作られたものを用いていた。馬も紙も、その存在が知られておらず、徒歩と口伝の文明の中で、 単純素朴な集団生活が営まれていた。そこへ銃と剣で武装した騎乗のスペイン兵士が突如として現われ、暴虐のかぎりを尽くして、破廉恥な強奪をつづ けた。黄金、宝石が奪い取られただけでなく、多くのインディオの兵士が虐殺され、誘拐された妻子が奴隷として酷使された。歴史書ではスペイン軍により「インカの反 乱軍が鎮圧された」とされているのは1572年というから、極悪非道の略奪部隊が残虐な破壊をつづけたのは、「南の海」が発見されてからほぼ半世紀にもわたった ことになる。

  日本の15ー16世紀は足利義政(1436-1490)とそれにつづく戦乱の時代であり、応仁の乱によって京の都もまた荒廃しきっていた。投げ込まれた死体によって 賀茂川(鴨川)の水が堰き止められ、ダムができたというほどのすさまじい時代である。スペインによるインカの略奪は、ほぼ同じ年代に地球の裏側で起きたことで あるから、今日の常識でその善悪を評価するのは適切なことではないであろう。しかし、マチュペチュ、ビリカバンバ、クスコなど、美しい南米の観光地がテレビに映し 出されるごとに、崩壊したインカ帝国の悲惨さを思い出さずにはおれない。

【参考文献】

   ティトウ・クシュ・ウバンギ述、染田秀藤訳、『インカの反乱』(岩波書店、2006年)。

   マンモンテル作、ほり(サンズイに皇)野ゆり子訳『インカ帝国の滅亡』(岩波書店、2008年)。

◆会計学の名著、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』◆

  会計学の著書にかぎらず、広く書物には、その名声と評価が時代とともに大きく変わることがある。世にもてはやされている書物が、突如として見捨てられ、忘れ去られてしまうのは珍しいことではないが、不思議なのは、こうして忘れ去られたはずの古い書物が、ある日にまた再び注目を集めて、光の渦の真中に引き出されることである。

  エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』という314頁の本は1961年に出版された(1995年に再版された)が、当時には画期的な会計学の研究書といわれ、これを読んでいないひとは、まともな会計学者ではないとみられるほどであった。この本を書いた2人の著者はいずれも経済学者であったし、また著書の内容も経済学の考え方に沿って厳密に展開されていたから、この本を読みこなすのはたいへんな難事業であった。しかし、わたしたちの大学院生時代はこの著書を避けて通れない1960年代後半であったから、当時の生活は、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』と格闘する毎日であった(下のウルシは京都御所の中で、2009年11月撮影)

  時価主義会計にはいくつかの類型があって、最近もてはやされている公正価値会計(マーク・ツー・マーケット会計)もその時価主義会計の累計の1つに属する。エドワーズ・ベルが50年前に展開したのも時価主義会計ではあるが、それは最近の公正価値会計とはかなり趣を異にしており、期末に資産を時価基準で評価するだけでなく、費用をも時価基準で評価するというもの(単純な資産再評価論ではなく、資産再評価論と費用再評価論を組み合わせたもの)であった。そのうえに、インフレーションによって生じる貨幣価値の低下にも対処する手立てを講じていたから、その理論的構想はきわめて緻密で、壮大なものであったといえよう。1960年代には、アメリカだけでなく世界中の会計学界が、このエドワーズ・ベルの時価主義会計論で沸騰したし、これに関連して時価主義会計論の著書が次々に世に出され、この議論の渦に加わった。 Moonitz(1961)とか, Sprouse(1962)の著書が先を争って読まれたのも、この頃のことである。

  1973年に突如としてオイルショックが発生し、これを契機に地球的規模において物価騰貴が亢進した。この経済情勢の劇的な変化を受けて時価主義会計を会計制度に組み込むことが、各国では喫緊のテーマになった。そのとき、どのタイプの時価主義会計を制度化するかが議論の焦点になったが、最も有力視されたのがエドワーズ・ベルの時価主義会計である。インフレーションによる貨幣価値の下落にも対処する一方で、資産と費用を同時に時価基準によって再評価するというモデルが、会計制度として実際に採用されようとしたのである。しかし、結局のところ、この時価主義会計の制度化は挫折して、元の原価主義会計のパラダイムに戻ってしまった。2度にわたるオイルショックが終わると、物価も鎮静化し、時価主義会計はどこかへ蒸発した。

  1980年代から1990年代を通じて、通貨危機、バブルなどが何度か発生して、その後にも、時価主義会計の採用が話題になったことは事実である。激動する経済においては原価主義会計ではビジネスをリードしきれないという批判が幾度となく提起され、この原価主義会計への批判が時価主義会計への関心をたびたび呼び覚ますことになったのである。しかし、こうした議論との関連で取り上げられる時価主義会計はエドワーズ・ベルのモデルとは別のタイプであり、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』の再評価につながるようなものではなかった。

