A Message from Webmaster

 to New Version(August 20, 2010)




2010年08月版へのメッセージ


OBE Accounting Research Lab



Back Numbers [1995年10月 ラボ開設のご挨拶][ Webmasterからのメッセージのバックナンバー]


◆シリコンバレーへの旅◆

  ハイテク産業が集積するサンフランシスコ南部は、シリコンバレー(Silicon Valley)として世界に広く知られています。この2010年の7月に、そのシリコンバレーを訪れ、 懐かしいアメリカの活気を堪能することができました。2006年の夏以来、4年振りのことです。熱帯夜の日本からサンフランシスコ国際空港に飛んでみると、 朝夕は20度Cを割る肌寒さで、街を歩いているひとはコートやセーターに身を包んでいました。わたしのようなTシャツ、短パンの男は、いても若い旅行者にかぎら れているようですので、あわててナイキタウンにウンドブレーカーを買いに走りました。ロシヤは空前の熱暑だというのに、アメリカの西海岸はクールな夏です。 (下の花はスタンフォード大学のビジネススクールの中庭付近で、2010年7月27日に撮影したもの。花の名称は不詳)

1990年代のシリコンバレーには熱気と活力が満ち溢れていましたが、それはITバブルが真っ盛りで、混乱のさなかのころのことでした。バブルが弾けたいまでは、 コンピュータ業界の勝敗がついたということでしょうか、勝ち組の巨大企業だけがシリコンバレーに居座っていて、その本社ビル群が威容を誇示しています。Adobe、Apple、eBay、Google、CiscoSystemなど、超一級の世界的企業の頭脳本部がここシリコンバレーに並んでいるのです。樹木と芝生に取り囲まれた広大な会社の敷地には、 従業員たちの夥しい車がパークされていますが、どの車もピカピカで、むかしのようなポンコツのアメ車はどこにも見当たりません。時代がすっかり変っ たのを感じます(バックナンバー2006年のシリコンバレーへの旅

  シリコンバレーというのは、サンフランシスコ国際空港の南部に並ぶ都市群を指しており、Palo Alto、Mountain View、Sunnyvale、Santa Clara、San Joseなどの都市が 含まれます。1990年代初めには中核都市のサンノゼ(San Jose)だけをシリコンバレーとみる傾向がありましたが、いまでは裾野が広がり、サンフランシスコ湾の南 側をカバーする広大な地域の全体がシリコンバレーと呼ばれています。

  ITバブルのころにはNEC、富士通などの研究所も多数進出していたのですが、これらの日本企業の姿はいまはシリコンバレーから消えてしまっています。 シリコンバレーで頑張りつづけている日本企業はキャノンぐらいのものであり、大部分は撤退したか、それともどこかへ引っ越したということでしょう。寂しいことではありま すが、これも盛衰の激しいビジネスの世界では、いた仕方のない現実です。

  シリコンバレーで変化したのは、会社ばかりではないのです。ハイテク企業の成功によってシリコンバレーの市や郡(アメリカでは郡も行政区画にな っていて、保安官事務所などは郡役所の所管になっている)でもフトコロが豊かになったのか、道路、公園 などの建設がすすめられていて、清潔で閑静な街並みが整備されています。市庁舎、コンベンションセンターなども新しく建て替えられていますし、学校、ミュージ アム、サッカー場なども、立派な新造の建築物に変えられています。市内で活動する会社が豊かになると、市や郡とか住民も豊かになって、都市全体が活気づくの です。うらやましいかぎりの街づくりですが、この都市計画を推し進めたのも、おそらくはシリコンバレーのIT企業の関係者です。なんといっても、センスがいいのが目立ち ます。

  シリコンバレーにおける交通は、アメリカのどこもがそうであるように、クルマが中心であり、フリーウェイを使った自動車通勤が基幹をなしています。しかし、公共交通もしっ かり整備されていて、サンフランシスコの市街からサンノゼの間では、CALtrainという2階建ての汽車が突っ走っています(写真)。途中の各駅には広大な駐車場が設け られていますから、周辺部の人々は”Park-and-Ride”により、朝は車を乗り捨て、夕方にはその車をピックアップして、通勤しているのでしょう。CALtrainの駅の近くには大きな ショッピングモールがかならずありますから、帰りにモールの駐車場にパークすれば、買い物も帰り道で簡単に片づきます。

