
会計学の名著を訪ねて
OBE Accounting Research Lab
William Andrew Paton, Accounting Theory
(Ronald Press,1922)
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【Part 2】ペイトンの時価主義会計論は、本当に蒸発したのか? |

☆古書店での再会☆
1980年代になると、わたしはエージェンシー理論の方に両脚を乗せてしまっていて、ペイトンの時価主義会計論など頭の片隅に片鱗も残っていない感じであった。ある晴れた秋の日、東京神田
の古本屋街をうろついていて、古書店の奥の隅でなんとあのPatonの、あのAccounting Theoryにばったりと遭遇したのである。もちろん1922年の原著ではなく、1962年の再版本で、出版社
はA.S.P.Accounting Studies Press, LTDという聞き覚えのない名前になっていた。特筆すべきことは表表紙の裏に書かれたペイトン直筆の署名であり、下の写真のように、"Best Wishes from WaPaton 9/1/62”とはっきりと記されている。この筆跡は、まちがなくW. A. Patonのものである。

W. A. Patonが1960年代に東京を訪れたという話は、耳にした覚えがない。1960年代以前においてアメリカに留学できた幸運な日本人の会計学者が何人かいたことはたしかであるが、
ミシガン大学アン・ナーバ校でW.A.Patonに直接に会うことができた会計学者はごく少数であったにちがいない(*)。日本の会計学界でW.A.Patonを専門にしている研究者としては、当時
でも5人以上を思い浮かべることができたが、W. A. Patonからサイン入りの著書の献呈を受けるほどに親しい日本人の会計学者は想像することができない。この疑問を解くヒントはもうひとつ
ある。もしW. A. Patonの日本人研究者で、そのサイン入り著書の贈呈を受けるほどの人であれば、書斎の目立つところに飾っているはずで、場末の古本屋に貴重な著書を売るはずが
ない。W. A. Patonからこのサイン入りの著書を贈られたラッキーな会計学者は、すでに故人となっている可能性が大きい。いったい誰なのであろうか?
*かなり後になって聞いた話では、丹波康太郎先生が1950年代にミシガン大学アン・ナーバ校に留学されていたということあった。しかし、丹波先生から
W. A. Patonのことを伺った覚えはまったくない。
2012年春、わたしは同志社大学を辞するにあたり、トラック一杯分の蔵書を処分して、かなりすっきりした気分を楽しんでいた。何か大切なものを失った不安もなかったわけではないが、
身辺がすっかり片付いて気持ちが軽くなっていたのである。その後になって、W.A.Patonのサイン入りの本のことをふと思い出し、あの本まで処分すとはバカなことをしたものだ、とずいぶ
ん悔んだ記憶がある。しかし、この記憶もしだいに薄れて、サイン入りのW.A.Patonの本などすっかり忘れていた。ところがこの夏の夕方に、手許に残っているごくわずかの蔵書の中に、
あのサイン入りのAccounting Theoryを見つけたのである。懐かしい頁を開いて、またも拾い読みを始めたのはもちろんのことである。
☆若き日の時価主義会計論とその「蒸発」の兆候☆
さて名著の名に恥じないAccounting Theory(1922)は1917年のPh.D論文を収録した著作であり、既述のようにその主内容は簿記論である。しかし、Accounting Theory(1922)においてPh.D論文に相当する部分はT−Z、]−]Xの各章であり、残りの4章ではそれまでに公表された他の論文が補筆のうえ収録されている。お弟子さんのZeff(1979)が精密に比較検討
したところによれば(*)、補筆追加されたこの4章にこそペイトン理論の重要な発展と変化が隠されており、時価主義会計論についていえば、このAccounting Theory(1922)の段階においてすでにそれは「蒸発」しはじめていたというのである。
*Stephen A. Zeff, Joel Demski and Nicholas Dopuch (eds.), Pioneer Accounting Theorist: Essays in Honor of William A. Paton (Division of Research, Graduate School of Business Administration, University of Michigan,1979).