  1990年代になると、会計学の若い旗手たちによって新しいフロンティアが開発されはじめたが、その成果の1つとして注目を集めたのがFeltham-Ohlson(1995)の企業価値評価モデルである。このFeltham-Ohlsonモデルによると、しごく単純な前提をおくだけで、会計数値によって企業価値を理論的に説明する新しい途が拓けてくる。この理論モデルには幾多の示唆が含まれているが、その含意の検討プロセスにおいて明らかになったのは、Feltham-Ohlsonモデルがその基幹においてエドワーズ・ベルと考え方を共有しているという点である。こうして、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』は再び脚光を浴びることになった(下の写真は京都御所。2009年11月撮影)

  Kenneth and Whittington(2010)は、Accounting Horizons誌の最近号に2007年に昇天したBell(1924-2007)の追悼論文を掲載している。この追悼論文では、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』の偉大な功績が讃えられているが、興味深いのは、その中で触れられている2人の著者の共同研究の姿である。

  Bellは第二次世界大戦に空軍のパイロットとして参戦したが、戦後には大学に戻り、1947年にPrinceton大学の経済学部を卒業した。その後2年間、ニューヨークタイムズで働いてからCalifornia大学Berkeley校に入学し、1949年にMBA を、1954年にPrinceton大学でPh.Dを取得した。Bellは1952年よりPrinceton大学で研究活動に従事していたが、研究領域は会計学とは無関係の国際経済論であり、1979年にRise Universityに移るまで、主としてアジア・アフリカの開発経済論の研究に携わっていた。Bellが会計学に親しみ、会計学の研究に励みだすのはEdwardの影響によるものである。

  Edwardの方はJohns Hopkins で1951年にPh.Dを取得したが、その論文テーマは企業成長論であったから、彼も会計学から研究生活をスタートしたわけではない。EdwardはBellよりも先にPrinceton大学で経済学を教えていたから、BellにとってはEdwardは2年先輩の同僚であったが、奇しくも二人は同じ研究室を共用することになった。二人は共用の研究室で教材の開発にあたりながら、会計学についても議論を深めていき、共同研究を進化させていった。もともと会計学に大きな関心を抱いていたのはEdwardであり、彼は特に減価償却に造詣が深かったという。いずれにしてもEdwardのリーダシップのもとにPrincetonでの共同研究が発展し、その輝かしい成果が1961年に世に出されたのである。

  1978年にBell とEdwardは手を携えてRise Universityに移り、ここでは会計学を基軸にして研究と教育にあたった。その後に公刊された著作リストをみると、会計学のトピックに対して、特に物価変動会計に対して、積極的に見解を表明したのはBellの方である。最後の著作は1997年に発表されているが、それは齢73歳の時に書かれた時価主義会計の有用性に関する研究である。Bellは2007年8月に逝去されたが、最後の最後まで、エドワーズ・ベル著『企業利益測定論』で展開された時価主義会計の理論を擁護しつづけたのである。

Edgar O. Edwards and Philip W. Bell, The Theory and Measurement of Business Income (University of California Press, 1961).

Peasnell, Kenneth, and Geoffrey Whittington, “The Contribution of Philip W. Bell to Accounting Thought,” Accounting Horizons, Vol.24, No. 3 (September 2010),pp.509-518.

Moonitz, Maurice, The Basic Postulate of Accounting(AICPA,1961).佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ公認会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、1962)所収。

Sprouse, Robert T., and Maurice Moonitz, A Tentative Set for Broad Accounting Principles for Business Enterprise(AICPA,1962). 佐藤孝一・新井清光訳『アメリカ公認会計士協会 会計公準と会計原則』(中央経済社、1962)所収。

Feltham, G., and J. Ohlson, “Valuation and Clean Surplus Accounting for Operating and Financial Activities, ” Contemporary Accounting Research, Vol. 11 (1995), pp.689-732.

◆国際会計基準の新しい財務諸表のフォーマット案(再)◆

  国際会計基準IFRSsにおいては財務報告の様式を改めることになっていて、アメリカの財務会計審議会(FASB)と国際会計基準審議会(IASB)が共同プロジェクトを組んで、 その原案作りの作業をすすめている。既存の財務諸表を見慣れた目からすると、その新様式はとほうもなく「奇態なもの」になりそうで、これが各国ですんなり受け入れられ るとはとても思えない。斬新は斬新でも、「改良」だとする点が見当たらないのである。