  サンフランシスコのダウンタウンから国際空港までは、地下鉄のBARTが走っています。これは日本の地下鉄と同じくらいに便利な乗り物で、本数も多く、料金も割安です。 しかし、このBARTはサンフランシスコの市街地から拡がる鉄道網であり、湾の南側では、国際空港近くのMILBRAEという駅が終点で、シリコンバレーまで走っていないのです。 そこで、BARTの終点MILBRAE駅で、隣接しているCALtrainの駅へ乗り換え、シリコンバレーを南へ下だっていくことになります。

  MILBRAE駅から南に向かうCALtrainに乗り換えると、それはMountain Viewという美しいシリコンバレーの街を通り、最後にはSan Joseに達します。しかし、Moutain View駅から南に向 かってははVTA(valley transportation authority)という路面電車がCALtrainに並行して走っていますので、このチンチン電車(写真)でシリコンバレーをゆっくり走るのも、悪くない 旅になります。CALtrainもそうですが、この路面電車も自転車を乗せてくれますから、かなり遠くまでサイクリングに出かけることも可能です(右の写真はランチタイムのMountain Viewの街、2010年7月28日撮影)

  CALtrainは2階建て、5両編成の列車で、往時のAmtruckの線路の上を高速で走っています。VTAの路面電車は2両編成の「無排出電車」(Zero Emission Vehicle)であり、主要 な交差点ごと停車する鈍行です。いずれも自動切符販売機がプラットフォームの上にあって、乗車の前にチケットを購入するのがルールになっておりますが、改札機はない わけですから、降車の後に自分で屑かごに捨てることになります。ときどき車内検札があり、切符をもっていないと、罰金として$250(=¥25,000)が徴収されるということです。

  シリコンバレーのまん中にあるのがスタンフォード大学(Stanford University)ですが、単に場所が近接しているだけではなく、スタンフォード大学とシリコンバレーとの間には、切って も切れない深い関係があります。スタンフォード大学はPalo Altoの街にある伝統校ですが、シリコンバレーの基礎を創ったのが、スタンフォード大学なのです。周辺のシリコンバ レーにハイテク企業が群生するようになったのは、スタンフォード大学で開発された先端技術が、地元で企業化されたことによっているのです。スタンフォード大学のIT技術が 周辺に洩れた結果として、シリコンバレーが形成されたのであり、IT産業の創生においても、地域経済の振興においても、中心的な役割を果たしたのはスタンフォード大学だった のです(上と下の写真はスタンフォード 大学。2010年7月27日撮影)

  大学内にStanford Research Parkを設け、これをハイテク会社、ベンチャー事業に優先的に使わせるというアイデァを示したのは、スタンフォード大学のFrederick Terman だったといいます。 Termanの計画がものの見事に成功し、多数の試行会社の中からHewlett-Packard、Kodakなどの超優良会社が生まれ、Stanford Research Parkが ハイテク産業の中心地とみられるようになったわけです。シリコンバレーにはサンノゼ・カリフォールニア州立大学(San Jose State University:SJSU)もありますが、 この大学がシリコンバレーの形成に大いに寄与したことも見落とせない点です。IT技術の徹底した教育を通じてハイテク産業のエンジニアを育成し、この人材を地元のOracle、Intelなどに送り込んだのです。こうしたSJSUの卒業生たちがその後IT産業のリーダーシップを担うようになって、シリコンバレーはめざましい発展を遂げることになったといいます。大学と会社の連携が 成功した典型的な事例としてシリコンバレーがよく引き合いに出されるのは、このような事情によるのです。

◆国際会計基準の新しい財務諸表のフォーマット案◆

  国際会計基準IFRSsにおいては財務報告の様式を改めることになっていて、アメリカの財務会計審議会(FASB)と国際会計基準審議会(IASB)が共同プロジェクトを組んで、 その原案作りの作業をすすめている。既存の財務諸表を見慣れた目からすると、その新様式はとほうもなく「奇態なもの」になりそうで、これが各国ですんなり受け入れられ るとはとても思えない。斬新は斬新でも、「改良」だとする点が見当たらないのである。(左の写真はネムの花、Mountain View付近で2010年7月28日撮影)

  財務報告の新様式としては、FASB/IASBから2008年に「予備的見解」(preliminary view)として原案が提示されている。その財務諸表は、財政状態計算書、包括利益計算書、キャッシュフロー計算書、キャッシュフローと包括利益計算書の調整表(reconciliation schedule)の4つによって構成されている。それぞれの様式案は次のようなものである。

