会計学の名著を訪ねて


 OBE Accounting Research Lab




 William Andrew Paton,
        Accounting Theory  (Ronald Press,1922) 

 

☆「ミスター会計学」☆

  「ミスター会計学」(Mr. Accounting)という愛称で知られていたのはBill Patonである。日本語ではペイトンともペートンとも呼ばれる。正式名はWilliam Andrew Paton(1889/7/19〜1991/4/26)。20世紀のアメリカを代表する会計学の巨匠であり、ミシガン大学アンナーバ校を拠点に今日の近代会計学をゼロから建設した 「ミスター会計学」そのひとである。ペイトンは大学会計教育者協会 (アメリカ会計学会AAAの前身) の設立に奔走した発起人の一人であり、1922年にはその第6代会長に就任した。また Accounting Review誌を創刊し、1926-1929年にその初代編集者を勤めた。1935年には「アメリカ会計学会」(American Accounting Association: AAA)の創設でも主導的な役割を演じ、1936年にその初代の研究デレクターとして会計原則の制定運動に精力的に取り組んだ。1953年にオハイオ州立大学の「会計の殿堂」(Accounting Hall of Fame)に肖像を飾られたし、1976年にはミシガン大学にPaton Center of Accounting Education and Researchが開設されたが、これらはいずれもペイトンの偉大な功績を後世へ伝えるモニュメントである。

☆ペイトンの青年時代☆

  ペイトンは1889年に、ミシガン州カルメットに生まれた。ウイスコンシンに移住した一時期を除き、ミシガン州イムレー近くの農場で、貧しいながらも誇り高い自立農民の子として少年時代を過ごした。少年の頃から貪欲な読書家であったといわれ、半年ごとに移動図書館から届く50冊の本を読み尽くしたという伝説が残っている。高校で1年、さらにカレッジで1年、正式な教育を受けたが、ほとんどは独学で通し、学業に身を入れはじめたのは1911年になってからのことだったという。その後は皿洗いなどで苦学を続け、1915年にミシガン大学から学士号を受けた。学生時代にペントンが最も大きな影響を受けたのは論理学と新古典派経済学の学者、F. M. Taylor であったと伝えられている。1916年にはミシガン大学より修士号を、1917年にはPh.Dの学位を受けたが、この学位論文を収録しているのがAccounting Theory(1922)である。(写真は Zeff et al., Esseys in Honor of William Andrew Paton(1979)より転載)

☆Accounting Theory(1922)との出会い☆

  わたしが神戸大学経営学研究科のフレッシュマンとなった1967年であったから、Bill Patonが1917年にPh.Dの学位を受けてからすでに半世紀がたっていたことになる。神戸大学六甲台図書館で貸出しを受け、辞書を頼りにAccounting Theory(1922)と格闘をはじめたのはその1967年の夏のことであった。こうしてAccounting Theory(1922)と出会うことになったのは、悩みに悩んだ末に、ペイトンの会計学説の研究を修士論文のテーマとすることに決めたことによっている。

  Accounting Theory(1922)の前半2/3では複式簿記の勘定理論が論じられているが、簿記の初歩を学んでいたわたしにとってはこの部分は特に難解ではないという印象を受けた。英文の専門用語にはずいぶんと泣かされたが、それも慣れてしまえば日本語と変わらず、あまり大きな障碍にはならなくなった。困ったのは50年前の会計学のフロンティアで、なぜそういうトピックが議論の種になるのか、見当がつかないケースが少なくなかった。たとえば決算時に費用と収益の見越・繰延処理をするのはいまでは当たり前であるが、半世紀前には斬新なテーマであったらしく、その技法の説明が何度も繰り返されるのには閉口した。こうした議論の中に、今日でもそのまま通じる時価主義会計論、会計公準論などが挟まっているのだから、ノート作りも容易なことではなかった。

   わたしがAccounting Theory(1922)と出会った1967年はペイトンがPh.D論文を書いてから半世紀後のことであったが、3年先の2017年になると、それからさらに半世紀が経過した計算になる。両方を足すと100年というとほうもない大きな数字になるが、その間に会計学ではいったい何が、どうなったのであろうか。実をいえばペイトンは、その間に時価主義会計から遠ざかったり、近づいたり、迷いに迷い抜くのである。

☆膨大な量のテキストの執筆者☆

  ペイトンの教歴は早くも1915年秋からはじまっており、ミネソタ大学等での経済学初等教育の経歴をへて、1919年にミシガン大学の準教授に迎えられた。1921年に正教授に昇進した後は、1959年に引退するまで母校ミシガン大学において会計学の研究と教育に情熱を注ぎ、夥しい数の職業会計人と多数の優れた会計研究者を世に送った。会計学の教材が乏しいことに気づいたペイトンは、早くも1918年に同僚のStevensonと共著でPrinciples of Accounting(1918)を出版したが、それ以降も夥しい数のテキストを、それも500頁を超える部厚いテキストを著し、全米における高等会計教育に多大な貢献をなした。主要なテキストとしては、次のようなものがある。

   Principles of Accounting(co-author with R. A. Stevenson, 1918)

   Essentials of Accounting(1938,1949)

   Advanced Accounting(1941)

   Assets Accounting((co-author with W. A. Paton, Jr.,1952)

   Corporation Accounts and Statements(1955)

  ペイトンは実務経験をもっていなかったにもかかわらず、会計実務の細部に精通しきっており、教科書に掲載されている例題、ケース・スタディは実践的な内容にきわめて富んでいたという。テキストでは実務上の会計処理にだけでなく、理論的な意味づけに意欲を注ぎ、たとえば社債の割引発行額を(繰延資産としてではなく)負債の控除科目とする処理とか、貸倒見込額を(費用としてではなく)売上高の控除項目とする処理には長々とした説明を付けるのが常であった。当時には引当金(allowance)の概念が確立されておらず、準備金(reserve)、剰余金(surplus)などと混同されがちであったが、ペイトンはこれらの用語の区別に厳しく、使い分けの説明に多くの頁を費やした。今日広く使われている会計用語にはペイトンの造語によるものが少なくなく、allowance for depreciation, allowance for uncollectible accountsといったことばはすでに1918年の教科書に載せられていたという。一般にはペイトンを資産会計が専門の「借方学者」とみるひとが多いが、研究者の間では引当金会計、負債会計、資本会計の元祖であり、「貸方学者」だと指摘するひととも少なくない。(続)

 (ペイトンの時価主義会計論は次回に掲載)


2014.09.08

OBENET

代表 岡部 孝好