  財務報告の新様式としては、FASB/IASBから2008年に「予備的見解」(preliminary view)として原案が提示されている。その財務諸表は、財政状態計算書、包括利益計算書、キャッシュフロー計算書、キャッシュフローと包括利益計算書の調整表(reconciliation schedule)の4つによって構成されている。それぞれの様式案は次のようなものである。

 @財政状態計算書のフォーム

 A包括利益計算書のフォーム

 Bキャッシュフロー計算書のフォーム

 Cキャッシュフローと包括利益計算書の調整表のフォーム

  特徴は次のような点にある。

 (1)3つの財務諸表が骨格をなしており、最後の調整表は補助的な明細書であろう。

 (2)4つの財務諸表はパラレルな形式となっており、いずれも次の5つのカテゴリーに区分されている。@事業活動(business activities)、A財務活動(financing activities)、B所得税(income taxes)、C非継続事業(discontinues operations)、D持分(equity)。

 (3)5つのカテゴリーの区分は「マネジメント・アプローチ」(management approach)によることにし、経営者の知識にもとづいて取引がどのカテゴリーに属するかの分類を行う。

 (4)従来の貸借対照表項目を5つのカテゴリーに分類し直したのが財政状態計算書であるが、その欄外に短期資産合計、長期資産合計、資産合計、短期負債合計、長期負債合計、負債合計を付記する。

 (5)従来の損益計算書とその他の包括利益(other comprehensive income)とを一本化し、包括利益計算書に集約する。その他の包括利益を加減する前の利益は「純利益」(Net Profit)と呼ぶ。

 (6)キャッシュフロー計算書は間接法の使用を認めない。直接法だけによるが、純利益(包括利益)とキャッシュフローとの差異は、調整表を通じてその細部を明らかにする。

参考文献

Financial Accounting Standard Board and International Accounting Standard Board, Preliminary Views on Financial Statement Presentation(October 16, 2008).

The Financial Reporting Policy Committee of the Financial Accounting and Reporting Section of the American Accounting Association, “ The American Accounting Association’s Response to the Preliminary Views on Financial Statement Presentation,” Accounting Horizons, Vol 24, No.2 (June 2010), pp. 279-296.

◆廃棄物処理における「専ら物」と「有価物」(再)◆

  法律で指定された廃棄物を投棄すれば、不法投棄として処罰されることになります。しかし、「非廃棄物」であれば、投棄しても処罰されることはないのです。 処罰されるかどうかは、「廃棄物処理法」という法律で指定された廃棄物なのかどうかによって決まります(バラの写真は、大阪市西区靭公園にて、2010年 5月に撮影。なお、大阪市内のバラ園としては中之島公園が著名であるが、靭(うつぼ)公園のバラも立派のもので、いまごろは訪れる人が後を絶たない。靭 公園は西本町にあった元進駐軍の滑走路の跡地で、東西に細長く広がり、第一級のテニスコートがある)

  法律上の廃棄物は「汚物又は不要物」を指すことになっていますが、条文ではゴム屑、金属屑などど、それをいちいち列挙していますから、この列挙から洩れたもの は、すべて非廃棄物になってしまいます。そのうえに、この廃棄物の指定にあたって、わざわざ除外しているものもあるのです。このため、不法投棄を禁じた 廃棄物処理法は、穴だらけのザル法になりがちです。大きな穴は2つありますが、その1つは「モッパラモノ」と、もうひとつは「ユウカブツ」と呼ばれています。

(注)法令においては、「廃棄物とは、ごみ、粗大ごみ、燃え殻、汚泥、糞尿、廃油、廃酸、廃アルカリ、動物の死体、その 他の汚物又は不要物であって、固形状又は液状のもの(放射性廃棄物は除く)」(廃棄物処理法)と定義されている。

  廃棄物処理法では、廃棄物がさらに細分されていますが、その代表格をなすのが産業廃棄物です。「事業活動に伴って生じる廃棄物」が「事業 系廃棄物」と呼ばれ、燃え殻、廃油、廃酸、廃アルカリなど、その中の特定項目が産業廃棄物に指定されています。この項目別の指定のほかに、 政令によって追加できる産業廃棄物があり、環境省令によって紙くず、木くずなど13品目が産業廃棄物に追加指定されています。この環境省令による産 業廃棄物の指定では、追加のほかに除外が行われていて、産業廃棄物にはならない品目が明記されているのです。モッパラモノというのは、 その除外品目のことです。

  モッパラモノという表現は、「専ら再生利用の目的となる産業廃棄物」という条文の文言の頭と尻を取ったジャーゴンであり、業界では「専ら物」で通用する らしい。具体的には古紙、古繊維、くず鉄(金属屑)、空き瓶の4種を指していますが、これらはリサイクル、リユースが前提にされており、ハナから環 境汚染にはつながらないものとして除外されているのです。分類上は非廃棄物ではなく廃棄物、それも産業廃棄物になっているのですが、市場に流通する財・サ ービスの一種だとみなされているのだから、これが投棄されることは絶対にありえないと考えられていますし、また仮に投棄されることがあっても、罪を問われるよう なことはないのです。