新古典派経済学によるペイトンは価格メカニズムを信奉していたから、若き日においては「原価」よりも「価値」の方に経済的な意味があるという単純な時価主義会計論を展開していた。当時は第一次世界大戦勃発後のことであるから、かなりの勢いで物価が騰貴しており、この事情を背景にして上昇しつづける時価に資産を評価替えするのが合理的であるという議論を積極的に展開したのである(*)。このためペイトンの時価主義会計論は上方向の資産評価増(appreciation)ばかりを主張するものと一般に受け止められたが、ペイトンは他方で、固定資産に対する下方向の評価替えを減価償却(depreciation)と呼んだから、議論が錯綜してきて出口が見えなくなっていた。この議論の混乱にさらに輪を掛けたのが、時価評価差益の配当問題である。資産を高い時価によって再評価すると、差額が「評価益」として顕在化してくるが、ペイトンはこの評価益を「純利益」(net income)に算入するという素人臭い会計処理を提案したのである。しかし、この会計処理にはすぐさま強い批判が浴びせられた。時価評価益を純利益に算入するとすれば、それは配当の財源になって、社外に流出してしまうが、それでよいのか。時価評価の対象資産には固定資産も含まれているが、固定資産の時価評価益を配当の財源にするのはあまりにも不健全なことではないか。若き日のペイトンの時価主義会計論はこのような強烈な批判を浴びて、その輝きが陰りはじめた。
*ほぼ100年前のペイトンの初期の時価主義会計論が今日の公正価値会計(fair value accounting)に類似している点に注意されたい。時価評価差益を純利益に算入するかどうかの問題が、時価評価差益を「その他の包括利益」に含めるかどうかという問題と論点が共通していることにも留意する必要があろう。
1918年ごろにはペイトンは、流動資産に関するもののみならず固定資産に関するものも、時価評価益はすべて純利益に算入するという一貫した見解を示していた。ペイトンが「若き日の理想主義」に振り回されたことの結果である(Zeff, p.105)。しかし、その後に雑誌に発表した論文Paton(1920)では(*)、この時価主義会計論はかなり後退しており、固定資産の評価益についてはその純利益算入が否定されている。流動資産の評価益についてはひきつづき純利益への算入を許容する一方で、固定資産の評価益については、生産能力の維持――
いわゆる実物資本維持――をその根拠にもちだして、純利益から除外する(資本として扱う)処理を正当化しはじめたのである。Accounting Theory(1922)の末尾にはPaton(1920)の雑誌論文の見解がほぼそのままの形で収容されたから、ペイトンの時価主義会計論は一般には煮え切らない中途半端な議論と受け止められるようになり、その説得力を落としてしまった。Zeff(1979)も、「Accounting Theoryは・・・優柔不断で矛盾していたと特徴づけられる」(p.105)と評している。
*W. A. Paton, ”Depreciation, Appreciation and Productive Capacity,” Journal of Accountancy, XXX(July 1920), pp.1-11.