 @財政状態計算書のフォーム

 A包括利益計算書のフォーム

 Bキャッシュフロー計算書のフォーム

 Cキャッシュフローと包括利益計算書の調整表のフォーム

  特徴は次のような点にある。

 (1)3つの財務諸表が骨格をなしており、最後の調整表は補助的な明細書であろう。

 (2)4つの財務諸表はパラレルな形式となっており、いずれも次の5つのカテゴリーに区分されている。@事業活動(business activities)、A財務活動(financing activities)、B所得税(income taxes)、C非継続事業(discontinues operations)、D持分(equity)。

 (3)5つのカテゴリーの区分は「マネジメント・アプローチ」(management approach)によることにし、経営者の知識にもとづいて取引がどのカテゴリーに属するかの分類を行う。

 (4)従来の貸借対照表項目を5つのカテゴリーに分類し直したのが財政状態計算書であるが、その欄外に短期資産合計、長期資産合計、資産合計、短期負債合計、長期負債合計、負債合計を付記する。

 (5)従来の損益計算書とその他の包括利益(other comprehensive income)とを一本化し、包括利益計算書に集約する。その他の包括利益を加減する前の利益は「純利益」(Net Profit)と呼ぶ。

 (6)キャッシュフロー計算書は間接法の使用を認めない。直接法だけによるが、純利益(包括利益)とキャッシュフローとの差異は、調整表を通じてその細部を明らかにする。

参考文献

Financial Accounting Standard Board and International Accounting Standard Board, Preliminary Views on Financial Statement Presentation(October 16, 2008).

The Financial Reporting Policy Committee of the Financial Accounting and Reporting Section of the American Accounting Association, “ The American Accounting Association’s Response to the Preliminary Views on Financial Statement Presentation,” Accounting Horizons, Vol 24, No.2 (June 2010), pp. 279-296.

◆中之島に中央公会堂を寄付した男、岩本栄之助◆

  岩本栄之助(いわもと えいのすけ)ーー明治10(1877)年 - 大正5(1916)年ーーという男は、明治時代に大阪の北浜で活躍した株式仲買人。 大阪の両替商の次男として生まれ、市立大阪商業学校(現大阪市立大学)にて商業学を学ぶ。日露戦争に出征し、陸軍中尉にまで昇進した。戦後の明治39(1906)年に家督を 相続して株式仲買人となったが、翌明治40(1907)年に株価が暴落し、野村徳七(二代目、野村證券、大和銀行の創立者)などの大阪の仲買人たちが苦境に立った。この時に全財産を投じて買い支え、売り方に対抗したの が岩本栄之助である。この猛勇果敢な相場の張り方が注目を集め、「北浜の風雲児」と呼ばれた。(右の写真はサンフランシスコのUnion Squareで、2010年7月31日撮影)

  明治42(1909)年に渋沢栄一らとアメリカを視察して、この時に慈善事業の重要性に開眼したらしい。その結果として建立されたのが、大阪中之島のシンボルとしていまに残っている大阪市中央 公会堂である。大正5(1916)年)には第一次世界大戦による異常景気で株価は暴騰したが、岩本栄之助はこれに売り方として立ち向かって失敗して、ピストル自殺を遂げた。

◆廃棄物処理における「専ら物」と「有価物」(再)◆

  法律で指定された廃棄物を投棄すれば、不法投棄として処罰されることになります。しかし、「非廃棄物」であれば、投棄しても処罰されることはないのです。 処罰されるかどうかは、「廃棄物処理法」という法律で指定された廃棄物なのかどうかによって決まります(バラの写真は、大阪市西区靭公園にて、2010年 5月に撮影。なお、大阪市内のバラ園としては中之島公園が著名であるが、靭(うつぼ)公園のバラも立派のもので、いまごろは訪れる人が後を絶たない。靭 公園は西本町にあった元進駐軍の滑走路の跡地で、東西に細長く広がり、第一級のテニスコートがある)

  法律上の廃棄物は「汚物又は不要物」を指すことになっていますが、条文ではゴム屑、金属屑などど、それをいちいち列挙していますから、この列挙から洩れたもの は、すべて非廃棄物になってしまいます。そのうえに、この廃棄物の指定にあたって、わざわざ除外しているものもあるのです。このため、不法投棄を禁じた 廃棄物処理法は、穴だらけのザル法になりがちです。大きな穴は2つありますが、その1つは「モッパラモノ」と、もうひとつは「ユウカブツ」と呼ばれています。