  「ユウカブツ」とは、「有価物・有用物」を意味するのですが、この定義は法令ではなされていません。しかし、廃棄物が「汚物又は不要物」とされている 状況で、「有価物・有用物」といえば、「不要物ではない」というのと同じであり、廃棄物には(産業廃棄物だけでなく一般廃棄物にも)該当し なくなります。つまり「有価物・有用物」であれば、それはそのまま非廃棄物なのであり、投棄しても、不法投棄の処罰は受けないのです。これも、まともな財・サービスと みなされていることによります。

  「有価物」とは外部への売却が可能で、市場価格をもつものを指しています。この有価物の買い手は、対価を支払う以上、転売か内部利用を意図している はずですから、買ったものはリサイクル、リユースに廻されるということになって、予定通りにすすめば、たしかに廃棄物にはならないわけです。これに対して「有用物」は社 内で再利用される予定のものですから、この内部リユースが筋書き通りなら、外部からの購入費用が節約でき、このコスト節約額がその評価額になるは ずです。この点で、有用物は原材料と同じであり、たしかに廃棄物ではないといえます。

  いずれにしても、「専ら物」と「有価物・有用物」であれば、投棄しても、不法投棄として処罰されるようなことはないのです。要するに、廃棄物の処理にこまった場合 には、これら2つのいずれかであるかのように偽装すれば、処罰を免れることができます。その偽装の手口はいろいろあるらしいのですが、もっともありそうなのが「混載型」です。 「専ら物」の中に似たような廃棄物を混ぜ合わせるのです。古紙の中に怪しい他のものを包み込むのは、われわれの家庭ごみのケースだけではないらしい。

  むつかしいのは、有価物の判定である。処理業者に金を支払えば、何でも有価物だといえます。価格の指定があるわけではないから、値段はいくらでもよいのです。 とにかく金を払えば有価物になり、投棄しても不法投棄の処罰を受けない。こうして金銭を支払った形の偽装投棄が、まかり通ることになるというのです。

芝田稔秋、「連載・廃棄物処理法」、『月刊廃棄物』Vol.36,NO.469(2010年4月)、64-69頁。

◆お釈迦(再)◆

  工場では、作り損ねのことを「お釈迦」(おしゃか)といっています。仏像の阿弥陀さまを鋳造するはずだったのに、できあがった のはお釈迦さまだったいうお話によっています。会計学でいう「仕損品」(しそんじひん)がそのお釈迦にあたるのですが、仕損品の 含意はもっと広く、いろいろなケースを含みます。製品として売れないものがすべて仕損品なのですから、作り損ねのような失 敗作だけでなく、キズもの、規格外、不合格品などが含まれることになります。最近では品質検査がやかましくなっていますから、 検査に通らないものがすべて仕損品の部類に落ちることになります。だから、工場では、お釈迦が減っていないのです。

  製造ラインで仕損品を1点も作らなければ、全部が売りものの良品になって、歩留りが100%になります。歩留りが100%なら、 無駄がまったくないわけですから、生産性が上がって、コストが引き下げられます。歩留りを100%にするのはクズを出さないことで もありますから、お釈迦を出さないと、環境にやさしい工場になって、従業員からも地域住民からも歓迎されます。

  お釈迦を造らないようにするには、どうすればよいか。これは昔から今に続く永遠の課題ですが、実際には簡単なことでは ないのです。トヨタのリコール騒ぎをみても明らかなように、あれだけ神経をすりへらして品質管理を徹底しても、まだまだ徹底が 足りないのです。いまわれわれは科学技術の最先端の世界に住んでいるようですが、実際には、技術的進歩の余地が身 の回りに多く残されていて、お釈迦が多く出ているのです。お釈迦をまったく出さないようにするには、さらにやらねばならないこ とが山積しています。材料とか機械を改めるだけでなく、やり方とかシステムを変えていかないといけないわけですので、教育 とか躾けとか、ひとの生き方の根本にまでかかわってきます。お釈迦を出さないというのは、簡単なようであって、実際には、 達成のむつかしい遠い目標といえそうです。

◆次回の更新◆

  ことしは天候不順の1年で、地震、雷、火事・・・と、いろいろなことがたてつづきに起きました。そのなかで温和な秋の日を楽しみ、平穏に年の瀬を 迎えられることは、幸せなことなのでしょう。みなさん晩秋と暮れの日々をお元気にて、存分にお楽しみください。そして、よいお正月を お迎えください。次回の更新は新年を予定しています。ごきげんよう、さようなら。


2010.11.15

OBENET

代表 岡部 孝好