第一次世界大戦後になると、地球的規模においてとほうもなく高率のインフレが進行し、時価主義会計に対する社会的需要はしだいに強くなった。当時は歴史的原価会計に縛り付ける会計規制は不存在であったから、この社会的需要を受けて、実務界ではさまざまなタイプの時価主義会計が創案され、そして実践されていたが、そのほとんどはニセモノの「時価主義会計もどき」であり、乱脈会計以外のなにものでもなかった。資産の帳簿価額を恣意的に時価に評価替えするのは、時価評価益の配当をもくろむものがほとんどで、「時価主義会計もどき」は株価の高騰を煽る手口に悪用されたのである。不健全きわまりないこの「時価主義会計もどき」の蔓延がもたらした結果が、1929年の大恐慌である。
1920年代におけるたび重なるバブル経済と乱脈会計の横行はペイトンに大きな衝撃を与え、その時価主義会計論はその根底を揺さぶられることになった(*)。ペイトンは、固定資産の評価益だけでなく流動資産の評価益をも純利益に算入する会計処理にも否定的なスタンスをとるようになり、ついには時価主義会計を公式の会計数値から補足的会計数値へと格下げしてしまった。時価主義会計に対するペイトンの固執は「1930年までに蒸発した」と、Zeff(1979, p.104)が述べているのはこの大転換を指している。
*大恐慌による固定資産の時価の下落が落ち着いてくると、固定資産会計には新しい問題が持ち上がった。1930年代には帳簿価額を下落した時価まで恣意的に切り下げ、これによって将来の減価償却費を削減しようとする不健全な会計実務が拡がりはじめた。今日の用語でいえば減損会計の恣意的な適用が横行しはじめたのである。この減損会計も当時では「時価主義会計もどき」の一種とみられていたし、またそうであるから、これもまたペイトンにおける時価主義会計論の「蒸発」を後押しする要因の1つになったといえよう。
1920年代後半にはペイトンは時価主義会計から一歩も二歩も退くことになったが、物価変動が及ぼす会計測定への影響から目を逸らしていたわけではない。事実はむしろ反対で、ペイトンは物価指数によって会計数値の歪みを補正する新しい会計技法に強い関心を示しはじめ、一般物価変動修正会計――
ペイトンの用語は「共通ドル会計」(common dollar accounting)
――の基本的な枠組みをほぼ仕上げていた(*)。しかし、この一般物価変動修正会計を公式の会計制度に採用するのにも無理があるという結論に達し、最終的にはこれも時価主義会計と同列の補足財務諸表に位置づけることになった。法令に裏付けられた公的な会計制度を確立することこそが最優先課題だとして、1930年代のペイトンは、この目標に向けてAAAを中心とする会計原則制定運動を強力に牽引しつづけたのである。リトルトン(A. C. Littleton) との共著、中島省吾訳『会社会計基準序説』(1940)はこうした活動から生まれた輝かしい結晶である(**)。
*一般物価変動会計のパイオニアは一般にはSweenyだといわれているが、Sweenyはそのアイデアはペイトンに借りたものだと述べている。Henry W. Sweeny, Stabilized Accounting (Holt, Rinehart and Winston Inc., 1936).
**W. A. Paton and A. C. Littleton, An Introduction to Corporate Accounting Standards (American Accounting Association, 1940). 中島省吾訳『会社会計基準序説』(森山書店、1958年)。
☆若き日の時価主義会計論への回帰☆
この『会社会計基準序説』は歴史的原価会計のバイブルとなった不朽の名作であり、実際原価評価原則、実現原則、費用収益対応原則によって貫徹されている。企業活動から生じたすべての実際の取引価格――
価格総計(price aggregate)
――を会計帳簿にそのまま記録するという『会社会計基準序説』の基本思考は期中の取引フローを見据えたものであり、期末一時点のストックの評価にこだわる時価主義会計論からは大きく隔たっている。しかし、過去20年以上にもわたってペイトンが固執してきた時価主義会計論が『会社会計基準序説』において本当に「蒸発」してしまったかといえば、答えはノーである。『会社会計基準序説』の「Z章 解釈」をみればあきらかなことであるが、「価値の測定」も「共通ドル会計」も、補足財務諸表という形ではあるが、なおもその命脈を保っているのである。
第二次世界大戦後には再び物価が騰貴しはじめると、この経済情勢を受けてペイトンの時価主義会計論は蘇生し、再び陽光を浴びることになる。これはAccounting Theory(1922)で展開されていた若き日の時価主義会計論が、『会社会計基準序説』において完全に「蒸発」してはいなかったことの結果にほかならない。ペイトンは1991年4月26日に 102歳で他界したが、「価値の測定」はその長い生涯を貫く太い柱の1本として残っていたのであり、『会社会計基準序説』の後においてもペイトン会計学の大屋根を強固に支えつづけたといえる。
2014.11.28
OBENET
代表 岡部 孝好
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