(注)法令においては、「廃棄物とは、ごみ、粗大ごみ、燃え殻、汚泥、糞尿、廃油、廃酸、廃アルカリ、動物の死体、その 他の汚物又は不要物であって、固形状又は液状のもの(放射性廃棄物は除く)」(廃棄物処理法)と定義されている。

  廃棄物処理法では、廃棄物がさらに細分されていますが、その代表格をなすのが産業廃棄物です。「事業活動に伴って生じる廃棄物」が「事業 系廃棄物」と呼ばれ、燃え殻、廃油、廃酸、廃アルカリなど、その中の特定項目が産業廃棄物に指定されています。この項目別の指定のほかに、 政令によって追加できる産業廃棄物があり、環境省令によって紙くず、木くずなど13品目が産業廃棄物に追加指定されています。この環境省令による産 業廃棄物の指定では、追加のほかに除外が行われていて、産業廃棄物にはならない品目が明記されているのです。モッパラモノというのは、 その除外品目のことです。

  モッパラモノという表現は、「専ら再生利用の目的となる産業廃棄物」という条文の文言の頭と尻を取ったジャーゴンであり、業界では「専ら物」で通用する らしい。具体的には古紙、古繊維、くず鉄(金属屑)、空き瓶の4種を指していますが、これらはリサイクル、リユースが前提にされており、ハナから環 境汚染にはつながらないものとして除外されているのです。分類上は非廃棄物ではなく廃棄物、それも産業廃棄物になっているのですが、市場に流通する財・サ ービスの一種だとみなされているのだから、これが投棄されることは絶対にありえないと考えられていますし、また仮に投棄されることがあっても、罪を問われるよう なことはないのです。

  「ユウカブツ」とは、「有価物・有用物」を意味するのですが、この定義は法令ではなされていません。しかし、廃棄物が「汚物又は不要物」とされている 状況で、「有価物・有用物」といえば、「不要物ではない」というのと同じであり、廃棄物には(産業廃棄物だけでなく一般廃棄物にも)該当し なくなります。つまり「有価物・有用物」であれば、それはそのまま非廃棄物なのであり、投棄しても、不法投棄の処罰は受けないのです。これも、まともな財・サービスと みなされていることによります。

  「有価物」とは外部への売却が可能で、市場価格をもつものを指しています。この有価物の買い手は、対価を支払う以上、転売か内部利用を意図している はずですから、買ったものはリサイクル、リユースに廻されるということになって、予定通りにすすめば、たしかに廃棄物にはならないわけです。これに対して「有用物」は社 内で再利用される予定のものですから、この内部リユースが筋書き通りなら、外部からの購入費用が節約でき、このコスト節約額がその評価額になるは ずです。この点で、有用物は原材料と同じであり、たしかに廃棄物ではないといえます。

  いずれにしても、「専ら物」と「有価物・有用物」であれば、投棄しても、不法投棄として処罰されるようなことはないのです。要するに、廃棄物の処理にこまった場合 には、これら2つのいずれかであるかのように偽装すれば、処罰を免れることができます。その偽装の手口はいろいろあるらしいのですが、もっともありそうなのが「混載型」です。 「専ら物」の中に似たような廃棄物を混ぜ合わせるのです。古紙の中に怪しい他のものを包み込むのは、われわれの家庭ごみのケースだけではないらしい。

  むつかしいのは、有価物の判定である。処理業者に金を支払えば、何でも有価物だといえます。価格の指定があるわけではないから、値段はいくらでもよいのです。 とにかく金を払えば有価物になり、投棄しても不法投棄の処罰を受けない。こうして金銭を支払った形の偽装投棄が、まかり通ることになるというのです。

芝田稔秋、「連載・廃棄物処理法」、『月刊廃棄物』Vol.36,NO.469(2010年4月)、64-69頁。

◆堺事件(再)◆

  信長の時代よりも前に、堺の街は自由な工業都市になっていて、海外との貿易を すすめる一方で、鉄砲鍛冶など、独自技術にもとづく新事業をつぎつぎに興して いた。その繁栄振りはダントツで、当時の京都や大坂も、とても足元にも及ば なかったものと思われる。

  堺を訪れて、当時の街並みの図を見てみると、この自治都市が濠で囲まれたこじ んまりとした城郭を形成していたことがわかる(写真)。大阪湾に向かっては椀状 の港が築かれており、この港を基地にして交易が繰り広げられていたらしい。すべ ての富はこの自治都市の中に蓄えられていたはずだから、濠の上に架かっている橋 を中心に堅牢な防衛線が構築されていたものと想像される。護りの堅い城郭であっ たのだから、よく物語に出てくるように、歌舞音曲の華やかな街であったのかどうか 、疑わしくなってくる。

  1868年(慶応4年)、この街の警護に当たっていた土佐藩士が、堺港への上陸を企 てたフランス兵士に発砲し、いわゆる堺事件が勃発した。開国前後のこの国際的な 難事件は森鴎外のほか、幾人かが小説に取り上げているから、その筋書きはよく知 られているところである。最終的には土佐藩士が責任を取らされて、20数名が腹を 切ることになったが、11人まで処刑がすすんだところで、検分に当たっていたフラ ンス人の公使が卒倒して、中止ということになった。12番目以降の藩士が救わ れたわけである。堺の妙国寺の境内で処刑が行われ、北隣の宝珠院に1人づつ大甕 に入れて埋葬されたと伝えられている。「土佐11烈士の墓」はいまも宝珠院の中に あり、花が供えられている(写真)。

◆茶臼山(再)◆

  慶長20(1615)年5月7日、大阪夏の陣が決戦の時を迎えていた。真田幸村率いる3,500の赤揃えの兵は大阪城 を出陣し、深い霧の中を南の四天王寺方面に向かった。四天王寺に隣接する茶臼山には徳川家康が陣を構え ていたが、その防衛線を固めていたのは越前の松平忠直の軍勢15,000であった。霧の中で2軍の前哨が接触し、 予期せぬ形で歴史に残る大合戦が始まった。

  真田軍は一文字の陣形で、何度も松平陣の中に切り込み、最後には家康に手が届く寸前まで攻め入った。しかし、 松平勢をついに崩せず、真田勢は疲労困憊して後退した。幸村も安居神社の社殿に逃れ、疲れを癒していた。そこ を敵兵に発見され、首を討たれてしまった。

  講談で何度も聞いた茶臼山は、行ってみると、山というより小高い丘にすぎない。天王寺公園の中に市立美術館があるが、その裏 手の樹木に覆われた公園がその茶臼山である。近所の人が散歩している風景は目にしたが、観光客とか観光バスが訪れている 様子ではなかった。腰を下ろす茶屋にも行き合わなかったし、六文銭(真田のトレードマーク)の煎餅を商う店も見当 たらなかった。閑静で、みどり豊かな心地よい南大阪の一角であったが。

◆「包括利益」の開示(再)◆

  日本の会計基準を国際会計基準(IFRSs)に擦り寄せることをコンバージェンス(convergence)といっているが、この流れの中で、損益計算書の末 尾に「包括利益」を追加するということになりそうである。「当期純利益」の次に「その他の包括利益」を表示し、これら2つを合算した数字を「 包括利益」と呼ぶわけである。

  問題は新たに追加される「その他の包括利益」であるが、これは3つの項目から構成される。まず第1は「その他有価証券の評価差損益」であり、 相互持合い株式に発生した時価評価損益が収容される。第2は「子会社投資の換算差額変動額」であり、海外子会社の投資勘定に生じた 円換算差額の変動額が計上される。第3は「ヘッジ損益の変動額」であるが、これは、為替変動リスクを回避する目的で為替ヘッジをしている場合におい て、ヘッジ損益が増減したときの変動額を計上する。これら3項目ともに時価評価にともなう評価差額を意味しているから、包括利益の表示は貨幣性資産に発 生した未実現利益に公式な認識を与え、利益計算に算入することになる。

  現行の会社法が施行される前には、損益計算書の純利益の後には「未処分利益」が付加されており、処分可能利益が損益計算書のボトム ラインになっていた。その未処分利益のセクションが廃止になってやっと損益計算書がすっきりしたのに、こんどは包括利益の追加となって、またも ややこしくなってきた。会計改革は行きつ戻りつで、行く末がみえてこない。

◆お釈迦(再)◆

  工場では、作り損ねのことを「お釈迦」(おしゃか)といっています。仏像の阿弥陀さまを鋳造するはずだったのに、できあがった のはお釈迦さまだったいうお話によっています。会計学でいう「仕損品」(しそんじひん)がそのお釈迦にあたるのですが、仕損品の 含意はもっと広く、いろいろなケースを含みます。製品として売れないものがすべて仕損品なのですから、作り損ねのような失 敗作だけでなく、キズもの、規格外、不合格品などが含まれることになります。最近では品質検査がやかましくなっていますから、 検査に通らないものがすべて仕損品の部類に落ちることになります。だから、工場では、お釈迦が減っていないのです。

  製造ラインで仕損品を1点も作らなければ、全部が売りものの良品になって、歩留りが100%になります。歩留りが100%なら、 無駄がまったくないわけですから、生産性が上がって、コストが引き下げられます。歩留りを100%にするのはクズを出さないことで もありますから、お釈迦を出さないと、環境にやさしい工場になって、従業員からも地域住民からも歓迎されます。

  お釈迦を造らないようにするには、どうすればよいか。これは昔から今に続く永遠の課題ですが、実際には簡単なことでは ないのです。トヨタのリコール騒ぎをみても明らかなように、あれだけ神経をすりへらして品質管理を徹底しても、まだまだ徹底が 足りないのです。いまわれわれは科学技術の最先端の世界に住んでいるようですが、実際には、技術的進歩の余地が身 の回りに多く残されていて、お釈迦が多く出ているのです。お釈迦をまったく出さないようにするには、さらにやらねばならないこ とが山積しています。材料とか機械を改めるだけでなく、やり方とかシステムを変えていかないといけないわけですので、教育 とか躾けとか、ひとの生き方の根本にまでかかわってきます。お釈迦を出さないというのは、簡単なようであって、実際には、 達成のむつかしい遠い目標といえそうです。

◆大阪商業講習所(再)◆

  私立大阪商業講習所が西区立売堀北通3丁目に開設されたのは、明治13年9月のことという。発起人の代表は五代友厚であり、 鴻池善右衛門ら16名が創立委員に名を連ねていたらしい。翌明治14年に府立の学校に組織変更になり、明治18年には大阪商業学校として、 日本の先端的な高等商業教育機関の1つに生まれ変わった。その後、大阪高商、大阪商大と発展を遂げ、今日の大阪市大となるわけである。

  私立大阪商業講習所の正科には簿記、経済、算術の3学科があり、昼夜の2部制になっていた。正科は15名、速成科は 35名の小所帯であったが、教場は畳敷きで、教師も生徒も前垂れがけであったという。お金がなかったというよりも、当時の 浪速の商家の体裁に合わせたことによる。畳敷き、前垂れのこの情景の中で、教えられていたのは西洋式の複式簿記であった (萩の花は秋に咲くものとされていますが、中国には春に咲く萩があるという。下の写真は春咲きの中国萩。 池田市水月公園にて、2010年5月撮影)

  東京では明治7年に大蔵省銀行学局が設立されていて、そこでは英人シャンドによって簿記学、経済学が教授されていた。この簿記学は西洋式 の銀行簿記であり、その教科書は今にも残っている(わたしも持っている)。東京ではそれ以前から三田の慶応義塾で行われていたビジネス教育が広 く知られていたが、簿記学のテキストは福沢諭吉訳の『帳合之法』であったろう。明治8年になると私立東京商法講習所(後の東京商大、現在の 一橋大学)が開設されているが、ここでは米人ホイットニーが簿記を中心にして、本格的に近代的な商業教育を教授していた。神戸にもこの動きが 伝わって、明治11年1月に県立商業講習所(その後神戸高商、神戸商大を経て、現在は神戸大学経営学部)が創立された。大阪商業講習所 の設立はこのブームに乗ったものであるが、かなり後発の方であったにもかかわらず、その高等商業教育はレベルの高いものであった。高等商業教 育に対する当時の大阪人の熱意と取組みは相当なもので、これが明治・大正・昭和を通じて、商都大阪の人材育成の基礎となったのである。

宮本又次、『五代友厚伝』(有斐閣、昭和55年)、390-365ページ

◆次回の更新◆

  ことしの夏も天候不順で、地震、雷、火事、台風の心配がありますが、みなさんお元気にて、安全な夏休みを存分にお楽しみください。 次回の更新は11月を予定しています。ごきげんよう、さようなら。


2010.08.20

OBENET

代表 岡部 孝好